3-2
折笠響による襲撃から三日ほど経ったこの日、藤咲邸で和心から話を聞くことになっている。
互いにタイミングが合わず、和心とはあれから一度も話していない。今日のこともメールを通じて都合のいい日を設定したのである。
午前中は和心も、海里達も部活があるため、午後一時に集まるという約束だ。
約束の時間までまだ幾ばくかあり、流紀は特に何をするでもなく縁側に座っている。今は猫の姿ではなく本性に戻っている。
「あ、流紀ちゃん」
声につられるようにして扉に視線を寄越した流紀は挨拶代わりに片手を上げる。猫のときの癖だ。
数十年もの間、猫の姿で過ごしてきた流紀は未だにその時の癖が抜けきらないのだ。
金に近い琥珀色の髪が肩口の辺りでさらさらと揺れている。三日月の髪飾りが彼女の可憐さをより引き立てている。
ムキリの事件の後、月は腰の辺りまであった髪をばっさりと切った。本人曰くけじめ、らしい。
何のけじめなのかは流紀の預かり知らぬところではあるが、以来、月は少しずつ変わってきてるように思う。
今までは遠慮していた妖関連の事柄に積極的に参加することが良い証拠である。何より、笑顔が変わった。
「今日はねー、マカロンを作ってきたんだ」
話し合いだったり、鍛錬だったりに積極的に顔を出すようになった月は時間あれば、お菓子を作ってくることが多い。
じゃーんと見せびらかすように目の前へ突き出された箱を見れば、薄いピンク色のマカロンが丁寧に並べられている。普通に店で売っていそうな出来だ。
「ラズベリー味だよー」
お洒落な料理やお菓子には疎い流紀は毎度毎度、月の持ってくるお菓子に感動する。
一体、どうやって作っているのだろうか。
疑問が浮かぶが、きっと聞いても理解はできないので言葉にはしない。
「あら、おいしそうね」
「食べ過ぎると太るっすよ。ただえさえ、最近は月の菓子をばくばく食ってるんすから」
「うるさいわね」と星司に言葉を返しつつ、和菓子の詰め合わせを持った華蓮が現れる。ちなみに、この詰め合わせは藤咲堂で売られているものだ。
月の参加により、やけに充実しはじめた茶菓子を一瞥した星司は縁側に腰かけ、そのまま背中を後ろへ倒す。
初夏にしては心地いい日の光を受けながら、一人微睡む。
「月、髪飾りが曲がってるわよ」
「え……ほんとだ」
三日月の髪飾りを直す月を眺めつつ、華蓮は口元をにやつかせる。
「にしても、星司君にしてはいい趣味してるわよね」
そう、この髪飾りはデートの際に星司が月へプレゼントしたものなのだ。
お互いの良さを潰しあうこともなく、むしろ月の可憐さを引き立てる髪飾りは月によく似合っている。星司のセンスを窺わせる一品だ。
気恥ずかしさがこみ上げてきた星司はなるべく女子二人の会話から意識を逸らす。
星司の心情を知ってか知らずか、女子二人は話題を変えるつもりはないらしく、耐えきらなくなった星司はなるべく自然な形で立ち上がり、部屋を出ていく。
「星司? どうしたの」
ここで海里と遭遇する。突然、部屋から出てきた星司に目を丸くする海里を見て、己のタイミングの悪さを恨めしく思う。
後ろに立つクリスが「可愛らしい顔してるわねぇ」と色っぽく笑っている。
「星司がそんな顔するなんて珍しいね」
「うるせー」
なんとなしに状況を察した海里は悪戯めいた表情を浮かべてみせる。
嫌な予感をして一歩横へ移動する星司の腕を無理矢理に掴み、共に部屋の中へ入っていく。
制止の声に聞こえないふりをする海里は生き生きとしていて、星司は諦めたように息を吐いたのだった。
どこか達観したものを目元に滲ませたクリスは、普通の高校生らしい海里の姿を目に焼き付けるように見つめる。
「あと一人のようねぇ」
部屋の中へ足を踏み入れたクリスは、視線を巡らして呟く。
普段ならレオンかレミ辺りがついてきているところをクリスが来ているのは、二人が今、妖界にいるからである。近いうちに帰ってくるだろう。
「そろそろ来るんじゃないかしら」
「あの性格なら遅れてくるってことはないだろうしな」
むしろ、五分前、十分前には到着していそうだ。
そんな考えを肯定するようにインターフォンが響き渡った。
華蓮が腰を上げるより先に百鬼が応対している声が微かに聞こえてくる。
主のもとを離れているだけはなく、率先して藤咲家の手伝いをしている百鬼の姿を少々疑問に思わないでもない。
四角いちゃぶ台の上には月のお手製マカロン(ラズベリー味)、藤咲堂の和菓子(詰め合わせ)、和心が持ってきたお菓子(高価そう)が並べられている。
集まった七人はそれぞれ好きな場所で自由に座っている。窮屈どころか、まだ数人入れるくらいの余裕のある華蓮の部屋である。物が少ないのも一つの要因だろう。
「お茶よ」
お盆に人数分のお茶を持って現れた百鬼は、良いように使われていることに気付くよしもなく、ちゃぶ台の上にコップを並べていく。
役目を終え、「ごゆっくり」とやけに満足げな顔で部屋を後にする百鬼である。
いつの間にか、そんな百鬼に慣れてしまっている流紀は、簡単に受け流しそうになった自分に気付き、我に返る。
(おかしいよな、これ)
流れを塞き止めるわけにはいかないので、ツッコミは心の中で。
当の本人どころか、主である和幸ですら気にしていなさそうなので、これ以上深く考えておくことは止めておこう。
「では、本題に入りましょうか」
流紀の小さな葛藤など露ほども知らない和心が口を開く。視線を巡らせて周囲の反応を窺ったのちに、次の言葉を紡ぐ。
「私と折笠さんは二年前に妖退治中に出会いました。丁度、彼女がこの史源町に越してきた年です」
年上の者が数人いるため、和心の口調は初めて会った時とは異なり、敬語である。
「越してきたって、なんか理由でもあったんすかね」
「親しい間柄というわけではないから、詳しいことは知らないわ」
後輩用に口調をシフトさせた和心は、申し訳なさそうに眉を少しだけ寄せる。
本当に少しだけなので余程、観察眼に優れていないと気づかないレベルである。
「てか、龍月先輩も妖退治屋なんすよね」
首肯する和心に、星司は流紀の方へ視線を寄越す。
注がれる視線に初めは訝しげな流紀だったが、すぐに星司の言わんとしていることを察したのか口を開く。
「心配はいらないだろう。信用にあたる性格のようだし」
以前、流紀は華蓮に妖退治屋であることを不用意に言うなと忠告したことがある。妖だけではなく、同業者である妖退治屋からも命を狙われる可能性があるからと。
星司はそのことを思い出し、華蓮のことを心配してくれていたようである。
和心にせよ、響にせよ、同業者を殺すという発想はないだろうと流紀は推測している。響の場合は、妖に味方するなら問答無用といったところもあるが。
「人殺しは絶対にしないとは言えませんが、風紀を乱すような行為だけは絶対にしません」
星司と流紀の会話で事情を察したらしい和心がきっぱりと言い放つ。
その言葉の中には、風紀を正すためなら人殺しもするという意も含まれている。果たして、何人が気付けただろうか。
恐ろしいほどに迷いのない口調に感嘆の息を漏らす流紀。
「お前は呪符使いなのか」
話題を変えるための問いかけに、華蓮が怪訝そうな顔をする。
そういえば、その辺の話はまだ華蓮にしていなかった。ばたばたしていたせいで、疎かになっている妖退治屋講座のことを頭の隅で思い出した。
「妖退治屋の種類の一つだ」と簡単に説明を施し、和心の答えを待つ。返ってきたのは肯定。
「にしては、変わった呪符だったようだが……?」
「厳密に言えば、私の使っている物は呪符ではありません。便宜上、呪符使いと名乗っていますが」
呪符使い――専門的に呪符を扱う妖退治屋のことである。呪符を作るのには高度な技術が必要な上、残りの枚数を考えながらの戦闘を余儀なくされるので、数が少ないと言われている。
桜のようにオールラウンダーな者も幾人かいるが、大抵の妖退治屋は呪符使いのように一つの事柄を専門として扱っている。
華蓮は術使いといったところだろうか。
「折笠さんは妖具使いです。妖具は特殊な力を持った道具を指します。主に、妖を退治するために作られたものがほとんどです」
「俺が持っていた龍刀も妖具の一種だよ。今は奪われてるんだけどね」
そういった事情を詳しく知らない華蓮達のために解説をする和心に、海里は曖昧な表情で捕捉する。
「妖具使いってことはあの、夏藍っていう奴も妖具って解釈でいいのか? 人型の妖具なんて聞いたことないが」
式と言われた方が素直に納得できそうだ。
人型の妖具ならば、人間もしくは人型を取れる妖を材料に使っているということになる。禁忌とも言うべき行いであるし、何より胸糞の悪い。
「恐らく。私は折笠さんが首から下げている瑠璃色の石が本体だと考えています」
妖具の造り方を知っている面々の表情は険しい。
どういった経緯で造られたかは知らないが、人間もしくは妖を材料に妖具を作るという発想は受け入れがたい。
胸に蟠る不快さをわざわざ共有しようとは思えず、華蓮達に話すということはしない。
「よくあんな女に従おうなんて思えるわね」
「契約した時点で妖具の意志はあまり関係ないんだが……まあ、契約は妖具自身が使用者を認めている必要があるからな」
完全に否定もできない華蓮の意見に流紀はどこか微妙な顔してる。
「俺は悪い人には思えないけど」
平然とした呟きに華蓮は驚いて、海里の方を見る。
もっとも響からの被害を受けたと言える海里がそんなことを言うなんて信じられないのだ。
「殺されそうになったのよ。なんで、そんなこと言えるの!?」
「あれは……俺にも非があったわけだし」
「非ってなに?」
尋ねる華蓮の声は戸惑いで震えていた。
海里は妖である。自信満々な響の言葉が与えた衝撃は、華蓮にとっても、星司にとっても、決して小さいものではなかった。
否定も肯定もしない海里の態度が余計に華蓮を混乱に陥れた。否定してくれたのならば、素直に海里の言葉を信じることはできたのに。
「海里が妖ってのは本当、なの?」
早鐘を打つ鼓動と対照的に、場の空気が凍り付いた。
本当のことを言ってほしい。そんな感情が込められた華蓮の声を聞いた星司は真剣な表情で海里を見る。
知りたい。けれど、知りたくない。
「……それは」
「これ、おいしーですね。さすが、月さん」
場の空気を読まない声が上がり、全員の視線がそちらに向かう。
そこには月お手製のマカロンを小動物を思わせる仕草で食べる健の姿があった。
「なんで、健君がいるのよ」
「ごめん。私が入れちゃった」
今まで会話に入ってこなかった月による自己申告。
どうやら、全員が話に夢中になっている間に百鬼によって案内されてきたらしい。
話の腰を折るのも申し訳ないし、かといってずっと部屋の外にいさせるわけにもいかず、結果的に黙って健を中に入れたのだった。
見れば、クリスは気付いていたらしく呆気にとられる面々の中、妖艶に微笑んでみせる。
健の登場により、場の空気は完全に乱された。
凍り付いていたはずの空気は弛緩しており、少し前までの会話が遠く彼方に追いやられてしまったような気分だ。
「で、何の用かしら」
「王様から伝言を頼まれたんですよ。ちょーど、華蓮さん家に集まってるって聞いたんでやって来ました」
ちゃぶ台の上に並べられたお菓子を値踏みするように眺めたのちに答える。健の手には藤咲堂特製の饅頭がおさまっている。
「伝言って?」
皮と餡の味わいを楽しむ健は視線を巡らせ、最後に月と星司を見る。
「兄さんと月さん…あと、ここにはいないみたいだけど、レオンさんとレミさんは明日の十時、中央門に集合です。あ、朝の十時ですよ。大事な話があるらしーです」
「大事な話?」
「この前の事件に関することらしーよ。兄さんとレオンさんは覚悟しといた方がいーかもね」
最後の一欠片を口に入れた健は意味ありげに笑い、「じゃ、伝えたよ」と早々に立ち上がる。
「ありがとう」
「お礼を言っているよーじゃ、ダメですよ」
「そう、だね」
他のメンバーには聞こえないような声で言葉を交わす健と海里。
苦笑する海里は、邪魔されたことに安堵している自分の弱さに呆れてしまう。決心したはずだというのに。
ふと、視界に舞う金色を追う。
怒気を孕んだ隻眼が射殺さんばかりに健を睨んでいる。
〈あいつは、また――〉
もっとも心配をかけたくない人物に、また心配をかけてしまった。小さな罪悪感が胸を過る。
カイの怒りを一身に受けながらも、健は気にするふうもなくその場を去っていく。
見えていないのだから当然の態度であるが、おそらく健ならば見えていても同じ態度をするだろう。
「それで、折笠さんのことだけれど」
かき乱された空気を引き締めるような声が紡がれる。
ここに集まった理由を思い出し、いつの間にか脱線していたことを自覚する。
今日の目的は、和心から折笠響という人間についての情報を聞くことである。命を狙われている以上、知っていることに越したことはない。
もちろん、プライベートに関わるところまで知ろうとは思っていないけれど。
「彼女にとって妖は嫌悪の対象です。恐らく、また武藤さんや蜘手先生に仕掛けてくることは、間違いないでしょう」
「ねぇ」
各々苦笑や難しげな表情を浮かべる中、月が声をあげた。
「響ちゃんはなんで妖が嫌いなのかな?」
「何かしらの因縁があると考えるのが普通だが……一概に言えんな」
どこか残念そうな表情をする月に、やけに艶めかしい仕草のクリスが抱きつく。
「種族が違うってだけでも嫌悪の対象にはなるものねぇ。分からない相手は怖いし、気持ち悪いものだもの」
「それは……少し、寂しいな」
「仕方のないものなのよぉ。でも、貴方がそお思ってくれることで、救われるものだってあると思うわぁ」
健気な月の言葉にクリスは肉厚な唇を緩める。
クリスが孤独を味わっていてときに月のような存在に出会えていたらよかったと密かに思う。
けれど代わりに、愛する弟や、今のクリスの根幹を作る力強い言葉に出会えたのだから、今の世界に文句はない。
「あらあらぁ、しんみりしちゃったわねぇ」
おどけるように呟くクリスによって、空気は少しだけ明るさを取り戻す。
「私にも折笠さんが妖を嫌っている理由は分かりませんが、彼女が妖退治屋になるきっかけとなった事件が原因だと推測はできます」
「事件?」
「折笠さんがこの町に来てまだそれほど経っていない頃、一度だけ聞いたことがあります。妖に大切な人を殺されたのだと」
機械的な印象を与える声が衝撃的な言葉を紡ぐ。
華蓮は驚きで目を見開き、星司は僅かに眉根を寄せる。「そっか」と小さく呟いた月は神妙な面持ちで口を引き結ぶ。
大切な人を殺されたのならば、妖を恨んでしまっても仕方がない。響を強く責めることもできなくなってしまった。
「龍月先輩、その事件について他に知っていることってありますか」
「いえ。必要ならば調べることも可能ですが」
「じゃあ、お願いできますか。本当なら無理に詮索するようなことじゃないんだけど、さすがに命を狙われてるんじゃあ、そうも言ってられないし」
「分かりました。少し時間がかかるかもしれませんが、構いませんか」
「はい。じゃあ、今日はもうお開きってことで」
一切に動揺を見せない海里は淀みなく話を進めていく。
驚いていないわけではない。ただ慣れているのだと実感させられる態度に、星司は少しだけ距離を感じる。
平和な日常に甘んじていただけの星司達とは違い、海里がいたのは生き死にが間近にある世界なのだ。