4-4
月とともに帰路につきながら、星司はずっと考え込んでいた。
この一週間、自分が何をするべきか。
実力も、経験値も、レオンや海里どころか華蓮にも劣る自分に今できることを必死に考える。自ら志願したからには、足手纏いにだけはなりたくないのだ。
そうして岡山邸が見えてきたところで、星司は唐突に足を止める。
「王様のとこ、行ってくる」
今までの星司は剣道を基盤にした戦い方をしていた。
剣道は二本の剣術をもとにした競技であり、間違いではない。現に海里の戦法も剣道を基盤にしたものだ。
しかし、星司にとって剣道はあくまでスポーツの一種。つい同じ条件を課せられた相手と戦うという思考に縛られてしまう。
スポーツとしての側面しか知らない星司からしてみれば、剣道だけで生死をかけた戦いをするのは正直心もとない。本気の戦闘で、相手が剣道のルールをきちんと守ってくれることなんてないのだ。ましてや妖相手だと尚更。
今の星司に必要なのは剣道とは違う、殺し合いのための戦闘術。
さわりだけであるが、それを星司の与えてくれたのは月の父親にして春野家現当主。春野和幸だ。教えを乞うなら彼以外にはいまい。
ならば、行動あるのみだ。
「うん。いってらっしゃい」
「ああ」
笑顔で星司を見送った月は一人で、岡山邸までの道を歩む。
月は星司以上に戦うための術を一つとして持っていない。
今から身につけたとしても、一週間でできることなど限られている。結局はただの足手纏いだ。
だったら。
「あ、有紗さん」
ちょうど玄関から出てきたのは、岡山家の長女である岡山有紗だ。
あまりにも良すぎるタイミングに少しだけ笑ってしまう。
「お願いがあるんですけど」
直接、敵を戦うことだけが役に立つ道ではない。
例えば、治療。難しい知識を身につけることができなくとも、応急処置程度ならば今からでも間に合う。
現役の医大生である有紗は教えを乞うにはちょうどいい相手だ。
こっそり勉強して、みんなを驚かせる。
そんな些細な悪戯心と決心を胸に、月は有紗に頭を下げたのだった。
●●●
重厚感のある椅子に腰かけているのは、一点物のスーツを着込んだ男性。見た目だけでいえば二十代後半だが、実際は四十歳である。
処理済みの書類が積み重なる机に頬杖をついた彼の目は鋭く細められている。
春野家当主にして、貴族街の王こと春野和幸に向かい合う形で立っているのは、寝癖だらけの髪と眠たげな瞳を持つ少年、星司。
星司は今しがた、和幸に戦闘の指南を頼んだのだ。
何故か、嫌な緊張感が漂う一室。そこにはもう一人、ある人物が存在していた。
壁に寄りかかるようにしてことの次第を見守るのは、星司の弟であり、和幸の協力者である少年だ。
双方に深い関わりを持つ少年は無表情の中に薄い微笑を含ませ、漂う緊張感を楽しんでいる。
悩んでいるふりを見せる和幸は、ちらりと少年こと健へ視線をやり、口角を上げた。
「分かった。引き受けよう。ただ……」
嫌な予感でも感じたのか、健は弾かれたように視線を和幸の方へ向ける。しかし、もう遅い。
「ただ、俺は非っ常に忙しい。代理として健を教育係に任命する」
「はあ?」
聞いたこともないような健の声が室内に響いた。
和幸の言葉よりも、健の反応に驚いた星司はただ驚きを隠せないでいる。
「王様が頼まれたことでしょ。なんで俺が」
「言っただろ? 俺は忙しいんだ。暇で暇で仕方がない健君に代理を頼んでも問題ないだろう?」
「大ありです。俺、暇じゃないですし、教えるとか向いてませんし」
「お前はやれば出来る子だ。頑張れ」
常の無表情を崩し、いつもの余裕さが一切感じられない健の姿を見るのは新鮮だ。
呆気にとられる星司を他所に二人の攻防は続く。
「なら、その間に仕事をいれないって誓えますか」
「流石に俺の一存じゃあな。ま、お前ほど優秀なら大丈夫だ」
「根拠のない言葉で納得できるほど、俺は従順じゃないので。……はぁ、でも仕方ないですね」
様々な感情を映していた漆黒の瞳が瞬きとともに無機質なものへ変化する。
「スノバの新作」
「分かった」
「と糸うさぎの商品全種」
「…………分かった」
糸うさぎとは、一週間ほど前、駅前に新しくできたケーキ屋の名前である。
近いうちに足を運ぶつもりだったのでちょうどいい。値段までは把握していないが、和幸が払えないということはないだろう。
「交渉成立ということで。じゃ、兄さん」
「はいっ!」
すっかり蚊帳の外で二人の会話を聞いていた星司は急に名前を呼ばれて反射的に背筋を伸ばす。
そんな星司を見た健の口元が弧を描いた。
初めて見る弟の、自然で柔らかい笑みに圧倒された星司はただ無言で健を見つめる。
「早速、授業を始めよーか」
「あ、ああ」
移動する気はないらしい健に和幸は物言いたげな視線を送る。
和幸の視線に健が気付いているのは明白で、それでも敢えて気付かないふりをしているのは、役目を押し付けられたことへの報復だろう。
小さく息を吐き、引き出しから未処理の書類を取り出し、目を通す。完全に仕事モードへ移行した和幸は横目に、健は星司に向き直る。
「単純に剣術を磨くってのも悪くないけれど……時間もないし、ここはやっぱり霊力の使い方を覚えた方がいーかな」
「霊力って、華蓮さんとかレオンさんとかが使ってた……?」
「間違いではない、けれどレオンさん場合は妖力と呼ばれるもので、霊力とはちょっと違うんだよ。術が扱いやすいように最適化されたものって言えばいいかな」
選ぶように言葉を並べていく。
「これから兄さんに教えるのは、レオンさん達が使ってるものより遥かに簡単だから安心していいよ」
押し付けられた役目ではあるものの、手を抜くつもりはない。待ち構えている報酬のためにも。
「イメージ的には藤咲流剣術、それも初歩の初歩に相当する。簡単に言えば、武器に霊力を纏わせて戦うものだ」
言うが早いか、いつの間にか健の腕にはナイフが握られている。もう片方の手には透明なキューブ。
「このキューブは簡単に切れないようになってる」
刃をキューブに当て、ゆっくりと引く。
キューブは切れるどころか、傷一つついていない状態だ。
「でも、霊力を纏わせると」
光を纏った刃先がキューブの上を滑れば見事に真っ二つに割れる。
役目を終えたナイフとキューブは現れたときと同じように突然消える。
「ただ霊力を纏わせるだけじゃこーはいかない。キューブを切るためには、切るという命令式を霊力に与える必要があるんだけれど……ま、今は難しく考えずに俺の言ったとーりにやってみて」
「分かった」
またもや唐突に現れた玩具のナイフを手渡される。プラスチックで出来たナイフだ。間違っても殺傷能力があるようには思えない。
「まずはイメージ。目を瞑って、ナイフの刃先を意識する。そして、刃先に光の粒を纏わせる。一つ一つが物質の切り裂く力を持った光の粒を」
目を瞑り、健の言葉通りにイメージする。
闇の中にぽっかりと浮かんだナイフ。その刃先には光の粒が集まっている。
蛍が群れを作っているような光景だ。
「いー感じ。じゃ、次は目を開けてやってみて」
開いた先に広がるのは少し前と変わらない和幸の仕事場の姿。
自身の手に握られているのは健から渡された玩具のナイフ。その刃先を意識して、先程と同じようにイメージする。
「あれ?」
眼前で繰り広げられる光景はイメージとは程遠いものだった。
ちらほら光る粒がナイフの刃先を待っている。
理由が分からず頭を捻れば、光の粒は目に見える形で減っていく。
「考えすぎ禁止」
目の前のナイフとだけ向き合い、考え込んでいた星司の耳に届いた言葉。
「こーゆーのは考えれば考えるほど上手くいかないものだよ。初めてでそう簡単にできるものでもないし。筋は悪くないから考えすぎないで、練習あるのみってとこかな」
「……考えすぎない」
玩具のナイフへ視線を落とす。
考えすぎない。イメージ。光の粒。切る。
ふわりと光の粒が舞い、集い始める。が、数秒も経たぬうちに四方へ散った。
こんな感じで何度も挑戦しては失敗を繰り返す星司を、無機質な瞳が見つめている。
思案気に視線を送っていた健は、ふと数度瞬きをする。そして、和幸の方へ振り返った。
「少しの間、席を外します。三十分後には戻ってくるので、それまでよろしく」
「ん? ああ、分かった」
ひらひらと手を振り、健は隣の部屋へ通ずる扉の向こうへ消えた。
「健、どうかしたんすか?」
自分が何かしたのではという不安が星司の中で膨れ上がっている。
何度も失敗を繰り返す星司に愛想を尽かしたのかもしれない。と。
今日はいつもより柔らかいとはいえ、健の表情は非常に読みづらいため、余計に気を揉んでしまう。
「仮眠を取りに行っただけだ。最近は徹夜続きだったからな」
「徹夜続きって、王様――」
「俺も、健の上司として、健康的な生活を送れるよう気を遣ってるつもりだ。が、こればかりはどうしようもないとしか言えんな」
「どうしようもないなんて言葉で片付けないでください」
健は最愛の弟で、病弱だから生活習慣には気を遣わないといけないはずで、それを乱された怒る権利は星司にはあるはずで。
言い訳がましい言葉ばかり浮かんでは消えていく。
本当は怒るつもりはなかった。魔が差した。いや、多分そんな単純なものではない。
嫉妬だ。
星司の知らない表情をいとも簡単に引き出してしまうことに。
健の些細な感情の変化をも簡単に読み取ってしまうことに。
踏み込むことを恐れ、仮初の関係だけを大切にしてきた星司には決してできないことだから。
傲慢で、身勝手な嫉妬心を和幸は微笑で受け入れる。
「俺はこれでもお前に期待しているんだぞ」
「期待……?」
和幸が自分にどんな期待をかけているのというのだろう。
しかし、その答えを得ることはできなかった。和幸の執事によって来客が告げられたからだ。
「通してくれ」
短い返事とともに扉が開かれる。
現れたのは星司の弟であり、健の双子の弟である悠だ。
「こんにちは」
空気の読めない溌剌とした声が室内に響く。
和幸は苦笑を浮かべ、これを受ける。
「健なら隣の部屋だ」
「もしかしてお昼寝中ですか。うぅ、今行ったら殺されそうですね」
分かりやすく肩を落とした悠は、初めて星司の存在に気付いたように視線をやる。
落胆を表していた表情が一気に晴れ、子供を連想させるような無邪気な笑顔に変わる。
「兄さんも来てたんですね。あっ! それ、懐かしー。もしかして健兄さんに霊力の使い方を教えてもらってたんですか」
「あ、ああ。悠もしたことあるのか」
悠の勢いに押され、燻ぶっていた熱が冷めていく。
「そうなんですよ。習得するのにすっごく時間がかかっちゃって……それでも健兄さんは練習に付き合ってくれたんですよね。ああ見えて、根は優しい人ですから。でもでも、こんなこと言ってたってばれたら怒られちゃうので内密に」
「怒られるって」
「健兄さんは照れ屋さんですからね。ふふふ、可愛いですよね」
とめどなく溢れる言葉。
健とは違い、隠し事が苦手そうなタイプだ。
「健が寝ててよかったな」
小さく呟かれた和幸の言葉に悠の顔はみるみる青くなっていく。目元には僅かに涙が溜まっている。
「健兄さん、隣にいるんでした。ど、どうしましょう。あの地獄耳なら絶対に聞こえて……わああ、怒られるぅ」
自ら怒られる理由を増やしていっているようにも思える星司である。
悠の乱入により場の空気が和んだところで、星司は玩具のナイフへ向き合う。
大事なのはイメージ。考え過ぎないこと。
ふわりと玩具のナイフが仄かな光を纏う。イメージよりも遥かに美しいその光景に見惚れるように息を吐いた。
「凄いです! 僕はそこまでいくのにすごく時間がかかったのに。やっぱり才能って奴ですかね」
悠が興奮気味に言葉を並べたてるのと対するように星司の心は酷く落ち着いていた。
同じく光を纏う玩具のナイフを眺めていた和幸は物言いたげに悠を見やる。
「ほんと、お前は……」
「ん? なんですか、王様」
「嫌な奴だよ」
「ええー、なんで意地悪言うんですか。……健兄さんみたい。うぅ、ひっく、酷いですぅ」
目に溜まった涙を拭う悠の変わりように、和幸が嘆息すると同時に扉が開かれる。
現れた健は無表情の中に気怠さを滲ませ、悠を見つめている。そして流れるように、星司の手元へ目を向ける。
「あ、成功したんだ。おめでとー」
いつもに増して淡白なのは寝起きのせいだろうか。
「ちょっと、健兄さん! なんで僕のこと無視したんですか」
「うるさい」
耳元できゃんきゃん吠える悠に顔を顰め、鬱陶しげに見やる。
「で、なんで悠がいるの?」
よくぞ聞いてくれたというように胸を張る悠。
「健兄さんを探して三千里してきたんですよー? 健兄さんってば、いっつも行き先言わずにどっか行っちゃうんですもん。ボケてるんですかね」
「……」
「そういえば、健兄さんを探してる途中で、すごく美人さんに道を聞かれたんです。黒髪で、切れ長の目で、黒いふりふりのワンピースを着てて……今まで見た中で一番の美人さんでした」
「そ」
「あ、僕の話聞いてませんね。ダメですよー。人の話はちゃんと聞かないと。そんなんだから健兄さんには友達が少ないんです」
「はいはい」
見ていて面白くなるほどに対照的な二人だ。
すらすらと言葉を並べたてる悠に対して健は話を聞いているのかいないのか曖昧な返事をするのみだ。
互いに相手の反応に深く干渉はせず、それでいて不思議とコミュニケーションは成り立っているように見えるのだから不思議な双子である。
健を探している間の出来事を嬉々として語る悠をスルーし、健は星司へ向き直る。
「んじゃ、次の段階にいこーか」
「ああ……いや、いいのか」
「ん、なにが?」
どうやら健は悠を無視することに決めたようである。
苦笑を露わにする星司も極力、悠を意識の外に追いやるよう努める。
「次はこれ」
星司から玩具のナイフを借りた健は逡巡の後に斜め後ろに向けて一閃。
未だに喋り続ける悠へ鋭い剣撃が放たれる。
「わっ」
しゃがむ悠の頭上すれすれを通り過ぎた剣撃は和幸が生成した簡易結界によって受け止められる。
犠牲になった悠の髪の毛が数本、床に散らばった。
「なんで僕を狙うんですか!」
「そういう技はここでするな」
二人分の非難を受けながらも、健が悪びれる様子はない。
作り物と分かる笑みを浮かべて応じただけだ。
「さっきのが出来たらそんなに難しくはないと思うよ。纏わせた光を飛ばすだけ」
「……飛ばす」
イメージする。
手元に戻った玩具のナイフが光を纏う。そして剣先から光が離れたと思うと、一瞬で霧散した。
二、三回繰り返したが、同じように光は消えるばかりだ。
もう一度。光を纏わせ、離れさせようとすると霧散する。
「充分、難しくなってる気がするんだけど……」
「練習あるのみ、だよ。筋は悪くないから頑張って」
「僕よりは全然上手ですよー、さすがです」
双子からの声援を受けながら何度も挑戦し、同じ数だけ失敗を重ねていく。
そうこうしているうちに外はオレンジ色を纏い始める。
「時間も時間だし、宿題ってことで。無理はしないようにね」
「ああ、お前らは……」
「まだ少し用があるから」
「僕はお目付け役ですから、健兄さんの用事とやらが終わってから一緒に帰ります」
弟二人といくつか別れの言葉を交わした星司はそのまま部屋を後にした。
遠ざかる星司の気配が春野家を出たことを確認してから、健が口を開く。
「それで、件の美人さんは何か言ってた?」
「分かったわ。ご褒美、楽しみにしてる、とのことです」
大して似ていない声真似を披露したことについては言及せず、「ふーん」と素っ気ない言葉を返す。
考え事に没頭し始めた健の邪魔をしないように悠は窓の方へ視線をやる。
「ここまでする必要あるんですかね」
「あるよ。あの町は俺にとって重要な場所だし」
微かな呟きは健の耳にも届いていたようだ。
悠は無邪気な表情で健に答える。よく変わる表情は悠のトレードマークだ。
あからさまな誤魔化しに評を述べることはなく、すぐに話題をシフトさせる。
「そろそろ下準備に移ろーかな」
無邪気な笑顔が一瞬で不満に塗り潰される。表情がころころ変わる悠ではあるが、今回はどこか違って見える。
「健兄さんがそこまでする必要はないと思いますけど」
「さっきも言っただろ」
「重要な場所だから、ですか? 分かってますけど……せめて、王様がもう少し紅鬼衆を貸してくれたら、負担も減るでしょうに」
非難の矛先は、書類仕事に勤しむ和幸へ。
「紅鬼衆は貴族街防衛の要だ。史源町を守るためだけに動かすことはできない。健がここに残るなら話は別だが」
「僕的には残ってくれた方がいいんですけどね」
二人の視線を一身に受けた健は我関せずの表情で受け流す。
健が貴族街に残り、代わりに紅鬼衆を派遣しても勝率はさほど変わらない。けれど被害の数は大きく変わってくる。
どうせなら被害が少なくなる方を選ぶべきではないか。
正義感からではなく、利己的な感情からくる健の判断をはっきり否定することは悠にはできない。
できるのは頬を膨らませ、子供のように不満を訴えるだけだ。
「なんでまた、そんなに反対してるんだ? 健が危険な作戦を立てるなんていつものことだろ」
「そうですけど」
「今までに比べたら比較的安全な方ではあるし」
「そうですけど」
大きく頬を膨らませ、珍しく大反対している悠に和幸は眉を寄せる。
基本的に悠は内容がなんであれ健の考えには全て肯定する。中には表面的な肯定であることを滲ませることはあっても、明らかな否定をすることはない。
「後一週間も経たずにあの町には邪気が蔓延することになる。そんなところにいてほしくないんだよ」
口を噤む悠に代わって答えたのは健だ。
「ま、俺の作戦通りにいけば、かなり抑えられるわけだけれど」
あっけらかんと答える健をジト目で睨む悠は「そういう問題じゃないです」と囁かな声で返した。
健は普段は無表情の顔をにこやかなものに変える。空気が変わる気配がした。
「いつまでも駄々を捏ねないの、ね?」
口調は飽くまで穏やか。聞き分けのない子供に優しく言い聞かせているようにも見える。
真正面からそれを受け取った悠は生唾を飲み、口をもごもごと動かす。
「悠」
「分かり、ました」
首肯で答えた健はすぐに悠から視線を外し、眉を寄せたままの和幸へ目を向ける。
「お騒がせしました。俺らはもう帰ります」
丁寧に頭を下げて、春野家を後にした。
残った和幸はたった数時間だけで起こった問題の数々に思考を巡らし、嘆息を漏らす。
「あいつらは面倒事ばかり増やしやがって」
知らぬ存ぜぬを突き通せる事ばかりであるものの、それができないのは和幸がお人好しだからというわけではない。
責任があるからだ。当人たちは否定するだろうが、彼らの関係を歪なものにした原因は和幸にもあるのだから。
●●●
無邪気に遊ぶ子供たちを意味もなく眺めていた男性の視界を何者かが遮る。
珍しく私服姿だったので誰なのか判別がつかず、風紀員と書かれた腕章と生真面目そうな顔を見てすぐに合点する。
数分ほど前に待ち合わせした相手である少女に、隣に座るように促す。
「いやぁ、私服だから誰かと思ったよ。女の子ってのは化けるものだね」
いつも会うと言ったら平日がほとんどで、男性の中で彼女のイメージは制服で定着しているのだ。
「で、聞きたいことって何かな? 自分に答えられることならいいけれど」
「もうご存知かもしれませんが」
そんな前置きののちに少女が語る話を聞きながら、男性はまったく別のことを考えていた。
かわいい服だなとか、相変わらず真面目だなとか、そんな他愛もないことを。
少女の言葉通り、男性は少女の話す内容も、少女が何を知りたいのかも知っていた。
尋ねたのは飽くまで形式的なもので、少女もそれを分かって話している。自分で聞いておきながら、不真面目な態度を見せる男性の態度に気にもとめず、形式のためだけに話す少女の真面目さを男性は愛おしく思っていた。
「なるほど。だから、わたしに聞きにきたわけか」
「ご存知ですか?」
「自分は知らないけれど」
男性の瞳が銀色の輝きを纏う。
「うん、知ってるよ。和心ちゃんの頼みだから、報酬はなしにするよ。いつものことだけれど」
銀色の目を輝かせながら、まるで見てきたかのように語る男性の言葉に和心は無言で耳を傾ける。