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ここは春野家のある一室。俗に執務室と呼ばれる部屋である。
応接用に備えられた椅子には二人の人物が向かい合うようにして座っている。剣呑な雰囲気は感じられず、世間話をしているような穏やかな空気が流れている。
一人は屋敷の主である春野和幸。
もう一人は初老の男性で、名を白鳥才蔵という。月にトラウマを植え付けた張本人である白鳥文子の夫である。
本日、彼が春野家を訪れたのは、文子が訪れた際の些細ないざこざの謝罪である。
もっとも、当初の目的はとうに果たされ、今は和幸の子供、才蔵には孫にあたる子たちについての談義である。
頬は緩みっぱなしで、繰り広げられる会話は親バカ、爺バカ全開といっても過言ではない代物だ。傍に控える龍馬も思わず苦笑を浮かべてしまう。
「こんにちはー」
ひょっこりと窓から顔を覗かせるのは小柄の少年。サイズの合っていないパーカーに身を包む少年こと健は才蔵の姿を見つけると、無機質な瞳を少し丸くする。
来客があることも、それが才蔵であることも、入る前から気配で気付いていた。でなければ、こんな登場の仕方はしていない。
わざわざ驚いたような仕草を見せていることに大した意味はない。強いて言うなら、場の流れを読んだのである。
慣れた様子で窓を飛び越え、部屋の中へ入る。土足でも構わないような床なので、靴は履いたままだ。
「才蔵さん、来てたんですか」
「ああ、少し用事があっての。それよりも、才じいと呼んでくれと、言っとるじゃろう?」
健のことを毛嫌いしている文子とは違い、才蔵は友好的過ぎるほどに友好的だ。
まるで自分の孫のように可愛がってくる才蔵を、健は少しばかりこそばゆく思う。
「そうそう。甘い菓子を持ってきてあるからのう」
ほれ、と超名店の饅頭を健の前に二つ、三つと重ねていく。
和幸も和幸で、これ見よがしに口元をにやつけせ、龍馬に貰い物のお菓子を持ってくるように言いつけている。
状況を面白がっている和幸を軽く睨み、健は「伝言してきた報告をしにきただけだから」と努めて素っ気ない声を出す。
「まあまあ、少し休んでいけよ」
座れとでも言うように、己の隣を軽く叩いて見せる和幸。
いつもなら「お断りです」とあしらって立ち去るところだが、純粋な善意を覗かせる才蔵を前にするとそうもいかない。
和幸をもう一睨みし、小さく溜め息を漏らす。
「いーです。用があるので」
机の上に並べられた饅頭を二つほど手に取り、健は入ってきた時と同じように窓から出ていく。引き留める間を与えない素早さだ。
ちなみに用があるというのは嘘である。才蔵のことは好ましく思っているし、彼一人ならば残っても良かったが、和幸が一緒なら話は別だ。
二人の世間話もとい子供談義の肴にされるのは御免である。
和幸には嫌がる健を面白がっている節があるから尚更。
去っていく健を残念そうに見送った和幸は、「言い忘れておったんだが」という才蔵の前置きに楽しげな笑みを消して向き直す。
「明日、文子がここに来るかもしれん」
苦々しい言葉に眉を寄せる。
明日といえば、和幸が月を呼び出した日でもある。文子と月の関係性を理解している和幸の表情は僅かばかり曇る。
「それは……どういったご用件で」
「本人は謝罪といっておったが、わしには何とも言えんな」
「……そうですか」
呼び出しの日を明日に設定した自分を激しく後悔する。こんなことなら別の日を選べばよかった。
今から日にちを変え、健に伝言し直してもらうか。
そんなことを考えたところで和幸は己の考えを否定する。
ムキリの事件を経て、月は変わったのだという。直接、目にしたわけではないので何とも言えないが、曰く心の闇に向き合う力を手に入れたと。
ならば、トラウマを克服する機会を潰すことは親の役目ではない。
(月なら大丈夫だ、きっと)
●●●
妖界から戻ってきたレオンはレミの荷物を部屋に届けた後、一息つこうとコーヒーを片手に適当な席に着く。
テーブルの上には無造作に書類が置かれており、自然な流れでそれを見遣る。
書類はムキリが起こした事件に関する報告書のようだ。大方、レオンが先に帰ってくることを見越したクリスが置きっ放しで出掛けたのだろう。
今日は藤咲邸で、和心から話を聞くことを知っているレオンは嘆息する。
「まったく」
一応、重要書類なのだから、もう少し管理に気を配るべきではないだろうか。
バラバラになっていた書類を整え、軽く目を通す。書いてあるのは、人間界で起こっていたことについてだ。
妖界に戻っていたレオンは事件の概要について知るのは実はこれが初めてだ。ちなみに、妖界での出来事は報告書に纏め、既にクリスに提出済みだ。
怠惰な性格の割に仕事の出来は完璧で、報告書には一切の不備がなく見やすく纏めてある。普段からこういう面を見せてくれるとレオンも楽で助かるのだが。
期待するだけ無駄なことに再び嘆息し、書類を読み進める。
「声……?」
無意識に声が零れる。
ムキリが追い込まれた際に聞こえてきたという声。
脳内に直接響くようにして聞こえてきたその声は、様々な声が複雑に絡み合っているようで、奇妙な懐かしさを感じさせると報告書には書かれている。
正体は不明。これの主の気配は一切感じなかったと。
「あれ? レオン、帰ってたんだ」
「お邪魔してまーす」
考え事に没頭していたレオンは二つの声によって現実に引き戻される。
「海里様……。クリス様はどちらに?」
「上に行ってたから自分の部屋じゃないかな。それ、この前の報告書?」
「はい、いろいろと気になる点が多いですね――」
いつもの流れで会話を続けようとしたレオンは星司の姿を見咎め、一度言葉を切る。
その場にいた星司は部外者ではない。ただ、不用意にこちら側へ引き入れるのは避けるべきという考えが働いたのだ。
「それで、星司さんは何故ここに?」
「伝言ついでに明日の作戦を考えようと思いまして」
疑問符を浮かべるレオンを前に言葉を続ける。
「明日の十時に、レオンさんとレミさんは中央門に集合ですって。俺と月もなんすけど。なんか、王様が大事な話があるらしくって、嫌な予感しかしないんで」
他人をからかうのが好きで、常に飄々としている和幸であるが、身内には情の厚い一面を持っている。
娘である月は言わずもがな、レミは和幸にとって姉のような存在である。そんな二人が脅かされたムキリの事件は、和幸にとっても他人事では済まされない出来事である。
「いくら作戦を考えても、あの方の前では無意味だと思いますが」
「ですよねー。ま、自分の非は分かってますし、甘んじで受けるつもりではいるんすけど」
結局、星司がここに来た理由は分からないままで、微かに眉根を寄せる。
意味ありげな言葉を並べて、はぐらかす姿は健を連想させる。曲がりなりにも兄弟といったところか。
「ぶっちゃけた話をすると、一度来てみたかったんすよ。いっつも集まるといったら、華蓮さん家ばっかだし」
あっさりと本当の理由を打ち明けた星司に、いろいろと考え込んでいたレオンは心中で苦笑する。
殺伐とした世界に順応していると、ついつい相手の言動を深読みしてしまう。
「思ってたより普通の家っすねー」
「……どんな家を想像していたんですか」
「もうちょい秘密の組織っぽいのかなーと」
他愛もない会話を続けながら、星司は興味津々といって体で視線を巡らせる。
生活感を感じられないほど片付いた部屋はモデルルームと言われても納得できる様相だ。
いつでもこの家から出ていけることを暗示しているようにも感じられる。
「んじゃ、俺は帰るわ」
「もう少しゆっくりしていけばいいのに」
「いいよ。俺がいたら仕事?の話とかできねぇだろ」
レオンが持っていた書類を視線で指し示し、にやりと笑う。
そして、見送りは不要というように手を振り、出ていこうとした星司を海里が呼び止める。
「踏み込んでもいいんだよ」
穏やかな口調で投げかけられた言葉に、目を大きく見開いた星司は、すぐに苦々しく目を細める。
「俺、お前のそういうとこ苦手だわ」
「ははは、ごめん」
笑い交じりの謝罪を背中で聞きながら星司は部屋を出ていく。今度は引き留めなかった。
息を吐き出し、レオンの方へ向き直った海里の表情は完全に仕事モードに切り替わっている。
「レオンはあれの正体についてどう思う?」
「そうですね。今のところ、帝天と考えるのが一番妥当だと思います」
「うん。多分、それで間違いないだろうね。妖華様にも確認しておくべきかな」
帝天。
それは、この世界の創造主にして、神生ゲームの創始者である存在。万物を創る力を持つ神である。
ムキリが言っていた"あの方"が帝天ならば、本来なら大した力を持っていない彼が吸収能力を得ていたことにも説明がつく。
「やはり、神生ゲームが関与しているんでしょうね」
処刑部隊が、海里が史源町に訪れてから事態は急速に動き出しているように感じる。
――彼が帰ってきたのはたぶん偶然なんかじゃないんでしょーね。
いつだか健が言っていた言葉の意味を改めて実感させられる。
おそらく、海里が史源町に帰ってきたことは仕組まれたことであり、神生ゲームが本格始動する引き金になっていたのだ。他ならぬ帝天の手によって。
「海里様?」
「ん?」
深く考え込んでいるようだった海里の隻眼が瞬く。
仄かに感じた影は消え去り、レオンは喉まで出かかっていた言葉を飲み込む。
「何でもありません」
自分の意志で関わっているレオンと海里は違う。本人がいくら拒否しようとも、知らぬ存ぜぬを貫いても、事態は海里を含めて動いていく。
妖華は海里を神生ゲームに関わらせることを避けたがっている節がある。レオンも同意見だ。
本音を言えば、史源町に戻ってくることも避けたかった。けれど、そうも言っていられない状況であることも事実だ。
どうしたって世界は絶対に海里を逃がしはしないのだ。
海里は神生ゲームのことをどう思っているのだろうか。
こちらに向けられている隻眼は妙に落ち着いており、内心を悟ることは難しい。
「この件については私の方からカガチさんに聞いておきます」
「うん、お願い」