3-15
浮遊しているような感覚がおさまると華蓮は自身の家の前に立っていた。
辺りは真っ暗で、空には小さな光が瞬いている。妖界に行く前はまだ明るかったのに、今はすっかり夜だ。
こんな時間まで出歩くことが稀な華蓮は、少しだけ入り辛さを感じながら限界を開ける。
「華蓮、おかえりなさい」
ひょっこりと顔を覗かせた百鬼が明るい表情を見せる。
彼女によると、鞄を届けにきたレオンが華蓮の帰りが遅くなる旨を母に伝えてくれていたらしい。
母に怒られる可能性がなくなったことに安堵すると同時に、後でレオンにお礼を言わなければと心のうちにメモする。
「夕飯、食べるでしょ? 温めてもらってくるわ」
言うやいなや、百鬼は居間の方へ向かっていく。その後に続こうと足を踏み出した華蓮は、すぐに踵を返して自室へ向かう。
ほんの少しの期待を込めて引き戸を引くが、そこには誰もいない。
数か月前にあってから、当然のように居座っていた銀猫の姿がないことに肩を落とす。
仕方がない。朝もいなかったし、学校にもついてこなかったので、何となく予想はできていたことだ。
「お祖母様の部屋かしら」
謝りたいと思いながらも、さすがに祖母の部屋まで行くのは気が引ける。
悩む華蓮の後ろに温かい空気が吹き抜けた。耳を擽るのは、聞き慣れた鈴の音色。
「帰ってたのか」
あっさりとした声の裏で何かが「ぐえっ」と呻き声を上げた。
首根っこを掴まれて運ばれ、今しがた華蓮の部屋に捨てられた何かは焔に向かって牙を向く。
「何するんだっ。お前だって私の意見に賛成のはずだろ」
「悪いが、私は桜の式なんだ。あいつの決めた事には逆らえない」
主には絶対服従。それは焔が式として生まれたときに術式に組み込まれたルールの一つ。
故に、どんなに納得していない事柄であろうとも、焔は桜に逆らうことはできない。
「なら、せめてそこをどけ。抗議してくる」
「無理だ。お前を止めるように言われている。それに、聞き入れると思うか」
反論する言葉を思い浮かばない流紀は小さく唸る。
聞き入れてもらえなかったからこそ、流紀は今ここにいる。散々、抗議しても涼しい顔で受け流され、しまいにはうるさいと部屋から連れ出されたのだ。
「あの」
不穏な気配を漂わせる二人を交互に見た華蓮は躊躇いがちに声をかける。
すぐに流紀から視線を外した焔は華蓮が差し出した腕輪の方へ目を向ける。水晶が連なった腕輪だ。
「これ、お祖母様にって」
「そうか、お前は妖華のところに行っていたんだったな。分かった。渡してこよう」
苦笑を滲ませながらも、腕輪を受け取る焔。
腕輪が意味することを悟った流紀の表情が明らかに不機嫌なものに変わる。
「私は桜の許に戻る。華蓮、そいつのことは任せた」
軽く片手を上げた焔を見送り、華蓮はしかめっ面をしている流紀へ視線を向ける。
迷いを孕んだ視線を受けた流紀は瞬きとともに猫から女性と姿を変える。
癖のある銀髪を背中に流し、寒色の着物に身を包んだ女性。彼女の表情は、猫のときと同じようにかなり険しい。
焔との会話を聞く限り、桜の部屋で何かあったのだろう。予測しつつ、尋ねることは敢えて避ける。
「流紀」
細められた藍白の瞳がこちらを向き、心臓が大きく跳ねた。
出かかった言葉を思わず飲み込みそうになるのを堪え、震える声で言葉を続ける。
「その、昨日はごめんなさい」
「気にしてない」
静かに息を吐き出した流紀は思考を切り替え、華蓮に向き直る。
「だが、反省はしろよ」
華蓮の教育係を任された身としては、これ以上みっともない姿を見せるわけにはいかない。
変わらず納得は行かないままだが、動き出したことはこれ以上どうすることもできない。流紀にできることは、出来得る限りサポートするだけだ。
今までそうしてきたように。
●●●
一晩経ち、いつものように登校していた海里は校門の前に人影を見つけた。
誰かを待っているようで、傍を通る一人一人を睨むような目付きで見つめている。
話しかけるべき迷っているうちに、海里の存在に気付いた彼女に声をかけられた。
「待っていましたの」
傲岸な口調で告げる人物に海里は「おはよう」と笑顔を見せる。
昨日の出来事のことが脳裏を過ぎり、いつもの穏やかな笑顔は少しばかりぎこちない。
感情を露わにするということが少ない分、昨日のあれを思い出しただけで羞恥心が湧いてくる。
「返しますの」
海里の胸中に巻き起こる羞恥の感情にはまったく興味ないとでもいうように、竹刀が差し出される。
見た目だけいえば、ごくごく普通の竹刀。しかし、その正体は伝説の妖具――龍刀と呼ばれるものである。
持ち主の意志に応え、その性質を大きく変化させる刀。
選ばれたものにしか扱うことができず、海里から奪ったはいいものの、響には扱うことはできなかった。
もし、龍刀を扱うことができたならばと考え、振り切るように頭を振る。
どんなに強い武器を揃えても、きっと自分は妖の王には勝てない。武器以上に、今の響ではまだまだ実力が足りない。
そう分析できるくらいに、響は冷静さを取り戻していた。これも夏藍と、目の前にいる人物のお陰――。
不本意ながらも、その事実を認めた響は静かに息を吐き出し、海里へ向き直る。
「一つ聞いていい?」
傲岸さを纏う口調ではなく、響本来の口調での問いかけに海里は静かに首肯する。
「貴方は、なんで龍刀を使えるの?」
響には扱うことができなかった。響は選ばれなかった。
昨日、聞こえてきた話によると、海里は半人半妖なのだという。
人間と妖の間に生まれた特別な存在。それが理由なのであれば、自分は一生選ばれることはない。
もし、もしも、違う理由であれば。響にもまだ可能性が残されているのであれば。
「それは……選ばれたからだよ」
悪戯っぽく告げられた言葉は酷く抽象的で、抱いた一縷の望みをあっさり打ち砕く。
あまりにも的確で、容赦のない一撃を喰らった響はそれでも気丈に振る舞い、「そう」と小さく呟く。
「用は済んだから、もう行きますの。言っておくけれど、昨日のことは忘れなさい。それと――」
迷うように視線を彷徨わせる響を後押しするように、胸元で青い光が瞬く。
「ありがとう、武藤君」
頬を赤く染め、聞こえるか聞こえないかの声で呟いた響は、ずぐさま身を翻し、校門の中へ入っていく。
「上手くいかないな」
あの答えが今の海里にできる最善策だった。本当のことを言えば、響はこちら側に来ることを望んだだろう。
それは海里にとっては避けたい事柄で、結果的に響を傷つけるような物言いになってしまった。
「そういうものですよぉ。なんでも完璧に、なんて誰にもできませんから」
艶めかしい声とともに現れたのはクリスだ。近くにいるのは知っていたので、別段驚きはしない。
昨日、一人で自由に動き回っていた海里であるが、本来護衛なしに動き回ることが許されない身である。
処刑部隊の幹部とも言うべき三人は、海里の護衛役であり、同時に監視役でもあった。
ただの妖と人間の間に生まれたというだけではここまではされない。これは、海里の母親が妖界の王であることに起因する。
他の妖に狙われないように、そして、海里が余計な真似をしないように。
昨日のような行動は海里の立場を怪しくしかねないものだ。せっかく、妖華や処刑部隊の尽力のお陰で、こうして普通の人間としての生活を送れているのだから、これからももっと気をつけて行動しなければならない。
窮屈さはある。けれど、それ以上に自分は幸せ者だと心から思う。
「お、海里じゃねぇか」
聞こえてきた声に振り返る。
「おはよう、星司」
3章はこれで終わりです