2-15
水ノ館内は相も変わらず豪華絢爛仕様である。成金ほどの派手さはないが、一つ一つの調度品はかなりのお金がかかっていることを窺わせる高級感を漂わせている。
久しぶりの内装に目を向けるよりも先に、レオンは眉を寄せて床を見下ろす。
使用人の手によってぴかぴかに磨かれた床には、メイド服やら執事服やらに身を包んだ者が倒れている。苦痛の色はなく、作業中に突然倒れたと思わせる姿だ。
童話『眠れる森の美女』を彷彿させるような情景が床に浮かび上がった奇怪な紋様によるものだということは明白である。
「見た事のない紋様ですが……樺様は心当たりありますか」
水ノ館のセキュリティの一つである錯覚を見事に破ったレオンは、ムキリとの対面から時間が経っていることもあってか、幾分か普段の冷静さを取り戻していた。
それでも、レミが危険におかされていることへの焦燥は隠しきれていないようだが。
「私もあまり詳しい方ではありませんからね」
じっと紋様を見つめる。何を目的としたものであるかまでは判断できないが、レオンのように全く見覚えがないわけではない。
昔、妖華から見せられた本に似たようなものが載っていたような気がする。
その時の記憶を掘り起こし、結論付ける。
「古い時代に使われていた術式に似たようなものが……確か、黒ノ国に伝わるものだったはずです」
「黒ノ国、ですか」
「はい。今は使い手がほとんどおらず、文献も王宮と闇ノ館に残っているだけとか」
「ムキリが文献を閲覧できる立場にいたとは考えられませんし、その数少ない使い手が彼だったと?」
問いかけに樺は静かに首を横に振る。
ムキリの正体を知らない樺には違うと言い切るほどの根拠はない。これは勘だ。
人間界の時間でいえば数百年と積み重ねてきた経験から来る勘は決して侮れたものではない。
「ともかく、ムキリの正体について考えるのは後にしましょう。一刻も早く、この術を解除しなくては」
解除する方法は大して難しくない。この術式の中心となっている者を見つけ出し、全てを術式を解除する力を持った妖華手製の腕輪をはめ込むだけ。
妖華の身に宿る、ある存在の力を借りて作られた腕輪で、効果は絶大だ。
「中心――」
「考えるまでもなく、レミでしょうね」
目元に険を滲ませたレオンが樺の言葉を引き継ぐように呟く。
ムキリが見せたレミへの執着心。それを考えれば簡単に答えは出てくる。
余裕そうな態度で冷静を纏っているいるようで、己の欲望に素直な彼ならば捻った解答は用意していないだろう。
「では、レオンはレミさんの部屋へ。これを渡しておきます」
「一緒に来ないんですか」
「私はレウス様とご夫人方の安否を確認してきます」
いくらレミに執着しているとはいえ、他の者に手出しをしていないと考えるのは早計だ。
立場上、樺には青ノ幹部とその家族の安否を確認する義務がある。
もし彼らに何かあれば、樺だけでなく主である妖華にも責任が及ぶのだ。それだけは絶対に避けなければならない。
「その腕輪はレミさんにかけられた術を解除する術式が込められています。レミさんの腕にその腕輪をはめ、所定の行動をすることで、発動させることができるはずです」
「所定の行動?」
これまで真面目な顔を貫いてきた樺はふとその表情を崩した。精悍な顔に似合わないその表情は彼の主を連想させる。
長年、仕えていたら表情も似てくるものなのだろうか。
樺がいつから妖華に仕えているか知らないレオンはそんな脈絡もないことを考える。
「眠り姫を目覚めさせるためには王子様のキスが必要、らしいですよ」
「は……?」
緊迫した空気が一瞬にして無に帰っていく気配を感じだ。
確かにレオンは眼前に広がる情景を見て『眠れる森の美女』を連想した。
呪いによって王女は深い眠りにつき、城中に波及した呪いは城の人々をも眠りにつかせた。長い年月の果て、訪れた王子のキスによって王女は目を覚まし、同時に城の者達も目を覚ましたという。
今の状況はまさしくそれだ。
呪いをかけられた王女はレミで、訪れた王子はレオン。
ここまで合致していれば、本当は必要のない発動条件を付加した妖華はこうなることが分かっていたのだろう。
きっと、数週間前、クリスにわざわざ人間界の童話集を持ってこさせた頃から。
もちろん、妖華もただ面白がっているわけではない。これから起こることを予測し、最善策を導き出したうえで多少の脚色を加えたまでである。
昔から気にかけていたレオンとレミの距離が近づかせるきっかけにしようと思ったのだろう。樺も気持ちが分かっているこそ、何か言うことはしなかった。
「レオン、よろしくお願いしますね。この術を解除できるかに人間界での戦闘の勝敗がかかっているんですから」
「いや、でも……樺様!」
「どうしても無理だというなら私が変わりますが」
今までにないほどの葛藤の末、レオンは静かに引き受けた。さすがに樺に任せるのは嫌だったらしい。
心中でレオンに精一杯の声援を投げかけ、樺は青ノ幹部の仕事を目指すために歩を進めた。
数秒ほど、遠ざかっていく樺の後ろ姿を見つめていたレオンは我に返ったように別の廊下へ歩み入れる。
レミの部屋に近づくにつれて床の紋様は強い光を放ち、レオン達の推測が正しかったことを知られている。
ところどころに倒れている使用人を横目に進んでいたレオンは見覚えのある人物を見つけて足を止める。
明らかに使用人のものとは違う、細部まで拘ったオーダーメイドの衣装に身を包んだ青年。
年は確かレオンと同じくらいだったはずだ。貴族としての風格を纏いつつ、優しさを失わない顔立ちは他の者と違って苦痛に歪んでいる。
見れば、右腕から流血しており、深々と何かが突き刺さっていたような傷が残されている。
「何故、アイル様が」
レミの婚約者になるはずだった青年。
レオンが家出を提案してさえなければレミの婚約者になっていだろう青年。
権力目当てにレミと結ばれようとしていないことは、これまで耳にした噂でよく知っている。
何よりあのパーティの日、彼の瞳に宿っていたレミへの恋心をレオンは確かに目にした。
言わば、レオンの恋敵というべき人物である。
「……っ」
形の整った唇から微かに息が漏れる。彼の姿を見つけ、立ち止まらなかったら気付けなかったほどの微かな変化だ。
反射的にアイルの傍へ駆け寄ったレオンは何度も彼の名前を呼びかける。
「レミさ…を、たすけ」
意識は戻らないままだった。それでも譫言のようにアイルはレミを助けてほしいと繰り返す。
目元に滲んだ涙は自らの力不足を悔いているようにも見える。
愛しい人を助けられない苦悩を滲ませたアイルの顔を幾ばくか見つめたレオンはすくっと立ち上がる。静穏な表情である。
「レミは必ず助けます」
呟き、レミの部屋を目指すため、足早に歩を進めた。
向かい合った二つの扉。同じ装飾が施された扉の片方はいくつもの錠前で厳重に鍵をかけられている。
ここに住んでいた者がいなくなったのをきっかけにレミが施したものだと以前言っていたのを思い出す。
嫌でも目に引く扉から目を逸らし、今回の目的である扉の前に立つ。レミの部屋へ続く扉だ。
取っ手に手をかけたところで、動きを止める。
「やはり封じの術がかけられているか。ここは」
纏う妖力が揺れ動くの感じる。
「解除」
扉にかけられていた封じの術が消失する。
解除。術式を取り消す術である。一見、便利のように思えるが、自分が術式の構成を隅々まで理解している術にしか使えないという欠点がある。
今回はレオンの知っている術式であったため使用できただけだ。処刑部隊所属後、様々な術式について勉強していたことが功を奏したようだ。
いよいよ、レオンはレミの部屋へ足を踏み入れる。
何年振りかに踏み入れたそこは何から何までレオンの記憶通りの姿を保持していた。
「レミ! どこに」
視線を巡らし、この部屋にレミがいないことを確認すると寝室へ続く扉へ手をかける。ここには封じの術はかかっていない。
警戒心を緩めないままに寝室へ入り、部屋のほとんどを占める天蓋付きのベッドへ歩み寄る。案の定、レミが寝かされていた。
術式の中心であること知らせるように、床には緻密さを極めた紋様が浮かび上がっている。
「結界か」
天蓋付きベッドを覆う透明な障壁を認め、呟く。
距離を取り、生成した炎を障壁に向かって放つが一瞬にして打ち消される。続いて、水、木、風、土と火と合わせて五大属性と呼ばれるものの最も単純な術を放つが、やはり打ち消されている。
「吸収されているというわけではない……妖力を散らしているってところか」
多くの術式をマスターしているレオンであるが、凡人程度の妖力しか持ち合わせていない彼にとっては厳しい状況だ。レオンが最も得意としている力は物を壊すといった方面には使えない。
「あまり使いたくない手だが」
自身の右手に妖力を集中させる。力に変換した妖力を纏わせた右手を大きく振りかぶり、結界を殴る。
結界にかけられた防御術式が発動し、レオンは大きく後方へ吹っ飛ばされる。
「くっ」
背中を壁に強く打ち付け、息が止まる思いをする。ずるずると床にしゃがみこんだレオンは何度か咳き込み、呼吸を確保する。
結界の方へを見れば、僅かに入った皹が目に入る。目を凝らさなければ見えないほどの小さな皹であるが、レオンの目的は果たせた。
ふらつきながら立ち上がり、結界に触れるか触れないかくらいの距離で手を伸ばす。
掌から黒い瘴気のようなものが立ち込める。邪気と呼ばれるそれは小さな皹から入り込み、結界を侵食している。
忌子と呼ばれる者がいる。
人間にせよ、妖にせよ、生まれ時から邪気をその身に宿している存在は非常に稀である。邪気とは感情の発達によって生まれるものだからだ。
忌子とは生まれながらに邪気を宿した者のことを指す。特に、その身に宿す霊力や妖力といった陽の力を超える陰の力を宿している場合を指すことが多い。
必ずしも身に潜む邪気を制御できているわけではなく、レオンは邪気を奥底に押し込むことで闇落ちすることを防いでいた。
理性が破壊される危険を冒してまで、邪気を表に出しているのは他でもないレミを助けるためだ。それほどまでにレミは大切な存在なのである。
「っくそ」
吐き捨て、邪気に侵されそうになる心を奮い立たせる。
絶対に、レミを助ける。こんなところで邪気に呑まれるわけにはいかない。
「はあああぁぁぁぁぁぁ」
気力で邪気を抑え込み、渾身の力で結界を殴りつける。
邪気の浸食によって脆くなった結界は呆気なく崩れていく。
「レミ!」
ベッドに横たわるレミの肌は異様に白く、か細い呼吸を繰り返していた。瞼は力なく閉じられている。
頬には鱗のようなものが浮かび上がり、細い指は大きな鳥を連想させるような爪に変わっている。
それでも蜂蜜色の髪は輝きを失わず、ベッドの上で波打っている。
異形となりつつあるレミの姿に驚いたり、恐れたりすることはなく、レオンは優しい手付きで彼女の手を取る。
袖を捲ったことで露わになった肌には羽根のようなものが浮かび上がっている。
それには目もくれず、皹の入った腕輪に目を落としたレオンは樺から受け取った腕輪に付け替える。
すると、鱗も羽根も綺麗に消え失せ、鳥の爪は元の細い指に戻っていった。
「次は」
ここでレオンの動きが完全に止まる。
――眠り姫を目覚めさせるためには王子様のキスが必要、らしいですよ。
脳裏を過る樺の言葉が過り、未だか細い呼吸を繰り返すレミの唇に目を向ける。無意識の行動だ。
恐らくレミにとってはファーストキスになることをおいそれとできるはずがない。
レオンも初めてだからおあいこなどとは間違っても言えない。
しかし、このままではムキリを倒すことは困難で、レミの命も危うくなってしまう。
これ以上ない苦悩の表情を見せるレオンは意を決したように顔をレミへ向ける。
後でレミに怒られるだろう未来を予見しつつ、眠り続けるレミの唇に己の唇を重ねる。
レミを永遠に失ってしまうことを考えたら、怒られる方が遥かにマシだ。
(目を覚ましてくれ――――レミ)
永遠のような三秒間を味わい、ゆっくりと唇は離れている。
「ん」
薄く開かれた唇から声が漏れ、レミが身じろぎをする。
瞼が震え、久しぶりに見る藍白色の瞳が真っ直ぐレオンを見つめる。
「レオン」
掠れた声で名を呼んだレミは幸せそうに目を細めて見せる。
唇に残る仄かな感触のままに口元は弧を描く。
「信じていたよ」
果てのない優しさを宿した微笑みに魅了されるレオンを他所にレミは静かに目を瞑る。
反射的にレミの肩を掴んだレオンは動揺を隠しもせず、何度も何度もレミに呼びかける。
しかし、レミが目覚める様子は微塵もない。
「そんな……レミ! 頼む、目を覚ましてくれ」
そこへ現れたのは青ノ幹部の安否を確認しに行っていた樺だ。
何となしに状況を悟った樺は取り乱すレオンを目を止め、「疲労で眠っただけです。安心してください」と柔らかく宥めたのだった。