3-10
今回は短め
某マンションの一室へ帰宅した響はスクールバッグを無造作に投げる。
一度は教室に戻った響であったが、胸中に残る動揺と、形容しがたいもどかしさに早引けしたのだ。
折り畳み式のテーブルの上に造られた簡易的な仏壇に向かい合い、響は静かに腰を下ろす。
仏壇に置かれた写真立てには、一部が焼け焦げた写真が納まっている。写真にはまだ幼い二人の少年少女が写っている。顔立ちがよく似ているところに見ると、兄妹だろうか。
「お兄ちゃん、ただいま」
傲岸不遜な皮が剥がれた響は、無邪気な笑顔を浮かべる写真の兄妹と対照的な空虚な表情を宿している。死体を連想させるような不気味さを兼ね備えている。
当然、返事が返ってくることはなく、降り立つ沈黙を全身で浴びながら、思い出したように立ち上がり灯りをつける。
「夏藍」
呼びかければ、胸元で揺れる瑠璃の玉が瞬き、一人の少年が現れる。
響よりも少し幼い、縹色の髪と目を持つ少年。
「響、大丈夫だった? すごく心配したし」
響が倒れたせいで霊力の供給が絶たれ、姿を現すどころか、外の状況を知ることもかなわなくなっていた。
妖具は使用者からの供給がなければ、何もできないガラクタになってしまうのだ。
「ええ…大したことないわ。……あれくらい」
「良かった。でも、元気ないね。何か――」
「なにも……なにもないわ」
言い聞かせるような口調で返し、幼い自分の横で笑う兄へ目を向ける。
たった一枚、唯一残っている兄の写真。
他の写真は悪夢のようなあの日に全て燃えてしまった。忘れたいけれど、忘れることなど許されないあの日に。
瞼の奥にこびりつくのは真っ赤に染まった兄の姿。同時に嗜虐的なあいつの声が鼓膜を震わせ、響の憎悪を刺激する。
あいつ。家を燃やし、兄を殺し、響の幸福を全て壊したあいつ。快楽のためだけに響を生かしたあいつ。
地獄のような状況の中、浮かべられていた笑みと、身の丈を超える巨大な鋏。忘れない。
「絶対、絶対に、あいつだけは私の手で殺しますの」
今まで退治してきた妖は数知れない。少しでもあいつの情報を得られるよう、史源町だけに留まらず、様々な町を回って妖退治をしてきた。
けれど、一度としてあの男の噂を耳にしたことはない。十年近く経ってなお、手掛かりはゼロだ。
悔しげに唇を噛み、祈るように強く目を瞑る。
己の復讐心を奮い立たせているともとれる行動だ。
「あいつを殺して、妖の王を殺して……そして、お兄ちゃんを」
あいつの情報を得られなかった代わりに、響は妖退治屋に伝わるある噂を耳にした。
それは、妖の王を殺せば願い事を何でも一つ叶えることができるというものだ。
その噂を聞いた日から、響の目標は兄を殺したあの妖を殺すことのほかに、妖の王を殺すことも追加された。
「そのためにはまず、あの嘘つきな妖から情報を聞き出さなければいけませんの。この際、手段は構っていられませんわ」
「……響」
「夏藍にも今まで以上に働いてもらわなければなりませんの」
「響が望むなら、僕はいつでも全力を尽くし」
夏藍の言葉に満足した様子の響はふと窓の方へ目を向ける。
カーテンの隙間から漏れた陽の光を認め、逡巡の後にカーテンを開けるために手を伸ばす。
安売りをしていたものを適当に買った藍色のカーテン。奇しくも、忌々しいあの妖の髪色を同じであることに気付き、カーテンを掴む手を強める。
「こんなことなら別の色にしておくべきでしたの」
微かに揺れる藍色に、倒れたときのことを思い出す。
無意識に伸ばした手で触れた背中の感触が今更ながらに思い出され、複雑な感情が胸の中で渦巻く。
収まりつつあった動揺がまた強まったように思え、恨むべき対象の妖と最愛の兄を重ねてしまったあの時の自分を今すぐにでも消し去りたい。
部屋の隅にはあいつから奪った妖具が転がっている。
名は龍刀――妖具使いの中で伝説とも言われる妖具。遥か昔、存在していたという最強の妖退治屋が造ったというその妖具は、使用者の意思に合わせて形状を変えるという。
竹刀の形を取っている龍刀を拾い上げ、霊力を注ぎ込む。
「なんで」
いくら霊力を注ぎ込もうとも、龍刀は応えてくれる兆しは一切ない。
「何で応えてくれないの。これさえあれば、これさえ使えれば、きっと……妖の王にも勝てるのに」
実力不足なのは知っている。いくら、妖の王の弱点を聞き出したとしても、今の響ではまともに戦えはしないだろう。
だからといって、諦めることはできない。響には何としても叶えたい願いがある。
「勝たなきゃいけないの、絶対に、絶対に。っだから、応えてよ」
「響、もう――」
際限なく霊力を注ぎ込む響を引き留めようと夏藍が触れたと同時に光が室内を包み込む。
「きゃっ」
「響!」
伸ばした手は空を切り、強い光によって視界は白に塗りつぶされていく。
互いの姿をまともに認識できない状況の中、夏藍は必死に響の姿を探し求める。
「夏藍、どこに」
周囲を見渡すが、すぐ傍にいたはずの夏藍の気配が一向に掴めない。
焦りが胸中を支配し、必死に夏藍の名前を呼ぶ。
その時――。
「えっ」
夏藍よりも遥かに小さいシルエットを見つけた響は、いるはずのないその姿に息を呑む。
無邪気な笑顔を響へ向ける彼は、紛れもなく仏壇の上に飾られた写真に写っていた少年だ。
「お兄ちゃん!」
「響――」
縋るように前へ踏み出した瞬間、兄の表情が歪む。
「約束したのに。響が出てこなければ俺は……」
兄の額からドロリと赤い液体が垂れ、白い空間を響の大嫌いな色に染め上げていく。
胸元に咲かせた赤い花が嫌に綺麗で、足元には胸元にあったはずの青い石が転がっている。
夏藍が宿るその石は二つに割れ、本来は美しい青色のはずが、白く濁っている。
「響のせいで、俺は死んだんだ」
「響がいなければ、あんなことにはならなかったし」
「ごめんなさい、ごめんなさい。お兄ちゃん、ごめんなさい。私、ただ――」
座り込み、謝罪を口にする響の前に新たな影を差す。
釣られるように顔を上げれば、忌々しい男が忌々しい笑みを浮かべて立っている。
「お前が! お兄ちゃんを! 殺してやる」
「何言ってんだァ。オ前の兄貴を殺したのはオ前だろ」
「そんなこと――」
ふと視線を落とせば、男が持っていたはずの巨大鋏が響の手元に収まっている。
切っ先は血で濡れており、目の前には真っ赤に染まった兄の身体が転がっている。
「あ、あああああああああ」
「目を逸らすンじゃねェよ。その鋏で、オ前が兄貴を殺したンだぜ」
「嘘!」
「嘘じゃねェ。覚えてンだろ」
肉を裂いた感覚が明確な姿で戻ってくる。そして、兄の絶望的な顔が――。
「いやあああああああああぁぁぁぁぁあ」
つんざくような悲鳴と共に室内を支配していた光はおさまっていく。
ようやく室内の輪郭が鮮明になった中、床に倒れ伏した響を見つけるなり、焦った表情で傍に駆け寄る。
「響、響!」
呼吸は安定しているものの、その表情は苦悶で満ち溢れている。先程の悲鳴と言い、夏藍の中では今までにないほどの不安がせめぎ合っている。
と、霊力の供給が絶たれたのか、夏藍の姿が唐突に掻き消える。
部屋に一人取り残された響は胸の奥に刻まれたた悪夢のような光景を眺め続ける。
「おに、ちゃん」