4-14
春ヶ峰学園のある一室――学園長室と呼ばれる部屋だ。
そこには周囲の喧騒からかけ離れたような静寂さが満ちている。
部屋の主である和道は、机に散乱した菓子袋を片付けている。中身が入っているものは一箇所にまとめ、空袋はゴミ箱へ。
すでに大量の菓子袋が入ったゴミ袋を一瞥し、息を吐く。
と、ソファの上に置かれた毛布の塊がもぞりと動き、声変わりを迎えていない声が和道を呼ぶ。
「お手数かけてすみません」
「構いませんよ。他にすることもありませんし」
大人の余裕漂う穏やかな表情。
毛布の塊は一際大きく動き、中にいた存在が身体を起こした。
来年で高校生になると言っても冗談としか思えないほどに小柄な少年である。黒曜石を切り取った瞳は無感動に窓の向こうを見つめている。
空に蠢く雲のせいで、今が昼か夜かも分からない。増幅した不快な気が肌を撫でるのを感じ取り、「いよいよか」と息を吐くように呟いた。
ちらりと壁にかけらえた時計を見れば、二十三時四十四分を指している。作戦決行日である八月一日まで残り三十分を切っている。
「期待してるよ」
この町の運命は彼らに託されている――――。
●●●
邪念体が蠢く道を二人の人物が駆け抜ける。どちらも女である。
一人は腰の辺りまである黒髪をポニーテールにした結った和風美少女。
そして、もう一人は癖のある銀髪を無造作に流し、氷のような冷たさを持つ女性だ。
二人が過ぎ去った場所には氷漬けにされた邪念体と、焦げ付いたアスファルトが残されている。
「もう少し火力を抑えろ」
「分かってるわ、よっ」
膨れ上がった炎が寸前まで迫っていた邪念体を燃やす。すぐ傍では、冷風が別の邪念体を凍らせている。
二人が十字路に差し掛かったところで空気が一変した。
黒い雲が蠢く空と、衰退を知らない邪念体によって汚染された空気とは違い、嫌に清廉な気で満ちている。久しぶりに新鮮な空気を吸った気がする。
「ここは影響を受けていないのね」
相変わらずの単純さで結論付ける華蓮に嘆息し、流紀はやんわりと否定を口にする。
藤咲邸のように強固な結界が張られているならばいざ知らず、ここはごくごく普通の道。異常とも言えるほど清廉な空気は不釣り合いだ。
「敵の攻撃と考えるべきだろうな」
「正解。さすがね」
茫洋とした声が耳朶を打った。
人型の影が差し、顔を上げれば植物に覆われた物体が宙に浮かんでいる。肌は陶器のようなすべすべとした素材でできており、瞳は作り物めいた輝きを放っている。
人形のようなという比喩表現ではなく、人形だと確信させる無機質さを持った物体。
吐き気がするほどに清らかな空気が、何よりも流紀の確信を強いものにする。
「あたしには別の役目があるから、お人形が貴方たちの相手をするね」
ぱきっと渇いた音をたてて人形の胸の辺り、瞳と同じエメラルドの結晶が割れた。
声を発していた場所だ。人形の主らしき存在は、もう流紀たちと話す気はないようである。
「ったく時間もないってのに」
本陣突入メンバーの一人である流紀は今すぐにでも敵本拠地――春ヶ峰学園に向かわなければならない。決行時間まで三十分を切っている今、こんなところで敵と対峙している暇はない。
かといって、華蓮一人置いていくわけにもいかない現状。
「ここは私は受けてたつわ。流紀は先に行きなさい」
「お前みたいな未熟者が何を言っているんだ! 一朝一夕の技術でどうにかできるほど戦場は甘くないんだぞ」
「分かってるわよ、自分が未熟ってことくらい……。っでも、いつまでも流紀に甘えているわけにもいかないでしょ」
華蓮の言い分も分からないでもない。今まで彼女がどれだけ努力を重ねてきたのかも、よく知っている。
常であれば素直に引き下がっていただろうが、目の前にいるのは明らかにレベルの違う敵。妖退治屋になって半年も経っていない華蓮一人では歯が立たないのは明白だ。
考え込んでいるうちに、華蓮と人形は向かい合う。
「かれ――」
「こんな状況で喧嘩とは……。随分と余裕じゃないか」
軽やかな鈴の音とともに、聞こえてきた声に二人は視線を巡らせる。
皮肉めいた言葉が聞こえて数秒も経たぬうちに人形の頭が粉砕された。炎を纏った拳によって。
二人の傍に音もなく着地した乱入者は呆気にとられる友人の顔を見て、からりと笑う。
「心配性なお前のために華蓮のお守りは私が引き受けよう。流紀、お前はさっさと持ち場につけ」
「焔……。ああ、後は任せた」
「任された」
視線を交わし、流紀は身を翻す。信頼する友人を背に加速する。
遠ざかっていく流紀の気配を感じながら、「さて」と敵に向かい直す。陶器のような顔は焔によって破壊されており、今は数多の植物に覆われた胴体のみが宙に浮かんでいる。
「任すもなにも、さっきの敵は焔が倒しちゃったじゃない」
「華蓮は感知能力を鍛えた方がいいな。ほら、場所満たす空気が変わってないだろう?」
指摘され、未だ清らかなままの空気を意識する。なるほど、敵がこの空気を作り出しているのであれば、変化がないのはおかしい。
合点のいった華蓮は改めて胴体のみが宙に浮かんでいる。
「修復」
胸にはめこられたエメラルドの水晶が点滅したかと思うと、首から大量の草が生える。何ともおぞましい光景に華蓮が顔をしかめているうちに、草は人形の顔を形成する。
先程と何ら変わりない陶器のようなすべすべとした肌である。
「生体反応を検知。迎撃モードへ移行」
「鈴懸みたいな奴だな」
人形の身体に絡みついていた花が一斉に華蓮へ向けられるのを見て取り、焔は滑るように間へ入る。
高熱を持つ球体が容赦なく発射される。ガトリング銃を彷彿とさせる攻撃を、焔は全て叩き落とす。
高熱など、焔にとって馴染み深いだけのものであり、放たれたものを叩き落とすことは実に容易だ。
「華蓮、好きなように動け。サポートする」
「分かったわ」
本当なら接近戦を専門にしている焔よりも、中距離的な戦闘を主としている華蓮がサポートに回るべきだろう。しかし、特性的にはサポートに向いていても、性格的にはサポートに向いていないのが華蓮だ。
「でも、焔は大丈夫なの? 接近戦で戦ってる以外見たことないけど」
「心配は無用だ。私はこれでも桜の式だからな」
焔の言葉は謎の説得力を持っており、華蓮は「そう」と納得した様子を見せる。
華蓮にとって、桜は言葉など必要ないほどに強い存在なのだろう。案外、的を射た考えだ。
「軌道修正完了。攻撃を再開します」
同じ方向を向いていた花が各々向きを変え、先程と同じく熱を放つ球体の何かが発射される。見当違いの方向に発射される球体に眉を顰めたのも束の間、跳弾が華蓮のすぐ傍を通り過ぎる。
それを合図に、コンクリート塀やアスファルトにぶつかって方向転換した球体が次々に華蓮たちを襲う。
さすがの焔も他方からバラバラに来る攻撃すべてを打ち払うことはできない。
歯噛みし、髪を纏める桜の髪飾りに手をかける焔の前で、炎が噴出する。
「炎滝」
その名の通り、炎で作られた滝が華蓮を囲い、襲い掛かる球体を燃やしていく。
どうやら球体は人形本体と同じ植物のようで実によく燃える。
「桜の術か」
炎で滝を作り出す。敵を閉じ込めたり、防御したりするために桜が編み出した術の一つである。
術式は単純ながらも、消耗が激しい術であり、使い手を選ぶ。応用力があれば少ない霊力で行使することも可能だが、華蓮にはまだ無理なのだろう。
「お見事」
「別に大したことじゃないわ」
謙遜を口にしながらも、華蓮の頬は褒められたことにより緩んでいる。
呆れた笑みをのせた焔は髪飾りを外す。猩々緋の髪がほどけ、炎をような揺らぎを見せる。
「さてと応戦といくか」
焔の言葉に答えるように華蓮が飛び出した。その手には薄紅色の扇子。
淡い光を纏うそれを振るい、球体を打ち込む花を切り落とす。返す手で二本目、三本目と切り落としていく。
背後に迫る別の花はリボンのような炎が燃やす。焔からの援護だ。
「損傷を確認。直ちに修復を開始します」
「させないわよっ」
「攻撃を感知。防御を展開、並びに迎撃モードαからβへ移行」
扇子に纏わせた炎で本体を狙う華蓮の前に透明な膜が現れる。ギリギリのところで踏みとどまった華蓮はせめてと生成した火の玉を膜へぶつける。が、破るまではいかない。
悔しげな顔を見せる華蓮の目の前で人形の身体ががぱりと開かれた。
中から触手のようにうねる蔦が何本も現れ、逃げようと身を引いた華蓮の足にまとわりつく。咄嗟に炎のリボンが焼き払うものの、すぐに別の蔦が纏わりつく。
「追いつかないな」
隙をついて人形から距離を取った華蓮はそのまま焔に並び立つ。
「あの膜みたいのなの破れる?」
「穴をあけるくらいなら可能だが」
「それでいいわ。お願い」
首肯し、方の辺りで揺れる己の髪を無造作に掴み、躊躇いなく引きちぎる。炎へと変換され一箇所に集まり、膜の中心を燃やす。
じわじわと溶かし、ようやく膜に穴があいたところで華蓮に呼びかける。
「藤咲流剣術第五の舞――桜花」
扇子が纏っていた霊力が膨れ上がり、爆発する。薄紅に光る花弁が舞う。
霊力の花弁がくるくると舞いながら、焔によってあけられた穴から膜の内側へ入っていく。花弁は風に煽られるように動き回り、人形の身体を傷つけていく。
藤咲流剣術には、当主だけに伝わる奥義がある。代々当主になった者は新たに自分の名を冠する奥義を編み出すことで一族に認められるのだ。
そして"第五の舞、桜花"はその名の通り桜が編み出した技である。千を越える花弁を作り出し、回避不可の攻撃を行う。
人形はただ宙に浮かんでいるだけで、避ける様子は見えない。辛うじて防御のために蔦を動かすが、すぐに無数の花弁で切り裂かれた。
「これで、終わりよ」
花弁は炎を纏い、人形を包み込む。数秒も経たぬうちに焦げた匂いが立ち込める。ひびが入った膜は粉々に砕け散った。
時期を見て花弁を消せば、全身焼け焦げた人形が姿を現す。傷がつけられたところから少しずつ崩れてきているのが見て取れる。
想像以上に呆気ない終わりを見届け、息を吐いたのも束の間、崩れていた黒茶の欠片が静止する。逆再生のように欠片たちは次々に元の場所に戻っていく。
数万のピースをすべて一発ではめ込み、パズルを完成させるような緻密さだ。
「修復完了まで残り三十秒」
背筋が凍るような感覚に陥る。
あの状態からでも回復するのか
瞠目する華蓮は手を引かれ、得心のいった顔をする焔の横に並ぶ。
「あいつは式のようだな」
「式って焔みたいな……」
「そうだ。式は核を破壊しなければ倒せない」
核には、外付けのものと中付けのものがある。
外付けならば、この場にない可能性が高い。他ならぬ、焔のように。
焔を含めた桜の式の核は、主の許に置かれている。
強固な結界の中、当代一を関する妖退治屋のもとにだ。
それだけ聞けば、桜の式は死ぬことのない最強の存在である。しかし、死なないだけだ。注がれた霊力が尽きてしまえば、実体を保つことはできなくなってしまう。
殺すことはできなくとも、行動不能にする方法はいくらでもあるということだ。
「核なんてどこにあるのよ」
「おそらくは本体の奥深くに潜んでいるんだろうな」
一目見ただけでは、外付けか中付けか判断ができることはできない。
こうして焔が推測できたのは、人形が多用している治癒の術のお陰だ。
治癒の術は消耗が激しい。外付けであれば、消耗の激しい治癒の術を多用することは控えるだろう。
もし仮に、人形が外付けならば、製作者は相当の完璧主義者か、人形へ異常な愛着を持っているかのどちらかの限られる。
前者の場合は自動修復のような術を組み込んでいるだろうし、後者ならば製作者本人が近くにいるはずだ。周囲をそれとなく探ってみたが、それらしい気配は見当たらない。
「つまり、その核を表に出して破壊すればいいってことね」
焔の説明で納得がいったらしい華蓮が頷くと同時に修復を終えたらしい人形が牙を向く。
無表情だった陶器の顔が心なしか笑っているように見える。獲物を見つけた殺戮者のような無邪気さで。
「殺戮モードへ移行。今より全ての生物を排除します」