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2-11

 世界は深い闇の中に呑まれている。小さな光が疎らに空を彩る、そんな時刻。

 一軒家から一人の少女が音もなく出てきた。その手には質素なデザインのキャリーバッグを携えている。


 背中に流されたウェーブのかかった髪は、闇の中でも蜂蜜色に透き通っているのが分かる。

 振り返った藍白色の瞳に宿った迷いはすぐに消え失せる。

 感情を抑え込んだ瞳で、家の前で待ち構えていた青年をねめつけるように視線をやる。


「いやはやお待ちしていましたぞ」


 身を包むのは執事服。デザインは多少違うが、生地はレオンが以前着ていたものと同じだ。

 顔は前髪と包帯によって隠されており、青年の表情を視認できる唯一の場所は口元だけ。その口元は歪んだ笑みを浮かべている。


 青年の身に纏う妖気。歪んだ口元。前髪と包帯を越して注がれる視線。

 そのどれもが、どうしようもないほどに悍ましい。

 何故、父はこの男を執事にしようと思ったのだろうか。父ともあろう人がこの悍ましさに気付いていない筈がない。

 立った鳥肌をおさえるように自身の腕を撫でる。


「にしても、こんなにあっさりとご決断なされるとは驚きましたぞ。断られたら、と準備していたのが無駄になりましたな」

「どの口が」


 冷たく言い放ちながら歩みを進める。

 思い残しはある。

 本音を言えば、もっとあの場所にいたかった。けれど、この選択に後悔はない。


 もし、自分の欲望に従って処刑部隊の一員でいることを選んだとしても、この男はレオン達の命と引き替えにしてくることは目に見えている。準備というのはそういうことだ。

 ならば、結果は同じ事。少し決断するのが早かっただけ。


「旦那様もお喜びになることでしょう」

「だろうな」


 社交辞令のような青年の言葉を聞きながら自嘲気味に笑う。

 大事な大事な人形が戻ってくるのだ。あの男が喜ばないわけがない。


「そうそう、お屋敷に戻るのですから口調も改めてもらわねば困りますな」

「分かっている。いや、分かっていますわ」


 昔に戻るだけだ。何も問題はない、何も。

 沸き起こる感情を飲み込むよう、ゆっくり瞬きをする。


「じゃあな」


 囁くようなその声は誰の耳にも届かないまま風にさらわれて掻き消えた。

 夜の闇の中、アスファルトを滑るキャリーバッグの音だけが切なげに響き渡る。


●●●


 朝一番に目を覚ましたレオンは静寂に包まれた薄暗い階段を下りる。脳内では今日の予定を反芻している。

 いつもと同じ光景のはずなのに、胸がざわついていることに気付く。立ち止まったレオンは落ち着けるように深呼吸をする。


 やはりざわつきは消えず、それどころかリビングに近づくたびに大きくなっていく。

 リビングの電気をつける。瞬きののちに明るさを取り戻し、生活感のないリビングが姿を現す。


 異常は何もない。やはり、気のせいか。

 結論付け、朝食の用意に移ろうとしたレオンの視界に不審なものが映る。ざわめきが一層大きくなった。


 テーブルに置かれた紙。それだけならば、またクリスが書類を置きっぱなしにしているのかと片付けられる。しかし、手紙の横には可愛らしくラッピングが施されたクッキーが置いてあるではないか。

 そして、紙に並んでいる文字はレミの字である。


 脳内が警鐘を鳴らしている。見てはいけないものだと。

 落ち着けたはずの呼吸が乱れる。震える手で、レミの字が並ぶ紙に触れる。



 レオンへ


  こんな形で知らせることになったこと、申し訳ないと思う。

  私は妖界へ、水ノ館へ戻ることにした。突然のことできっとお前は驚いていることだろう。

  姉様と再会したときからずっと考えてはいたんだ。元々、姉様を見つけるまでの期限付きだったからな、こうなっても不思議はないだろう?

  

  レオンには随分と迷惑をかけたな。口では伝えられなかったが、これでも感謝しているんだ。

  あの時、レオンが共に来てくれなかったらこんなに楽しい日々を過ごすことはできなかった。

  処刑部隊の一員として過ごせた日々は私にとって宝物だ。家出をして良かったよ。

  全部、レオンのお陰だ。ありがとう。


  追伸、クッキーは月に教わって作ったものだ。口に合うかは分からないが良かったら食べてくれ。



 手紙に目を通したレオンはしばらくそこから動けないでいた。

 何かの冗談だと思いたくて、何度も何度も手紙を繰り返し読む。一言一句、穴が開くまで見つめる。


 きっと自分をからかおうとしているのだと信じたくて。

 冗談でもレミがこんなことをする人物であることは痛いほど知っている。それでも、認めてしまうことをレオンの脳内が強く拒んでいる。


「レオン」


 控えめの声に肩が震える。

 振り返った先に立っていたのは藍色の髪を持つ少年。

 隻眼は申し訳なさそうに伏せられており、知らなかったのはレオンだけだったという現実を知らしめる。


「いつ、ですか」

「華蓮の家で勉強会をした日かな。レオンが仕事に出掛けたときに」


 曖昧な問いかけに答える海里の声はレオンを気遣っていることを窺えさせる。

 伝えるタイミングなんていくらでもあった。何故、レミはレオンにだけ伝えなかったのだろうか。信頼していなかったのだろうか。


 あの日、レミとともに水ノ館から逃げ出した日から流れた年月は、妖であるレオン達にとって決して長いものではなかった。けれども、共に過ごした濃密な時間は嘘ではないはずだ。

 クリスにも、海里にも負けないくらいの信頼を築いてきた。その考えはレオンの思い上がりに過ぎないのか。


「レミはレオンを信頼してなかったから教えなかったんじゃないと思うよ」


 むしろ、その逆だ。

 レオンの考えを読んだかのように告げられた言葉は届かない。

 表面的な意味だけを読み取ったレオンは不器用な営業スマイルを浮かべてみせる。


「慰めなくても大丈夫です」

「レオ――」

「すいません。少し、一人にさせてください」


 表情や声に宿る痛ましさを目の前に、海里は出かかった言葉を飲み込む。


「分かった」


 海里は静かにリビングは階段に座っている人影を見て目を丸くする。

 相変わらず生地の薄い服は身体のラインをはっきり見せつけ、豊満な胸が覗いている。

 肉厚の唇は弧を描いており、灰色の瞳は静寂のままに細められている。


「無礼な弟に代わって謝罪しますわぁ。レオンはこういうことに慣れていないだけだから、大目に見てくれると助かります」

「気にしてないよ」


 故意でないことは今のレオンを見れば分かる。それに、故意であったとしても海里は今のレオンの態度を怒りも嘆きもしない。

 レオンは海里にとって大切な家族の一人なのだから。


 親愛の情を滲ませる海里の視界にきらりと光るものがちらついた。

 目で追ってみれば、凝らさなければ視認できないほど細い糸がリビングへ伸びている。どうやらクリスの指先に繋がっているようだ。


 この糸でリビング内の様子を伺っているのだろう。

 そのことよりも、海里はクリスの口元が笑っているように見えるのが気になった。


「楽しそうだね」

「嬉しいんですよぉ。弟の成長が見れて」

「成長……?」

「平静を保っていられないほど、レオンが誰かに執着するなんて初めてですから。レミちゃんには感謝しないといけませんねぇ」


 そこで初めて微笑の中にレオンへの愛が宿っていることに気が付いた。

 家族への最大級の愛。海里が抱いているものとは比べられないほどの。


「大丈夫ですよぉ。レオンならきっと乗り越えられる。私の弟はとぉっても賢い子ですもの」


 灰色の瞳は揺るぎない。クリスは誰よりも何よりも、レオンの力を信じているのだ。

 何とかしなければならないと頭を巡らせていた海里は己の未熟さを痛感する。


 今、海里がするべきことはあれこれ考えてレオンを立ち直らせることではない。レオンが立ち直るまで、傍で見守ることなのだ。


「もし、立ち止まってしまうようなことがあれば、私たちで背中を押してあげましょう」

「そうだね」


 ついとリビングの方へ視線をやる。


「レオン、信じてる。だから頑張れ」


 紡がれた言葉は届いただろうか。いや、届いていなくてもいい。

 ふとレミのことを考える。


 レミはどうなのだろうか。

 水ノ館に戻ると言い出したレミは自棄になっている様子もなく、冷静に考えた末に戻ることを選んだようだった。諦念も読み取れたけれど、瞳はまっすぐ前を向いていた。


(戻ってきてほしいと思うのは俺の我が儘だ。レミが自分で考えて選んだ道なのだから。でも、もし)


 祈るように目を瞑る。


(もしも、その選択に納得できない部分があるなら、ちゃんと考えて納得できる道を選んでほしい)


 それが水ノ館に戻り、次期青ノ幹部として暮らす道なのだというのならば、海里も納得できる。諦め、られる。


 引き結ばれた唇や、閉じられた瞼が宿す痛切さ。

 淡い笑みを明確なものに変えたクリスは目元を更に和ませ、小さく呟く。


「うちの子は優しい頑固者ばっかりなんだから困るわねぇ」


●●●


 ようやく水ノ館へ到着したレミは父との挨拶を早々に切り上げ、自室に引き籠る。

 手入れの行き届いた室内を見渡し、力尽きたようにベッドの上に座り込む。


 十数年暮らしてきた場所のはずなのに居心地が悪いのは何故だろうか。

 懐かしさはある。室内を彩る豪華な調度品の一つ一つも昔のまま、何も手が加えられていない。

 手入れだけはしっかり行われていたようで、レミが暮らしていた頃と遜色ない輝きを放っている。それが目につく。


「こんな寂しい部屋だっただろうか」


 処刑部隊としての生活は実に質素で、部屋には必要最低限のものしか置いていなかった。

 ベッドだってこんが煌びやかでふかふかのものではなく、横になれることだけを重要視した粗末なものだった。


 物の量や質だけを言えば、明らかにこちらが上回っている。けれど、付随する思い出がここには何もない。

 過ごしてきた数はこちらの方が多いというのに。この部屋は空っぽだ。


「私が変わったということか。それに比べてここは……物も人も何も、何一つ」


 期待していた。

 もしかしたら父が自分の考えを改めてくれているではないかと。

 ちゃんとレミを娘として見てくれるのではないのかと。

 馬鹿な行動をしたレミのことを叱ってくれるのではないかと。


「下らない」


 期待した自分が馬鹿だった。あの人に家族としての情などありはしないのだ。


「いやはや、お疲れのようですな」


 当然のように部屋に居座っている青年の姿にレミは眉を顰める。

 それも一瞬のうちにお淑やかな笑みの中に溶けて消えた。


「分かっているなら席を外してくださればいいのに」

「いやはや、それは無理なご相談ですな。旦那様から目を離さないよう、きつく言われておりますからな」


 沸き起こる不快感を無理矢理に押し込める。

 と、ノック音が聞こえてきた。

 すかさず来訪者の応対にあたる青年の背中をねめつけるように見つめる。


「どなたですか」


 隠された両目がこちらを向く。全身を駆け巡る不快感は無視した。


「アイル様です。お通ししますかな?」

「ええ」


 二人っきりから逃れられるならば願ったり叶ったりだ。

 姿を現したアイルは最後会った時よりも、成長していた。幼さが残っていた顔立ちも今や凛々しさが先立ち、貴族らしい貴賓に溢れていた。


 アイルのことは処刑部隊として過ごしている間も少しだけ気になっていた。

 消去法で選んだ上に、正式に婚約を結ぶ前に逃げ出したのだ。恨まれていても仕方がない。

 しかし、アイルはレミの姿を見るなりに柔らかな笑顔を浮かべる。そこには心からの安堵が見て取れた。


「急に押しかけてすみません。姫が帰ってきたと伺い、いてもたってもいられなくて。でも、姫のご無事な姿を見て安心しました」


 素直な言葉に罪悪感が募っていく。

 貴族の子息とは思いえないほど素直で真っ直ぐな性格は変わりない。初めて変化していないことに好感を抱いた。


「いろいろと申し訳ありませんでした」

「謝る必要なんてありません。僕も似たような立場ですし、自由になりたいという気持ちは分かりますから」


 レミには勿体ないくらいの素直さだ。

 レミが家出している間、アイルには婚約の申し出が後を絶たなかったらしい。レミとの婚約の話は流れたようなものだったので、これ幸いと思ったのだろう。


 自分勝手な行動をしたのはレミの方で、アイルが他の姫の婚約を受け入れても責められはしない。しかし、アイルは全て断り続けていたという。

 この噂を聞いたレミは嘘だと思った。そう思っていたかった。


(本当に私には勿体ない)


 自分が選びさえしなければ、もっと良い相手に出会うことができたかもしれない。

 今更、彼の幸せを願うことなど許されないことかもしれないが。


「いやはや、お二人はお似合いですな」

「そんな!僕には勿体ないお方です。婚約の話は本当に夢のようで」


 頬染めてみせるアイルに注ぐ青年の視線は冷めている。

 前髪と包帯を通り越した冷淡な視線がレミの背筋を凍らせる。冷汗が流れた。


「おっしゃる通りですな」


 空気が一変する。

 ゆっくりと歩み寄る青年を前にレミの身体は硬直する。動けと脳内で命令を下しながら、傍まで迫る青年をじっと見つめる。

 と、青年の手がレミの頬に触れる。壊れ物に触れるような手付きに身体が震えた。


「私の方がレミ様に相応しい。貴方よりも、あの男よりも」


 手を振り払いたいのに、レミの身体は動けの命令を拒否し続ける。

 見た目が変わったわけではない。顔は相変わらず長い前髪と包帯で覆われており、口元は不気味に歪められたまま。


「アイル様は知っておりますかな」

「ぇ」


 青年が作り出した空気に呑まれていたアイルが小さな声を漏らす。


「レミ様のお父上が青ノ幹部であることは有名なこと。そして母君は第三夫人であると公表されていますが、事実は異なっているのです」


 心臓が大きく跳ねた。

 変わらず怪訝そうな顔をしているアイルを一瞥する。


「本当の母君は当代の白ノ幹部、アネモイ様」

「なん、で」


 レミの出生は特秘事項として扱われ、知っているのは当事者であるレミと青ノ幹部と白ノ幹部、そして妖華と処刑部隊の幹部二人と海里のみ。

 公式では数年前に逝去した第三夫人が母親だとされている。死因は病死とされていたが、実際のところは定かではない。


「青ノ幹部は強い力欲しさに、当時はまだ白ノ幹部ではなかった少女を誑かし子を孕ませた。生まれた子は妖界の王に匹敵すると謳われるほどの妖力を持っていた。目的を果たした青ノ幹部は少女に用済みだと告げ、子供のみを奪い去った」


 淡々とした口調で語られる真実。

 早鐘を打つ心臓の音が嫌に大きく聞こえる。心中で叫ぶ制止の声は一つとして音にはならない。


「青ノ幹部には一つ誤算があった。生まれた子は白ノ幹部の力も有していたのです。誤魔化しきれないほどに強い力を」


 両親の力をどちらも同等に継くことなど本来はあり得ない。しかし、レミはその常識を否定し、共に強大な力を有していた。

 青ノ幹部は人前で白ノ幹部から受け継いだ力は使うなと言い聞かせることで難を逃れた。もっとも、処刑部隊として活動している間はその言いつけも破っていたのだが。


「お前は一体何者だ」

「レミ様、口調が乱れておりますぞ。しかし、そうですな。ムキリとでもお呼びください」


 そこで初めてレミは青年の名前を知った。名前を知らなかったことに初めて気が付いた。

 異様な事実を自覚し、青年――ムキリの不気味さを一層に感じる。


「私は旦那様に感謝しているのです。レミ様のように情愛を、信愛を、尊愛を、絶愛を注ぐに相応しい、強く美しいお方をこの世に授けたのですからな。レミ様こそ私に相応しい。私こそレミ様に相応しい。その身体。その声。その力。全て、全て、私の手中にあるべき、そうは思いませんか……おや」


 周囲に無数の水球が浮かんでいることに気付いたムキリは、隠された瞳をアイルへと向ける。


「姫から離れろ」


 レミに向けていた柔和な表情からは想像できない怒気を孕んだ声。

 声が、身体が怒りとは別の意味で震えている。戦いなど知らないところで育った彼にムキリの相手は荷が重い。

 それでも、アイルの瞳には明らかな戦意が宿っている。


「いやはや、騎士気取りですか」


 ムキリの背後の立ち込めた黒い霧が水球を暴発させる。爆風の煽りを直接受けたアイルは身体が吹き飛びそうになるのを必死に堪える。

 戦意を瞳から消さないアイルは新たに水球を生成しようとするが、それをムキリは許さない。

 口元が歪められるのと同時に、槍に似た形を成した黒い霧がアイルの右腕に突き刺さる。


「っぐあ」

「アイル様!」


 視界を掠めるのは蜂蜜色の髪。

 戦闘中の隙をついたレミはアイルを背にムキリと向かい合う。


「アイル様、お逃げください」

「姫を置いていくわけには」

「逃げてください」


 有無を言わさぬ口調で言い放ち、アイルへ笑いかける。毅然とした表情だ。


「逃げて、助けを呼んできてください。大丈夫ですわ、私相手には手荒な真似もしないはず。それに、私これでも結構強いんです」


 蠢く黒霧に警戒しながら、未だ迷っている様子のアイルを説得する(すべ)を探す。

 ふと霧を散らす黒い槍がアイルへ向けて放たれる。


「させませんわ」


 凄まじい強度を持った水の障壁が築かれ、槍が砕けるとともに霧に戻る。


「アイル様、お願いします」

「っわかり、ました」


 この場で己がいかに無力であるか自覚したのだろう。苦渋の末に、レミの意見を呑む。

 アイルを逃がすことを最重要に置いたレミは威嚇をするように渦巻く水を生成する。


「いやはや、手強い相手ですな」

「その割に随分と余裕ですのね」


 襲い掛かる黒霧をあしらいながら、扉の方へと移動するアイルの姿を確認する。

 ムキリはというと、既にアイルへの興味を失っているようで不気味な笑みはレミにのみ向いている。

 これならアイルを逃がすという目的は無事に遂行できそうだ。


(すんなり行きすぎな気もするが)


 警戒心は緩めぬまま、周囲を渦巻く水に新たな命令を加える。アイルが生成した水球に似た形を作ったそれは宙に浮かぶ黒霧を中へ閉じ込めていく。

 物理的な攻撃がムキリに効かないのは経験済みなので、動きを止める方法を選択する。


「他の者が来ないうちに投降することをお勧めしますわ」

「いやはや、それは無用な心配ですな」


 にぃと今までにない表情を見せる。


「レミ様、不思議に思いませんかな。最愛の娘の部屋でこのようなことが起こっているというのに、旦那様どころか使用人一人駆けつけて来ないなんて。確かに、旦那様は私を信頼しておいでですが、少しばかりおかしいとは思いませんか。アイル様もまだ戻ってきませんな。仮にも幹部の屋敷、数分も誰にも会わないということはありますまい」


 何を言わんとしているか察する。理解したくはないが、理解する。

 視線落とした先に広がるのは純白に輝く奇怪な文様。この部屋だけに浮かび上がっているものではないことは、不自然に切れた文様が教えてくれる。

 部屋の外、いや屋敷中に浮かび上がっていると考えた方がいいだろう。


「何をした」


 お嬢様を演じることも忘れて問いかける。

 見た事のない文様だ。遥か昔に使われていたという言葉に似たようなものがあった気がするが、残念ながら専門外だ。


「安心してください。レミ様には何もしませんぞ」


 迫るムキリの声が高い位置から聞こえる。

 身体中が倦怠感を訴えており、視界にも思考にも靄がかかっているようだ。


「今は眠っていただくだけです。目覚める頃には全て終わっていることでしょう」


 降る声の意味を考えるより先に意識は闇へと沈んでいく。


「れ、おん」


 脳裏を過ったのはかつてレミの執事を務めていた青年の姿。

 何も言わずに出てきたのに助けてほしいと望むのは傲慢だろうか。

 瞼の裏に映る青年の姿は誰よりも頼もしく、愛おしい。営業スマイルとは違う、照れた笑顔を求めるように手を伸ばす。


「必ず、レミ様の望む姿となって戻ってまいりましょう」


 伸ばされた手を取ったのはムキリ。

 閉じられた瞼から零れる涙を拭い、柔らかく抱きとめたレミの身体をベッドに寝かせる。


 静かな足取りで部屋を後にしたムキリは廊下に倒れる使用人には目もくれず、歩を進める。

 目指すは始まりの町と謳われる史源町。そこに彼が求めるものがある。

 倒れる人々の中にアイルの姿がないことが少し気になったが、些末なことだ。

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