3-1
時間軸的には2-17と同じ
机に向かっていた海里は意味もなく窓の向こうを眺めながら、難しい顔で考え込む。
考えなければいけない事から逃れるように、ムキリが起こした事件について思考を流していく。
ムキリは、形が定まっていない黒い靄のような存在であり、本来なら自我を持っていないはずの低級妖だ。ごく稀に自我を持つものも生まれるらしく、ムキリはそれだったというわけだ。
そして、自我が芽生えた先にレミを見かけ、莫大な妖力に憧れを抱いたのだろう。結果的に歪な形になってしまったが。
原因の一つとして考えるのは、吸収能力だ。海里が頭を悩ませていることでもある。
仮に、自我が芽生えることがあったとしても、それ以上のことは絶対にあり得ない。それも吸収なんて力はそうそう得ることはできない。
「やっぱり、あの声が関係あるのかな」
今も耳に残っている、いくつもの声が重なった声。聞くものに畏怖と、奇妙な懐かしさを抱かさせるものである。
贔屓にしている情報屋に聞いているのも一つの手かもしれない。
ふうと息を吐いた海里は机の上に置かれているデジタル時計に目をやり、「もうこんな時間か」と小さく呟いた。
「話し合いの方はどうなってるかな」
今日、水ノ館ではレミの今後についての話し合いが行われているらしい。
本来なら処刑部隊代表としてクリスが行くところを、レオンが行くように仕向けるとの話に二つ返事で答えた。
レミがどんな道を選ぶか海里に決定する権限はないが、できれば処刑部隊に帰ってきてほしいと思う。
十年近くも共に過ごしているメンバーであり、海里にとっては家族も同然な存在なのでいなくなってしまうのは寂しい。
「……あれ?」
ふわりと過ぎった金色の影を追うように視線を巡らせ、窓のすぐ傍に立っている幼い少年に目を止める。
窓から差し込んだ光が透けた金髪に反射し、少年の姿は神秘的なまでに光に包まれている。
髪色と年齢さえ除けば、完全に海里と瓜二つの顔にはありありと不機嫌なさまが描かれている。海里が約束を破ったことを怒っているのだ。
「悪かったって、今度から気を付けるから」
〈そう言って気を付けたためしがない〉
不機嫌そうながらも、他の人を相対しているときよりも、柔らかい口調のカイに図星を突かれた海里が苦笑を浮かべる。
〈わざわざ心の中に入るなんて、危険なことしなくてもよかった〉
「心の中に入らなかったら、春野さんに俺の声は届かなかったわけだし」
〈別にあの女がどうなろうとも、俺にも海里にも関係ない〉
カイにとって大切なものは海里だけで、それ以外のものに価値などない。海里が危険な目に合うくらいなら、他人なんて平気で切り捨てられる。
この世なんて所詮、海里のついでに過ぎない。
そんなカイの考えを分かっているはずなのに、海里は自分の危険も顧みずに他人を助けようとする。そこが海里の長所でもあるが、同時に欠点でもある。
今回の件にしてもそうだ。わざわざ心の中へ入らなくとも、月からムキリを切り離すことはできた。けれど、海里はただ切り離すだけではなく、月の心まで救おうとした。
「ほら、あのまま放置していたら、新たな脅威になってた可能性もあったし、……危険の目を摘む、みたいな……?」
嘆息したカイは不機嫌そうな顔を一変させ、呆れたような視線を海里に寄越す。
普段の刺々しいカイしか知らない者が見れば、目を疑うことだろう。これは海里だけに見せる表情だ。
〈海里は優しすぎる〉
「ごめんて」
〈だから、龍刀を奪われたりするんだ〉
不貞腐れたような口調で指摘され、言葉を詰まらせる海里である。
龍刀は妖具と呼ばれる特殊な力を持った武器である。使用者の意思によって形やその性質を変えることができる。
父から受け継いだ龍刀は海里にとって最も信頼のおける武器なのだ。それが今、手元にないのはある少女に奪われたからである。
〈普段の海里ならあんな女、わけもなくあしらえるはずなのに〉
カイが不機嫌だったもう一つの理由を悟った海里は苦笑のままに、龍刀が奪われたときのことを思い出す。
〇〇〇
自身が生み出した氷の壁に背中を打ち付けた流紀は激しく咳き込みながら、闖入者の姿を確認する。
立っているのは二人組。
一人は、春ヶ峰学園高等部の制服に身を包んだ気の強そうな少女。胸には瑠璃に似た石が下げられている。
そしてもう一人は、縹色の髪と瞳を持つ少年。年は十三、四歳くらいだろうか。黒いコートのようなものを纏っており、どことなく浮世離れした雰囲気を持っている。
続いて見た焔の表情を見た流紀は、少女はこの町にいるという妖退治屋の一人なのだろうと適当に当たりをつける。
「何者だ」
この場にいる者を代表した流紀の問いに、華蓮以上に気の強そうな少女は高慢そうに鼻を鳴らす。
「妖に名乗る名などありませんの」
きっぱりと言い切る彼女の表情からは、妖への嫌悪がはっきりと浮かび上がっている。
妖に対する憎悪や嫌悪から妖退治屋になる者は少なくなく、彼女は妖であれば善悪に関わらず退治するタイプの妖退治屋なのだろう。
妖退治屋という職業が衰退している今、彼女のようなタイプは非常に増えてきているのだ。華蓮のように祖母に言われてなる者は非常に稀なのである。
「人間は避難することをおすすめするし」
「なんでよ! 妖ならさっき私達が退治したし、危険はないはずよ」
どこか自慢げに言う華蓮に少女は嘲りの表情を見せる。
私達なんて言いながらも、ほどんど何もしていない華蓮であるが、やけに偉そうなのは華蓮の華蓮たる所以である。
「あら、貴方も妖退治屋ですの。だったら、ここにいる妖達は貴方が使役しているのかしら? でも、契約印もないようですし、殺しても文句を言われる理由はありませんの。……夏藍」
夏藍というのは少年の名前なのだろう。無邪気さを感じさせる声音で返事をした少年はステップを踏むような足取りでクリスの前に立ち、力任せに殴り掛かる。
満足そうな表情を見せる少女は海里に目を止め、自らも戦闘を開始する。
「殺してあげますの」
懐から出した刀身のない刀に霊力を注いでいく。はばき部分から水が噴き出し、水蒸気となったそれらは一瞬のうちに刀身を形作る。
柄を強く握った少女は勢いよく飛び出し、海里に切り掛かる。が、咄嗟に張られた簡易結界にとって防がれてしまう。浮かべられるのは嘲笑。
「溶かせ」
刀から発生した霧が、攻撃を阻む結界を溶かしていく。
海里が武器を構えようとしているのを見て取り、消しゴムに似た白い塊を投げて後ろに下がる。
数秒の間の後、爆発音が響き渡る。広がる衝撃に、少女は結界を張ることで逃れる。
「何してんだよ」
再び攻撃へ移ろうと刀を構えたところで投げかけられた怒声により、少女は初めてその存在に気が付いたかのように視線を向ける。
視線の先に立っているのは、少女と同じ春ヶ峰学園高等部の制服を着た少年。眠たげな目は剣呑さを宿し、少女を睨むように見つめている。
「貴方も妖退治屋ですの?」
「違う、けど」
「なら、早く立ち去ってくださいな。邪魔ですの」
さっきの爆発で殺せたという確証はない。気を取り直して、次の攻撃に移れるよう、意識を海里の方へと向ける。
「なんで、海里を攻撃してんだよ」
薄々、予感はあった。
妖退治屋は妖を退治する存在のことで。それが狙うものは妖に決まっているわけで。
華蓮のように単純で真っ直ぐな思考回路をしていない星司の脳内は、その可能性を再会したあの日からずっと訴えていた。
「妖だからに決まっていますの」
吐き捨てられた言葉が星司の根幹をぐらつかせる。気にもとめない少女はさらに言葉を重ねていく。
「ただの人間が気付かなくても仕方ありませんの。それなりに上手く抑えているようですから、……そこは褒めてあげますの」
これ以上、星司が突っかかってこないこと確認した少女は哀れみの視線を送りつつ、思考を戦闘の方へ切り替える。
妖の醜悪さは少女も嫌というほど知っている。騙されていた彼のためにも、あの妖を討ってやろうとおさまりつつある爆風を見遣る。
そこに立っている海里はほとんど無傷である。怪我の全てがムキリとの戦闘によって負ったものであり、あの爆発による怪我は一つもないということになる。
「……なんで」
呟いてから、海里の周りに焼け焦げた白い糸が散らばっていることに気付く。
「ありがとう、クリス」
「これも私の仕事ですからぁ」
艶美な声は先程、夏藍に任せた相手だと気付いた少女の顔に脅えが宿り、慌てた様子で夏藍の姿を探す。
夏藍は流紀の傍で、糸を氷によって拘束されていた。見たところ、目立った怪我はないようである。
「油断したし」
「私の――」
せいで、と続けようとした言葉を思い出したように飲み込み、取り繕うようにして鼻を鳴らす。
「役立たずは困りますの」
申し訳なさそうに眉を寄せている夏藍に少女の瞳が揺れる。すぐに元の高慢な表情に戻った少女は海里を睨みつけ、刀を一振りする。
戦闘を再開させようとする少女の前に「待ちなさい」とポニーテールの少女が滑り込んだ。その手に持たれたタブレット型の機械が突き出されている。妖退治屋に成りたての頃に健から貰った妖探査機と呼ばれる機械だ。
「なん、ですの」
「これは妖の場所を教えてくれる機械よ。見なさい、この機械は海里には反応してないわ」
離れた位置で見守っていた流紀は「ムキリにも反応してなかったが」と心中で呟く。さすがに水を差すわけにはいかないので、声には出さないでおく。
そこへ、妖探査機が甲高い機械音を鳴らす。妖の出現を知らせるアラームとは違うその音は何やら通知が来たことを知らせているようだ。
華蓮が画面を自分に向ければ、「使用期限切れです」という文字が点滅している。
「え、なにこれ」
「くすくす、その役立たずな機械がなんですの」
「でも、嘘は言っていないわ。本当に妖探査機は海里には反応してなかったもの」
「証拠が示せないなら貴方の意見に価値はありませんの。邪魔だからどいてくれませんこと?」
どいてくれる様子を見せない華蓮を視線で一蹴し、手に持っている刀に命令を加える。
すると、辺り一帯が濃い霧に覆われていく。
霧ラ雨。それが少女が持つ刀型の妖具の名前である。刀身が霊力の霧によって構成されたこの刀は汎用性が高く、少女が最も多く使用する妖具の一つである。
霧に覆われ、悪くなった視界をものともせず、目の前で立ち尽くす華蓮を避けて海里へ襲い掛かる。すんでのところで少女の攻撃に気付いた海里は危なげなく龍刀で受ける。
受け止められたことへの苛立ちを見せる少女は、渾身の力で龍刀を持つ手に蹴りを入れる。
「っ……」
短く苦悶の声をあげ、海里は後ろに下がる。
海里の手から離れた龍刀は弾かれたように少女の前へ転がっていく。
「これは……」
目の前に転がってきた龍刀を拾い上げた少女の瞳が驚きで見開かれ、すぐに海里へ不快そうな視線を注ぐ。
見た目はただの竹刀にすぎないが、間違いない。これは――。
「龍刀ですわね。何故、伝説の妖具を貴方の妖が持っているんですの」
妖具は人間だけが使うものと決まっているわけではないとはいえ、妖具の大半が妖よりも身体能力が劣る人間――妖退治屋のために作られたという経緯を持っている。
この、龍刀についての文献は妖退治屋に成りたての頃に一度だけ目を通した頃がある。
数百年前、当代一と謳われたある妖退治屋が気紛れに造った妖具。使用者に合わせて、いかようにも変化することから生きた妖具とも言われている。
製作者である妖退治屋が行方不明になると同時に、龍刀もまた行方不明になったとされている。
目にするのは初めてであるものの、触れただけでこれが龍刀だという強い確信を抱かせるほどの何かが宿っている。
「あの、返してもらえるとありがたいんだけど」
自分を殺そうとしている相手と対しているとは思えないほど、海里の態度はいつも通りである。
「これは妖が持つには勿体ない品ですの。返すと思いまして?」
霧ラ雨を握る手に力を入れる。
本当なら手に入れた経緯を問い詰めたいところだが、他にも妖が二人いることを考えるとそんな余裕はない。
夏藍を救出すべきか一瞬考えるものの、今のところ拘束されているだけのようなので一先ず優先順位を下げておく。
「貫け」
無数の刀身が出現し、海里を貫かんとするべく高速で動き始める。
避ける術のない海里が苦笑を浮かべたところに、飛んできた数枚の呪符のようなものが障壁を築いた。
呪符と断言できないのは、それが呪符にしてはシンプルすぎるからだ。呪符といえば、梵字など素人には奇怪としか言えない文字やら図形が書かれているのが普通だ。
けれども、この海里を守っている呪符には一文字「護」と達筆で書かれているだけである。
シンプルゆえに特徴的な呪符は嫌というほど見覚えのある少女は不快そうに顔を歪める。
「一体どういうつもりですの?」
「問われている理由が分からない。私が貴方を止める事に問題はない筈よ」
声を荒げる少女は対照的に、返ってきた声は機械のように冷めきっている。
現れた声の主は春ヶ峰学園高等部の制服に身を包んだ、真面目そうな雰囲気を持つ少女だ。黒髪は肩口で切り揃えられており、銀縁眼鏡の奥に潜む瞳はどことなく冷たい。
「ここは私に免じて治めてくれないかしら」
「なんで、私が貴方の言うことを聞かなければなりませんの?」
「無理強いしているわけではないわ。ただ、治めるつもりがないのなら、私が相手をするだけ」
ピクリとも動かない鉄面皮を前に歯噛みする少女。
「分かりましたの。今回は引き下がってあげますわ」
今ここで我を通すのは得策ではない。仕掛けるタイミングはいつでもあるのだから、今は引き下がっておくのが吉だ。
それでも悔しげな顔は隠さない少女は未だに捕らえられたままの夏藍に視線をやる。
「戻って」
「ごめん」
謝罪ともに夏藍の姿は消え失せた。
武器をすべてしまった少女は海里を睨みつけ、その場を去っていく。
「助かりました、えっと」
「龍月和心よ」
抑揚のない声が告げた名前にはどこか聞き覚えがあるもので、星司は思い出そうと首を傾げる。
変わった名前ということもあり、勘違いという線は一先ず置いておく。
「私は風紀委員長を務めているから、聞き覚えや見覚えがあってもおかしくないわ」
証拠を示すように、『風紀委員』と書かれた腕章を星司達に見せる。
思い返してみれば、春に行われた生徒総会で紹介されていたような気がする。
海里はまだ転校してくる前だったし、星司にいたってほとんど寝ていたようなものだったので思い出せなかった。
「貴方、さっきのムカつく女と知り合いなの?」
苛立ちがおさまっていない様子の華蓮に和心は静かに目を向ける。
細いフレームの眼鏡の奥に備わる漆黒の瞳は全てを見透かしているような雰囲気を持っており、どこか桜を連想させる。
「年上には敬語」
怯む華蓮に告げられたのは予想外すぎる言葉である。
正しい意見ではある。風紀委員長をしているということは少なくとも二年生以上であり、華蓮より年上だ。目上の人には敬語を使えと厳しく躾けられている華蓮には納得できる言葉である。
ただ少し、拍子抜けしてしまった。
「……それで、あの女とは知り合いなんですか」
「ええ。彼女の名前は折笠響、高等部の一年生よ。妖退治屋というのは言うまでもないかしら。私も妖退治屋だから、何度か顔を合わせたことがあるの」
そこで懐からメモ張を取り出した和心は、徐になにかを書き込んでいく。
「私の連絡先よ。休憩も終わるし、話は後日でいいかしら」
二つ折りされた紙を華蓮に渡した和心は、華蓮達が了承したのを確認し、校舎内へ戻っていく。
去り際、和心と目が合ったような気がして海里は脳内に疑問符を浮かべた。
その後、怪我をしている海里や月はクリスともに保健室へ向かい、他の面々は教室やら、藤咲邸やらに戻っていった。