3-7
一年二組。海里は件の少女――折笠響が所属する教室の前に立ち止まる。
自分が呼んでもこないことは分かっているので、手近にいた生徒に声をかけ、響を呼んでくれるように頼む。
数秒も経たぬうちに姿を現した響は、海里の姿を認識するなり、顔を不愉快そうに歪める。
「私に何の用ですの」
刺々しさを隠そうともしない響に苦笑を返す。逃げられないだけマシだ。
「場所、変えてもいいかな」
他の生徒も大勢いるここでは込み入った話はしづらい。
眉間に皺を寄せ、いっそう不機嫌そうな表情を見せる響であったが、渋々といった態度で受け入れる。胸元で揺れる、夏藍の眠る青い石を握ったのは警戒の表れだ。
よほど妖が嫌いなんだな。まるで他人事のように考える海里は裏庭へ響を案内する。
目的地に辿り着き、向き直った海里へ、響は「それで?」と隠そうともしない剥き出しの刃で尋ねる。
「龍刀を返してもらおうと思って」
あまりにも直球すぎる言葉に、鼻で笑うことで答える。
そんな言葉だけで返すと思われているのならば、舐められたものだ。
「あれほどの上物、返すわけがありませんの。そもそも、契約印がない以上、貴方のだったというわけでもありませんし」
式や妖具を使うには、それらと契約することが必要になってくる。契約が完了すれば、契約印と呼ばれる一人一人が持つ固有の印が刻まれるのだ。所有物に自分の名前を書く行為に近い。
契約印が書かれているものを奪い、使用するのはご法度されている。しかし、龍刀には契約印が書かれておらず、響が盗んだと断言することはできない。
強気な態度で押し切ろうとする響に対するのは、内心を覗かせない穏やかな笑み。
「そこを突かれると痛いな。……でも、折笠さんじゃ、龍刀は使えないはずだ」
「っ馬鹿にしているんですの!」
図星を突かれた響は大きく身を乗り出す。反動で揺れた青い石が蛍光灯の光を浴びて一瞬だけ瞬いたように見えた。
実は、龍刀を手に入れた響はすぐに契約をしようとして拒否されているのである。今まで様々な妖具と契約してきた響であるが、あんなことは初めてだ。
仕方ないと契約しないままでと使おうとしたものの、いくら霊力を注ごうとうんともすんとも言わなかった。
「龍刀を使うには条件がいるんだよ。折笠さんには、その条件を満たすことはできない」
「……!」
やはり馬鹿にされているとしか思えない。窘めるように明滅した青い石によって、響はこれ以上の怒りを露わにすることはなく睨みつけるだけで我慢する。
そして、不思議そうな表情で、青い玉を見つめている海里に気付き、無知さを嘲笑するように鼻を鳴らした。
「この世に二つとない貴重な妖具なんですの」
「それに、あの男の子が宿っているんだね」
「ええ。とても便利な道具なので重宝していますの」
得意げに胸を張る響に、海里は驚きに目を見開いて瞬きをする。
気に入らない反応に眉を顰める響を見て取り、海里はすぐに取り繕うようにして口を開く。表情は既にいつもの笑顔に戻っている。
「あ、いや……とても大切にしてるみたいだから、……道具って言葉がしっくりこなくて」
「っ夏藍は道具です! それ以上でも、それ以下でも…っ……ありませんの!」
沈黙を貫く青い玉に心を揺らしながらも、響は飽くまで高慢な態度を取り続ける。
自分の弱さに気付かれないように。強い自分でいられるように。
「気を悪くしたなら、ごめん」
「妖ごときに謝ってもらう必要ありませんの。龍刀を返す気は一切ありませんし、私はもう行きますの」
最高潮に達していた怒りを何とか抑え込み、立ち去ろうとする響を引き留めるのは穏やかな海里の声。
こんな時であっても、少しの動揺も感じさせない。それが尚更、響の怒りを膨れ上がらせる。
龍刀を扱うための条件とやらを教えてほしいという気持ちもあるので、仕方ないと歩みを止めて海里に向き直る。彼が良い顔している今がチャンスだ。
「あまり手荒な真似はしたくないんだ。だから――」
「分かりましたの」
息を吐くような呟きを聞き、海里の表情が晴れる。といっても、やはり表情はあの笑顔だ。
「そこまで言うなら返してあげますの。条件を呑んでくれたら、ですけれど」
「俺にできることなら」
真摯に向けられる隻眼から逃れるように目を逸らし、鼻を小さく鳴らす。強気な自分を取り戻す合図。
海里と対峙しているといつの間にか解けそうになっている強さを上書きし、見下すような目をくれてやる。
「簡単なことですの。妖じゃない、貴方には」
漂う微弱な妖気が柔らかく肌を撫でるのを無視しつつ、高慢に告げる。
「妖の王について知っている情報を教えなさい」
息を呑む音が聞こえた。
穏やかな笑顔が外れ、見開かれた隻眼に宿る感情を見て「やっぱり」と口の中で呟く。
妖じゃないとあれほど言っておきながら、妖の王を裏切る行為は避ける。所詮、この男は妖だったということだ。
人間を騙す醜悪な妖の化けの皮を剥がした快感に浸る響が、もっと追い詰めてやろうと口を開いたその時。悲鳴にも似た絶叫が響き渡った。
「夏藍! 先に!」
「分かったし」
煌めいた青い玉から中学生くらいの少年が出現する。軽々と海里の上を跳躍した少年は黒衣をたなびかせながら、あっという間に妖気の発生場所――生徒玄関の方へ駆けていく。
それに続こうとする響は、睨むような目付きで海里を一瞥する。
「最近、妖が多いのは貴方のせいですの?」
軽蔑だけを押し出した声に言葉を返すよりも速く、響は海里の横を通り過ぎていった。
数秒の間を置き、我に返った海里は夏藍と響の二人に続くようにして、玄関の方へ向かっていく。
二人がいなくなったことで無人となった裏庭に、ある人物が姿を覗かせる。華蓮だ。
響と海里が歩いているのを目撃した華蓮は、悪いと思いながらも二人の後をつけてきたのだ。断片的ではあるが、二人の話も聞いていた。
「海里は……妖、なの?」
分からない。けれど、先程までの話を聞く限りでは海里が妖だという事実の信憑性は高まってくる。
だって、人間ならば妖の王についての情報を与えても差し支えないはずで。言えないってことは、そういうことではないか。
混乱している頭を抱えて、華蓮は妖退治屋として使命感から、海里達が向かった方へと歩みを進めていく。
妖探知機を失った華蓮には、妖気を辿って場所を特定するという芸当はできないので、少しでも海里に追いつけるよう、歩く速度を上げる。
「ここにいたか」
下の方から投げかけられた声に反射的に目を向け、銀色の毛並みを持つ猫を見つける。
レミとの関係に整理がつき、本性でいることが増えた流紀ではあるが、学校では猫の姿を取っている。流紀的にも、華蓮的にもこっちの方が楽なのだ。
「華蓮、玄関だ」
「分かったわ」
短い言葉に短く返し、銀猫を肩に乗せる。
目的地を得たことで足取りは自信のあるものとなり、駆け足で生徒玄関へ向かう。
消しきれない混乱に頭の中を支配されている華蓮は、どこか浮かない顔をしている流紀の表情に気付かない。
●●●
ここは春ヶ峰学園の屋上。下界を見下ろすようにして佇んでいるのは、二人の女性だ。
瓜二つの顔は、浮かべる表情のせいか、まったく違う印象に見受けられる。
風にそよぐ露草色の髪は二つに括られており、それぞれ雫と雪の結晶をモチーフにした髪飾りを付けている。
周囲には水の塊がスライムを連想させる動きで蠢きながら、己の肉体を形作っている。最終的におたまじゃくしに似た姿で落ち着く。
「初めましての挨拶は、派手に、派手にいかないといけませんわ。きちんと覚えていただけるように」
舞台に立つ女優のような大仰さで語るのは、左側に立つ女性だ。口元を嗜虐的に歪め、澄んだ湖畔を連想させる瞳を鋭く細めている。
赤い舌を覗かせ、艶めかしく蠢かせ舌なめずりをする。
「期待」
「あの方の血を引いているのですから、きっと、きっと、私達を存分に楽しませてくれることでしょう。嗚呼、嗚呼。それにしても何と素晴らしい状況、状態、様態なのでしょう。私、とぉーっても興奮してきましたわ」
「同心」
興奮に身を捩る女性に対して、返ってくる言葉は平坦なものだ。
己の欲望をそのまま表に出す左側の女性とは対照的に、淡白にして無表情を浮かべる右側の女性。彼女をよく知る人にだけ、彼女の機嫌が上向いていることが分かる姿だ。
左側の女性は同じ顔に映る別の表情に見惚れるように目を細め、右手で相手の頬へ触れる。手首につけられた鈴が動きに合わせて、ちりんと涼やかに音を鳴らす。
対照的な顔が向かい合い、同じ色の瞳が交差する。
そして、――薄いピンク色の唇が重なる。
「んっ」
狂おしく、艶めかしく、二つの舌が激しくうねりながら、互いの唾液をかき混ぜる。
口の端から零れる唾液には気にもとめず、ただただ互いの愛を供給しあう。
二人の舌が絡み合うたびに全身を駆け巡る快感が頬を赤く染め、己の欲望を高める。
もっとと求める心をそのままに、永遠のような数秒を堪能した二人は互いの唇を離す。
紅潮した頬と、唇を照らす唾液が官能的な様相を描いている。
「さあ、さあ、さあ、さあっ。揺れ動く心を掻き回し、掻き乱し、私達の大好きな姿へ彩って差し上げるといたしましょう。邪魔者が来ないとも限りませんし」
「準備万端」
「始めるといたしましょう。素敵で、無敵な私達の自己紹介を。失敗だなんてことは許しませんわ。欲望のままに暴れまわることこそが貴方たちの役目ですの。私達を楽しませてくださいまし」
その言葉に呼応ように、水のおたまじゃくし達は己の身体を歓喜に震わせる。そして、下へ、下へ、春ヶ峰学園の生徒玄関の方へと泳いでいく。
生みの親の欲望に答えるだけに存在する水のおたまじゃくしは目当ての人々を見つけ、己の力を振るい始める。
「銀猫」
小さな呟きに、初めて気付いたように顔見知りの猫を注視する。
「そうでしたわ。あの娘には、猫がついていたのでしたね。気付かれてお仕舞だなんてつまらないことにならなければ良いのですけれど」
「杞憂」
愛おしい半身の声に怪訝な表情を浮かべる。けれど、それも数秒だけの間だ。
すぐに何を言わんとしているのか察し、歓喜と自信に満ち溢れた表情で己の顔を彩る。
「そのようですわね。妹のことにしろ、あの娘にことにしろ、世話好きというのは大変そうですわね。心から同情いたしますわ。けれど、お陰で私達は好きなだけ堪能することができますわ。ありがたいことです」
「肯定」
自分が生み出した水のおたまじゃくしに翻弄されている下界の人々を楽しげに見つめ続ける。