2-7
王宮で下っ端召使いとして働いていたレオンはある日、王宮の主――金ノ幹部だの、妖界の王だのと呼ばれている存在――に呼び出された。
下から数えた方が早い階級にいるレオンは顔を合わせることすら許されない存在である。
レオンと同じ階級の者からしたら、何かの節に顔を見ただけでちょっとしたイベント事だ。
しかし、レオンは彼女と顔を合わせたことが何度かあるどころか、言葉を交わしたこともある。知られれば多くの者から羨望の念を注がれることだろう。
勿論、そんな面倒なことにならないように細心の注意を払っている。羨望だけならともかく、恨みを買うような真似は絶対に避けたい。
そんな中に呼び出しだ。王とは言えども空気を読めと叫びたい。
「分かりました。わざわざありがとうございます」
伝令の少年に礼をいい、先輩召使いに断りを入れてから持ち場を離れる。視線が痛い。
けれども、仮にも妖界の王である妖華の呼び出しを断れば、非難を浴びることは間違いない。
「はた迷惑な話だ」
誰かに聞き咎められないように細心の注意を払って呟く。
下っ端召使いであるレオンが圧倒的に身分の高い妖華と面識があるのは単純に姉と親しい間柄だからである。
レオンの姉、クリスは王直属部隊である処刑部隊の隊長を務めている。
処刑人とも呼ばれるこの部隊は妖華の命を受けて妖を処刑するという任を請け負っている。歴史が浅く、隊員数が三桁に満たない上に、副隊長が存在しないという非常に小さな部隊である。
現在のクリスは隊長職だけではなく、副隊長の仕事も一人でこなしている。
決して仕事好きではないクリスがそんな状況に甘んじている理由はレオンもよく分からない。
ついでに言えば、多忙な毎日を送っているわけでもなく、仕事をさぼっては妖華とのお茶会に興じている。レオンが妖華と対面したのも、そのお茶会でだ。
今日のように呼び出されて。
あのときは一人作業だったので、面倒なことになることはなかったが、今回は先輩との作業中だったからタチが悪い。
持ち場を抜け出して、先輩に文句を言われるのはレオンなのだ。ただえさえ、目を付けられているというのに。
理不尽な日常にもはや怒りも湧かず、静かに溜め息吐いて立ち止まる。
目の前にあるのは細かい装飾が施された荘厳な扉。煌びやかさはないが、お金がかかっていることは容易に想像できる扉だ。
「レオンです」
これでも初めの頃は扉の前に立つだけで緊張したものだが、今は見る影もない。慣れとは実に恐ろしいものだ。
そんなことを考えていると扉が開かれる。
余談だが、この扉は妖華の許可なしには開けることができないらしい。
ただ、許可なしに開けることができる者が三人だけいるという話も妖華から聞いたことがある。その者達には妖華自らが永久的な許可を出したのだという。
「どうぞ、お入りください」
会釈して出迎えたのは長身の男性。彼は何年も前から妖華の側近を務める人物で、名を樺という。
レオンが最も尊敬している人物でもある樺に会釈をして中へ入る。
ちなみに樺は許可なしに扉を開けることができる人物の一人、らしい。
「レオン、いらっしゃい。待ってたわよ」
幾重にも重なった豪奢な着物で身を包んだ女性が笑顔を迎える。
この女性こそ妖界を統べる金ノ幹部、妖華だ。
身長よりも長い金髪を引き摺らぬように数回に折って結び、幼い顔立ちに備わる紺碧の瞳は不思議な輝きを纏まっている。
「何の御用でしょうか」
予想通りお茶会を開いていた女性二人に呆れていることを気付かれないよう、恭しく問いかける。
二人を前にして無駄だということは理解しているが一応。
「レオンに頼みたいことがあるのよ」
「頼みたいこと」
呼び出されたことは何度かあったが、こうして頼み事をされるのは今回が初めてだ。
誰かとの作業中に呼び出されたのも初めてであり、流れを汲んだレオンの脳内に嫌な予感が過る。
「青ノ幹部は知っているわね?」
「はい」
王宮内で働く者としては常識中の常識だ。幹部の名前は採用試験にも出されるし、王宮内に流れる噂の大半が幹部がらみのものだ。
満足そうな表情で頷いた妖華は早々に頼み事の内容を告げる。
「彼の娘、レミちゃんの執事になってくれないかしら?」
「はあ…って…、え!」
予想だにしていなかった頼み事に思わず素が出てしまった。
青ノ幹部の娘。レミちゃんというのが一体、何番目の娘かは知らないが、相当な箱入り娘に違いない。ペンより重たいものを持ったことがないと言うような人種だろう。
そんな人物の執事を、辛うじて王宮召使いの地位にぶら下がっているレオンがするなんて筋違いにも程がある。そもそもレオンに執事経験なんてない。
「何故、私なんですか」
「レオンが一番適任だからよ。ダメ、かしら?」
「いえ、駄目というわけでは」
妖華の頼みをそう簡単に断れるわけがない。何だかんだ真面目気質なレオンの理性が断ることを拒否している。
「じゃあ決まりね」
悪戯っぽく笑う妖華に上手く転がされているような気がしてならない。
レオンとしてもあの煩わしい先輩や同僚と離れられるのは願ってもないことだ。それが執事、それも幹部の娘に仕えるなんてことでなければ良いのだが。
「そうそう。性格に難ありだから気を付けてね」
「は?そういうことは先に」
不穏な言葉を言ってのける妖華が嫌な予感は的中したことを教えてくれる。
(今の職場の方がマシ、なんてことにはならないだろうな)
これからのことについて妖華をいくつか言葉を交わしたレオンは疲労を滲ませて、部屋を後にした。
不満ありげな弟の背中を見送ったクリスは紅茶に口をつけ、初めて口を開く。
「吉と出るか、凶と出るかってとこかしらぁ」
「吉と出るはずよ。私の見立ては間違いないもの」
得意げな顔をする妖華にクリスは艶美な笑みを向ける。
どこか意味ありげにも見えるその表情で、ついさっきレオンが出て行った扉に視線をやる。
「副隊長の座もそろそろ埋まりそうねぇ」
処刑部隊の隊長を引き受けた時から、その座を誰にするかは決まっている。
「あの子は器用だからどこでも上手くやるだろうけれど、やっぱり楽しめるところにいてほしいのよねぇ」
「愛されてるわね」
クリスの視線を追うようにして、妖華も扉の方を見遣る。
「どんな化学変化が起きるかしら」
●●●
厚い雲に覆われた空は薄暗い影を下界に落としている。
年の大半を雨が降っているというこの土地。運がいいのか今日は雨が降っていない。
それでも空は曇っていて今にも振り出してしまいそうだ。時折、肌を撫でる風が冷たくて身を震わせる。
長時間馬車に乗っていたせいで痛くなったお尻を押さえたレオンは目の前で激しい主張をする屋敷を見上げる。
水ノ館。代々青ノ幹部が居を構えるそこは当代の趣味なのか、やけに煌びやかな印象を受ける。細部にお金をかけている王宮とは違い、一目でお金がかかっていることを窺えさせる外観だ。
レオンの身を包んでいるのは支給された執事服。見た目の差はあまりないが、召使い時よりは高価な素材が使われているようだ。
「貴方がレオンさんでしょうか」
所在なさげに視線を巡らせていたレオンに気付いたメイドが声をかける。
素っ気ない印象を抱かせるメイドは、頷いたレオンを屋敷の中へ案内する。
様々な使用人が行きかう屋敷内を見渡したレオンは表情にうんざりとしたものを混ぜる。
外観から予想してはいたが、中もかなり豪華絢爛仕様だ。成金趣味とまではいかないものの、富豪っぷりを大いにアピールしている。
レオンの個人的な意見を言わせてもらうと、あまり良い印象は受けない。
「こちらで旦那様がお待ちです」
そう言われ、案内されたのは重厚な扉の前。
施されている細工は王宮のものと酷似している。敢えて寄せているのだろうか。
思案にくれていたレオンはふと我に返り姿勢を正す。
妖界の頂点である幹部の一人と対面するというのに一ミリたりとも緊張していない。明らかに妖華のせいだ。
良いか悪いかと聞かれたら良い方であるわけだが、釈然としないのは何故だろう。
「どうぞ、お入りください」
言われるがままに足を踏み入れる。
待ち構えていたのは溢れんばかりの威厳を漂わせる男性。
これが幹部の威厳か。同じく幹部の一人である妖華のことはどこかへ追いやり、一人納得する。
「この度は――」
「挨拶はいい」
ばっさりとレオンの言葉を断ち切る。
妖華のように堅苦しいのが苦手というよりは、時間が惜しいという感じだ。
「お前にはレミの執事をしてもらうわけだが、あれは私の大切な娘だ。いずれ私の後を継いでもらうことになるだろう。そのことを肝に銘じておけ」
「はい」と従順に装って答える。
こういうタイプは従順に従っていれば厄介なことにはならないだろう。
数秒の観察でそう結論付ける。典型的なお貴族様タイプだ。
問題は娘の方になってくる。
この父親の娘ならば我が儘系お嬢様といったところだろうか。妖華が性格に難ありといっていたこともあり、油断はできない。
「仕事に関してスゥに聞いてくれ」
興味を失ったかのように扉の近くで控えていたメイドに話を振る。その態度に違和感のようなものを抱いた。
娘のことを大切だと言っている割にはそこに情というものが感じられない。
「では、レミ様のお部屋へ案内します。レオンさん、こちらに」
スゥというのはレオンを案内していくれたメイドのようだ。
表情筋の存在を感じさせない鉄面皮で一礼したスゥに促されるまま、レオンは部屋を後にした。
一気に重圧から解放され、気付かれないように息を吐き出す。
青ノ幹部が纏う威厳はあまりにも窮屈で肩が凝る。
「こちらです」
一秒も無駄にしたくないといった体で歩いていくスゥの背中を追う。
背中越しに仕事内容について説明するスゥの声に耳を傾ける。口調といい、態度といい、やけに淡泊な人物だ。
馴れ馴れしいよりは遥かにマシだと考えながら、揺れる藍鼠の髪を意味もなく見つめる。
「ここです」
スゥが立ち止まった場所では二つの扉が向かい合っていた。
一つは青ノ幹部がいた部屋と同じく豪奢な細工がされた扉。スゥの様子を見る限り、ここがレオンが仕えることになるレミの部屋なのだろう。
もう一つは鎖で繋がれ、南京錠がいくつもつけられた扉だ。
気になりはするが触れてはいけない気配を察知し、見て見ぬふりを決め込む。
「レミ様、新しい執事をお連れしました」
「入って」
可憐な声に答える代わりにスゥはその声に答える代わりに扉を開く。
開けられた扉の先にいたのは人形のように美しい少女であった。
フリルがふんだんにあしらわれたドレスに身を包んでいる。屋敷を見ても思ったが、どうやら青ノ幹部は洋物思考のようだ。
背中で波打つ髪は柔らかい蜂蜜色で、藍白色の瞳は静けさを語っている。
「お初にお目にかかります。今日からレミ様に仕えされていただく、レオンです」
深々と頭を下げようとしたレオンをレミは制する。
「レオンさん、よろしくお願いします」
咲き誇る笑顔はレミの可憐さを引き立てる。
その笑顔に微かな違和感を抱きつつもレオンは営業スマイルを貼り付ける。
「では私はこれで失礼します」
「はい、いろいろとありがとうございました」
「いえ」と短く答えたスゥは音もなく退散していく。
素っ気ないスゥの態度にレミは困ったように眉を寄せる。
「本当は良い人なんですよ。少し愛想がないだけで」
「分かっています。とても優秀な方なんでしょうね」
「はい! とても気遣いが上手で、私もいつも助けられているんです」
まるで自分のことのように語るレミの表情はとても嬉しそうだ。とても性格に難があるようには思えない。
むしろ、蝶よ花よと甘やかされて育てられたのだから、もう少し難があってもいいくらいだ。
会って数分も経っていない。まだレオンに見せていない姿はいくつもあるのは容易に想像できる。
妖華がわざわざ嘘を伝えるとも限らないので、レオンの油断できない日々はまだ続きそうだ。