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2-17(幕間)

 ムキリの襲撃から一週間ほど経った。


 処刑部隊の日常はレミ不在のまま、何事もないように流れている。

 レミが再び目覚めるのを待って説得する度胸などレオンにはなく、結局、レミが目覚めるより先に人間界へ戻ってきた。


 後日、レミが目覚めた旨を伝えられ、安堵すると同時に複雑な心境が強まる。

 果たして、レミはレオンがキスしたことを覚えているのだろうか。もし覚えていたら――。


 いや、どちらにしろ、レオンは謝らなければならない。いくら急を要したからといっても、乙女の純情を奪ったことには変わりないのだから。


「レオン、頼み事してもいいかしらぁ」


 小さく溜め息を吐き、リビングに入ったレオンにそんな言葉が投げかけられる。

 視線をやれば、身体のラインを強調するような服に身を包んだクリスが色っぽい仕草で手招きをしている。


「何ですか」

「今日、妖界で大事な話し合いがあるのよぉ。私の代わりに行ってきてもらえないかしらぁ」


 話し合いとやらが何についてなのかは分からないが、明らかに隊長の職務である。

 こうして押し付けられるのはいつものことなので、もはや諦念以上のものは湧き起らない。これでも頼りになる人物ではあるのだ、一応。


「どこでするんですか」

「水ノ館よぉ」

「え?」

「よろしくねん」


 重要書類と思われる紙を振りながら、レオンを応援するクリスに眉を顰めつつ、力強く溜め息を吐く。

 レオンが引き受けることがクリスの中では決定事項になっているようだ。


 何を言っても、絶対に覆らないだろうなと諦める。覆らないどころか、上手く丸め込まれている自分が想像できる。

 クリスには絶対に勝てない。その事実を改めて実感し、レオンは押し切られる形で了承するのであった。




 

 話し合いとやらまであまり時間がないことを突き付けられたレオンは、急いで妖界へ戻り、水の館へ訪れた。

 元先輩メイドのスゥに出迎えられ、話し合いが行われるという部屋へ案内される。


 何となしに話し合いの内容を察してきたレオンは、恐る恐るといった体で部屋の中へ入る。

 待ち構えていた豪華な面々にレオンは思わず委縮する。


「レオン!? なんで……」


 驚愕を露わにしたのはレミだ。蜂蜜色の髪は背中に流され、服装も動きにくそうなドレス姿と初めて会った頃を彷彿させるようないでたちである。


 全体が見える位置に置かれた鏡に映し出された金髪の女性がしたり顔で頷いている。妖華だ。


 王宮から離れないため、〈鏡電話〉と呼ばれる術を使っての参加のようだ。妖の王と呼ばれる人物がこういった話し合いに参加すること自体、おかしなことのような気がするレオンであるが、妖華の人柄を考えれば仕方ないのかもしれない。


「処刑部隊の代表も来たようね。じゃあ、話し合いを始めましょうか。レオン、席について」


 やたらと楽しげな表情を隠そうともしない妖華に促された席は、ちょうどレミの真ん前である。心中で、妖華とクリスに対する恨み言を吐く。

 表に出すことができないのは場所が場所ということ以上に、二人には決して勝てないという思いがあるからだ。

 いいように遊ばれている気配を感じつつ、席についたレオンは改めて話し合いの参加者を確認する。


 一際不機嫌そうな雰囲気を醸し出しているのは、青ノ幹部にしてレミの父親であるレウス。

 その横に座るのは、レミの母親にして白ノ幹部であるアネモイ。白を基調にした衣装と、蜂蜜色の髪が合わさって神秘的な印象を抱かせる女性だ。


 更に、横に座るレミは二人の威厳に圧倒されて小さくなっているように見える。少しだけ同情の念が過ぎる。

 そしてレミの前に座るのはレオン。その隣、つまりアネモイの目の前に座っているのはレミ以上に小さくなっているアイルだ。


 最後は、鏡を媒体に遠隔地を繋ぐ〈鏡電話〉での参加している妖華である。どうやら彼女は話し合いの進行役を担っているようである。

 妖の王なのにという思いが過ぎるが、二人の幹部と対等で話を進められる存在など彼女くらいだと思えば納得できる。


「話し合いの内容は、レミちゃんの今後についてよね」


 確認するように視線を巡らせる妖華に、レオンは「やっぱり」と小さく呟く。

 今回の話し合いは、離婚する両親のどちらに子供がついていくかという状態に近い。離婚もなにも、レウスとアネモイの二人は結婚していたわけではないが。


 レミがレウスの許にいることに関して黙認してきたアネモイは、今回の事件によりレウスには任させることはできないと話し合いの形を取ることになったのだ。


 張本人であるレミはもちろん、その場に居合わしたアイルも無関係ではないと参加することになり、妖華の意見により処刑部隊からも一人、代表者を出すことになったのである。本来なら隊長であるクリスが行くところを、レオンが行くことになったのは妖華とクリスの策略の結果といったところか


「レミはこのまま私の許にいるべきだ。水ノ館のセキュリティは完璧だからな、レミを危険な目には合わせない。なによりレミは幸せに暮らすことができる」

「あら? その完璧なセキュリティは今回の事件で役立たずのようだったけれど。何年も傍仕えさせておいて、相手の思惑に気付かないなんてお笑い草、よね」


 柔らかな物腰のままで吐き出される言葉の辛辣さにレオンは目を瞬かせる。

 遠目で姿を見た事があるだけだったが、まさかこんな性格だったとは。


 おしとやかなお嬢様然とした外見を裏切るような言動をする姿はどこかレミを彷彿とさせる。さすがは親子といったところか。

 優しげな表情で容赦なく痛いとことをついてくるアネモイにレウスは言葉を詰まらせる。その隙を見逃すアネモイではない。


「レミの幸せを決めるのは貴方じゃなくてレミ自身よ。もし、レミがここに残ることを希望するのなら、私は潔く引き下がるわ。式を残すくらいの親心は許してほしい、けれど」


 アネモイの肩にとまっていた梟が自己主張するように翼をはためかせた。

 あの梟が式であることは有名な話である。アネモイは妖では珍しく式使いとしての一面があるのだ。式達は主に諜報活動に使われている。


「レミ、貴方の意見を聞かせてほしいわ」

「ぇ、と……わた、しは」


 急に話を振られたレミは母親特有の温かさを宿すアネモイの瞳を受け、戸惑いの表情を表す。

 片手で数えられる程度しか会ったことない母親に対しての気恥ずかしさと、父親に対する罪悪感が今のレミを支配しているのだ。


 結局、何も言えないままレミは顔を俯ける。言いたいことはたくさんあるのに、何一つ言葉にならない。

 ふとレミから視線を外したアネモイはゆったりとした仕草でレオンを見る。視線が交差すると同時に、レオンは己の心臓が跳ねるのを感じた。


「レオンさんはどう思いますか」

「え」

「貴方の意見を聞かせてもらえる、かしら」


 未だに顔を俯けているレミ以外の全員の視線がレオンの方へ向く。一人だけどこか楽しげな妖華を恨めしく思いつつ、なんと答えるべきか思考を巡らす。


 なんと言うのがが正解なのか。

 そんなことを考えたレオンはすぐに自分の考えを否定する。違う、いま必要とされているのは場の空気を読んだ答えではなく、レオン自身の意見だ。

 意を決したような漆黒の瞳を眺め、妖華は一人満足げに笑う。それは我が子の成長を喜ぶ母のようでもあった。


「私は処刑部隊に戻ってきてほしいと思っています。レミ、さんは処刑部隊にとって必要な存在なんです!」

「レミの力目当てなんだろう。あれほどの力を持つ者はそういないからな」


 どの口がと言いたくなる衝動を抑え、レオンはできる限り平静を装ってレウスに向き直る。


 レミは処刑部隊の主要戦力であり、いなくなれば処刑部隊の戦力は大幅に落ち込むことになるという考えがないわけではない。頭脳派といった立場であるレオンにはメリットデメリットを考えてしまう部分もある。

 しかし、先程の言葉は理性的な面ではなく、感情的な面から湧き起ったものだ。


「さっきの言葉は処刑部隊副隊長としてではなく、俺自身の言葉です。俺は心からレミに帰ってきてほしいと思っています。レミにはずっと俺の傍にいてほしいんです。レミが傍にいるだけで、レミが笑っているだけで、それだけで俺の世界は輝く。レミには幸せになってほしい。あんな苦しそうな顔なんて二度とさせたくない。俺がレミを絶対に幸せにします! だから……!」


 求婚しているようにも思えるレオンの言葉を聞きながら、妖華は本当に楽しげだ。一人称が俺になっていることを見る限り、レオン自身も自分が何を言っているのか把握できていないだろう。


 後で後悔しそうなレオンを姿を思い浮かべる妖華は、不謹慎にも動画を撮っておけば良かったと小さく悔いる。


「お前のようなものにレミが幸せにできるはずがない!」

「そんなことはない」


 激情にかられ、声を荒げるレウスを否定したのはレミである。立ち上がったレミがレウスを見る瞳は冷え込んでいる。

 レオンの言葉のせいで赤く染まった頬を誤魔化すように咳払いをしたレミは、その場にいる全員を顔を一つ一つ見る。レオンだけは素通りに近い速さである。


「顔色を伺うのはもう辞める。私は自分のしたいようにする」


 お嬢様としての仮面を脱ぎ捨てる。

 今までは見限られることを恐れて、レウスの前では出すことのできなかった自分。


「私は今まで自分の居場所はここにしかないと思っていた。でも、違ったよ。居場所は用意されているものではなく、自分自身が作るものなんだ。そして、処刑部隊にはずっと昔から私の居場所だったんだ。選択肢が一つじゃないのなら、私は……」


 レミの瞳と、レオンの瞳が交差する。


「私は、処刑部隊に戻る」

「危険だ」

「危険? そうかもしれないな。だが、今更だ。私はすでにその危険に身を置いていたのだからな。…それにお父様自身が言っていたではないか。私ほどの力を持つ者はそうはいない、と。それくらい私は強いのだ」


 得意気に笑うレミの姿にレウス、そして話し合いを黙って聞いていたアイルは呆気にとられている。

 気にしたふうもなく、レミは机を挟んだ先に座るレオンに手を差し出す。


「私は処刑部隊に戻ってもいいか」


 立ち上がり、差し出された手を強く握る。もう離れてしまわないように。


「当然だ」


 数十秒ほど見つめあっていた二人は状況を思い出し、赤面して手を離す。

 手を離してしてしまっても、心が繋がっているという確信があるから、もう不安にはならない。


「分かりました」


 驚きと怒りで閉口するレウスを他所に口を開いたのはアイルだ。

 周囲の視線を一身に受けながら、未だ顔が赤いままのレミに笑いかける。


「婚約の件は完全に白紙に戻します。両親には僕から伝えておきます」

「いいのか」


 今まで、アイルにかけてきた迷惑をかけてきたことを自覚ししているレミは罪悪感を胸に問いかける。

 答えようとするアイルの表情に冷たいものが宿る。レミを見る瞳に先程までの優しさはなく、侮蔑の色を纏っている。


「むしろ、婚約を破棄できて嬉しく思っています。貴方がそんな方だとは知りませんでした。もう、顔も見たくありません」

「アイル様……?」

「これで私とレミ様との関係はなくなりましたし、席を外してもかまいませんか」


 誰も言葉を紡げないでいる中、アイルの心中を悟った妖華は快く了承する。

 幹部への礼を尽くしつつ、部屋を後にするアイルを見届けたレオンは無言で扉を見つめる。逡巡ののち、勢いよく立ち上がり、「すみません」とアイルを追いかけるように部屋を後にする。


 哀切を含んだ表情で扉を見つめていたアイルは、突然のレオンの登場に目を丸くする。


「……アイル様は、演技が下手ですね」


 一度瞬きをしたアイルは照れたように笑って答える。


「気付かれてましたか。……恥ずかしな」

「きっとレミも気付いていますよ」


 彼女はレオンよりもずっと聡いから。

 照れ笑いを苦笑に変えたアイルは「かっこわるいな」とぼやくように呟いた。そして、レオンに向き直る。


「レオンさん……、レミ様のことよろしくお願いします。絶対に、幸せにしてください」

「言われなくてもそのつもりです」


 澄んだ瞳に映し出されるレミへの恋心。

 同じ気持ちを抱いているレオンだからこそ、アイルの気持ちが痛いほど理解できる。


 好きだからこそ、幸せになってほしい。好きだからこそ、笑顔でいてほしい。

 だからこそ、諦めるのだ。


「レミ様を笑顔にできるのは僕じゃないみたいだから……」


 目尻に滲むのは涙。口元は弧を描いている。


「もし、レミ様を不幸にするようなことが許しませんからね」


 そう言い残し、今度こそアイルは去っていく。振り返ることはせず、しっかりと前を見て歩いていくアイルの後ろ姿を目に焼き付ける。


「かっこいいと思います」


 好きな人のためにそこまでできる姿は素直に尊敬する。

 もし、レオンが同じ立場だったなら、同じことをできる自信がない。きっとショックで何も言えないでいるだろう。

 アイルが残した言葉を胸に刻み、レオンは話し合いを行っていていた部屋へ戻る。


「勝手にしろ」


 そう吐き捨てられたと思えば、レウスがレオンのすぐ傍を通り過ぎている。

 こんな状況でもおさまること知らない威厳に圧倒されつつも、部屋の中へ目を向ける。


 申し訳なさそうな顔をしているレミと、相変わらず心中を読ませない穏やかな表情を貫くアネモイにまず目が行く。そして、いち早くレオンの帰還に気付いた妖華が手招きをしている。


「さあて、最後は若いお二人さんで話でもしたらどうかしら」


 そう言いながらも、拒否権はないようで妖華との通信が切れる。金髪の女性の姿を映し出さなくなって鏡には慌てて覗き込むレオンとレミの顔が映し出されている。


 二人が妖華の方へ気を取られているうちに、空気を読んだアネモイも席を立っており、部屋には二人だけになっていた。


 何とも言えない複雑な沈黙が流れ、レオンは心の底から妖華を恨む。


「……レオン」


 名を呼ばれ、目を向けた先に藍白色の瞳がある。

 忙しなく宙を泳いでいた瞳は、頬を赤くすることを代償にレオンへ向けられる。


「私はレオンが好きだ」


 心臓が跳ね、耳障りなほどに鼓動を高鳴らせる。


「その、だ……別に、答えがほしいわけじゃ、ない、からな……!」

「レミ……!」


 耐えきれなくなって背けようとする藍白色の瞳を呼び止める。大きく揺れるのを認めながらも、言葉を紡ぐ。

 伝えなければならない。レミだけに伝えさせるわけにはいかない。


「俺も同じ気持ちだ。……レミが、好きだ」


 話し合いのときに言っていた言葉で薄々気付いていたが、気のせいだと言い聞かせていたレミは予想していない言葉に動揺を露わにする。


 自分の気持ちを伝えられたそれでいいと思っていたから。まさか、レオンの答えを貰えるとは。

 湧き起っている感情が、歓喜であることは考えずとも分かった。


「両想いと言うわけか」

「そう、だな」


 いよいよ耐えられなくなった二人は互いに視線をあらぬ方へやりながら言葉を交わす。


「提案がある」

「……なんだ」

「普通なら付き合うところだが、私達にはまだ早いだろう……? しばらくは今までの関係のままでいないか」

「そうだな。その方がいいだろうな」


 クリスや妖華辺りが聞いていたら意気地なしと言われそうだが、互いの心臓のためにもレミの提案を受け入れるのがいい。

 ぎこちない動きで顔を見合わせた二人は照れ交じりの笑顔を浮かべてみせた。


●●●


 ちらほら見える帰宅途中の学生達の姿を見ながら恋人二人は歩を進める。

 部活をさぼったのは久しぶりだ。そもそも、ちゃんとしたデートをするのも久しぶりだ。


 毎日顔を合わせているし、二人でおつかいに借り出されることもよくあったので、互いにデートしようという考えはなかったのである。星司が部活で忙しかったというのも関係しているだろう。

 文句を言われてもおかしくはないが、月は笑顔で受け入れてくれた。本当にできた彼女だと思う。


「あ、あのお店だよ!」


 肩口で切り揃えられた琥珀色の髪が月の動きに合わせて揺れる。

 髪をばっさりと切った月の姿を見たときはかなり驚いたものだ。


 昨晩、星司の姉である有紗に頼んで切ってもらったのだという。けじめなのだそうだ。

 それくらいこの前の出来事は月にとっては大きかったということだろう。


「入ろ!」


 強ばっていた手を温かいものが掴む。そのまま引っ張られるようにして店内へ入った。


 高級感の漂う落ち着いた店内。今、女子に人気だという月の言葉通り客のほとんどが星司と同じ年頃の少女であった。

 高そうな外観とは異なり、値段は学生でも手が届くレベルらしい。メニューに並んだ数字を見て納得する。


 適当に紅茶を頼み、静かに月へ向かい直る。

 今回はただのデートというわけではない。一歩、踏み込むためのデート。


 女子会を開く少女たちの声だけが店内を流れる。

 沈黙のまま時間は過ぎ、店員が紅茶をテーブルの上に置いた。

「ごゆっくり」と遠ざかっていく気配に月が意を決したように顔を上げた。


「私、ね。小さい頃、普通じゃないって言われたことがあったの。貴方は春野家の長女なのよ、弁えて生活しなさいって。間違ってるとは思わなかった。だって事実だもん」

「……っ」


 咄嗟に沸き起こった否定の言葉を飲み込む。薄っぺらい否定なんて月は求めていない。

 弱さが作る偽善を粉々に噛み砕き、今は月の言葉を聞くに徹する。


「だから、お嬢様らしく、ちゃんと弁えて生活しようと思ったの。でも、私はすっごく我が儘な女なの」


 微笑むように細められた瞳が揺れる。口角の上がった唇が微かに震えている。

 気をつかわせまいとする微笑は儚さを際立たせ、悲哀を濃くする。


「華蓮が妖退治屋になった時、寂しかった。武藤君が転校してきた時、恨めしかった。星司も華蓮も嬉しそうにしてるのに、私だけ喜べなくて暗い感情ばっかり増えていくの。なんでって思ったよ。武藤君が来たことは喜ぶべきなのに」


 胸の奥に溜まり続けていた黒いものを吐き出す月の言に星司は無言で耳を傾ける。

 踏み込むことを恐れ、星司が逃げてきたものがここにある。


「ううん、本当は分かってた。置いていかれるのが怖かったんだ。だって私はみんなみたいに自由に進めないから。でも、違うんだよね?」


 海里と話して、レミと話して自覚したこと。


「私が勝手に壁を作って、勝手に歩みを止めてただけなんだよね。それで置いていかないでなんていうのは傲慢だ。だからもう、やめる」


 哀切を含んだ儚げな笑顔に明るさが灯る。琥珀に輝く髪に負けない朗らかな笑顔だ。


「私、図々しくなるよ。もう立場を考えて諦めたりしない。今の私は春野家の長女じゃなくて、星司の恋人で華蓮の親友で普通の女の子な春野月なのです」


 ふふんと胸を張る月の姿が眩しい。

 苦悩を乗り越え、新たな自分を歩み出した彼女に星司が言うべき言葉は――。


「ごめん」


 ただえさえ、丸い瞳が更に丸くなる。きょとん。そう形容すべき顔が目の前にあった。


「気付けなくて。月のことを絶対に守ってやるって思ってたのに全然守れてなかった」

「そう、だよ」


 今、この場に必要なのは気を使った嘘の言葉ではない。だからこそ、月は自分を責める星司の言葉を肯定した。


「何で気付いてくれなかったの? 守ってくれるって言ったのに」

「悪い」

「謝っても許せません。なので、ここは星司の奢りです。ケーキ、いっぱい頼んじゃお」


 頬を膨らませ、分かりやすく怒りの態度を取る月の視線がメニューの上を走る。

 その愛らしさに思わず星司の顔は緩む。


「あ、今笑ったでしょ。私、怒ってるんだからね」

「悪い、ふふ」

「まだ笑ってる。反省の色が見えません。チーズケーキとレモンパイを追加で頼みます」


 店員に注文する月の横顔を見ながら、星司はやはり愛しさで胸に膨らませる。

 暗い感情がいつの間にか吹き飛び、恋の魔力は凄まじいものだと一人実感する。

 もちろん、反省はしている。


「言葉がなくても通じるほど恋は万能じゃなかったね」


 注文を終え、丸っこい瞳が星司に向けられる。


「そうだな。全然、万能じゃなかった」

「これからはちゃんと話そう。そしたら、私にも星司の心を守れると思うから」


 その後、月が注文していたケーキやらパイやらを二人で食べた。

 頼んでいたものはチーズケーキとレモンパイの他にもいくつかあり、星司の財布は今まさにピンチを迎えている。

 寒空に晒されつつある財布と対局に位置するように心は不思議と満たされている。



 さて、カフェの前に寄った店で買ったこの髪飾りはいつ渡そうか。

次回から新章!!


恋愛とか書けねぇ……

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