2-3
空は温かな夕暮れ色から藍色へと変わっていっている。
ツインテールにされた蜂蜜色の髪は沈みかけの夕陽の光に照らされて輝いている。
藍白色の瞳は暗い色を映すように伏せられ、形の整った淡い唇は固く結ばれている。
流紀にそんな表情をさせているのは流紀と再会したからというわけではないのだろう。
「レミ」
返事をするように手入れの行き届いた柔らかい髪が揺れる。
「元気ないけど、何かあった?」
「な、んにもありません」
向けられた笑顔から逃げるようにして目を逸らす。
明らかに不審なレミの態度に気付きながらも、海里はこれ以上何も聞かずにただ微笑む。
「そっか」
静かな海里の声に、レミは再び唇を固く結んだ。
○○○
いつもならレオンが迎えにいっているところ、今日はレミが任されてしまった。レオンは何やら用事があるらしい。
嫌というわけではないが、流紀と会うことに複雑な感情が渦巻く。
自然を遅くなる足取りの中、藤咲家へ向かう。不意に背筋が凍るような感覚に陥り、歩みを止める。
誰かに見られているような不気味さに警戒心を強める。
「誰だ」
決して大きくないその声に返事をするようにして渇いた拍手が響き渡る。
「いやはや、さすがレミ様ですな」
現れたのは執事服で身を包んだ不気味な男。
長い前髪で顔の右半分を覆い、左眼には包帯が巻かれている。唯一、表情を視認できる口元は嫌らしく歪曲している。
「あんな気持ち悪い気配、私でなくとも気付ける」
「いやはや、気持ち悪いだなんて酷いことをおっしゃいますな」
気配。表情。佇まい。その全てがレミに不快さを与える。
今すぐに切り捨ててしまいたいが、知らない相手というわけではないので思いとどまる。
「それで私に何の用だ?」
「いやはや、久しぶりに会ったというのにレミ様はつれないお方ですな」
「用件があるなら早く話せ。私にはお前と悠長に話している暇はない」
冷たく返すレミに対し、男は気障ったらしう両手を広げる。
傷ついたとでもいうような態度を見せる男にレミは隠そうともせず、不快感を露わにする。
「彼の君の迎えに行くんでしたな」
「海里様に何かをするつもりならば容赦はしないが」
「いやはや、そんな恐れ多いことはしません」
口角の上がった口元が白々しさを奏でている。
「レミ様」
唐突に空気が一変する。男の言葉に答えるようにして冷え切った空気がレミの身体を震わせる。
恐怖が脳内を渦巻き、考えることを避けていた可能性が脳裏を過ぎった。それでも強気な目で男を睨む。
「そろそろお戻りになられたらどうですか。お父上も心配しておられますよ」
「はっ、随分と白々しい。あの人に私を連れ戻せとでも言われたのか」
嫌らしい笑みを消さないまま、心配そうな顔を貼り付ける男を一蹴する。
予想できていた可能性を簡単に認めてしまうのが嫌で、虚勢のような態度を貫く。
「何故、拒まれるのですかな。仮初の居場所はそこまで心地よいのですか」
掴みどころのない男の声がレミを責め立てる。
「元々目的を果たすためだけの場所です。レミ様の居場所はあそこにありはしないのです。仲間になれた気でもしていましたかな。それはとんでもない勘違いです」
「黙れ」
悲痛な声を出すレミにも構わず男は言葉を並べ立てる。
「期限付きなのはレミ様も分かっていたはずです。自ら条件を課したのですからな。それを破るような真似はしますまい」
「っく」
「お遊びはおしまいにいたしましょう」
手が差し出される。その手を取れば処刑部隊の面々と決別し、家に戻ることになる。
約束は約束だ。レミ自身が課した目的を達した今、示される道はその手を取ることだけ。
けれども。だけど。今のレミは手を取ることはできない。
何より、かけがえのないあの場所を仮初だの、お遊びだのと言う男の手は取りたくない。切実にそう思った。
だから。
「断る!」
地面を突き破るようにして水が噴出する。竜巻のように渦巻く水は問答無用で男に襲い掛かる。
渦巻く水が男が貫く寸前で男の姿が忽然と消え、辺りには黒い霧のようなものが充満する。
「いやはや、怒らせてしまったようですな」
元の場から数メートルから離れた場所に黒い霧が集まり、男の姿を形を作る。
執事服で身を包み、前髪と包帯で両目を隠した男の姿だ。
「どの口が」
次の攻撃を放とうとするレミを嘲笑うかのように、男の姿は再び霧へと変わる。
「早いお帰りをお待ちしておりますぞ」
言い残し、文字通り霧消した。
残されたレミは苦しそうに眉を顰めたのち、何度か瞬きをして「くだらない」と吐き捨てる。
渦巻く感情と決別するような声であった。
○○○
「ここに居場所はない」
帰宅して早々に事実に籠ったレミは男の言葉を反芻する。
自分が場違いな場所にいることくらい、レミ自身も自覚している。
レミは妖界を統べる八色ノ幹部――青ノ幹部の実の娘であり、その後継者と名高い人物なのである。
高貴な身分であるレミが処刑部隊として人間界で日々を送っている理由。それは人間界にいるはずの姉を探すことだ。
人間界での時間で数えるならば数十年前、青ノ幹部に追い出される形で妖界を去った腹違いの姉。
幹部の娘であること以上に、特殊な生い立ちを抱えるレミは幼い頃から様々な枷を課せられてきた。
自由の知らないレミにそれを教えてくれたのは姉だった。姉の前にいるときだけは自由でいられたのだ。
姉がいなくなったさい、レミはそのことに耐え切れなくなり隙を見つけては人間界で姉を探すようになった。
そうして探し続けるうちに、レミにとって人間界がオアシスのようになっていた。誰の目も気にせず、自由に駆け回っても咎められることはない。
その頃のレミは姉を探しながら、人間界を満喫する日々を送っていた。
そんなある日、とある出来事をきっかけにレミは屋敷から抜け出し、妖華の力添えの末に処刑部隊の一員となった。
姉が見つかるまでという条件付きで。
「もう終わり、なんだな」
伏せられた瞳が痛々しく、流れる蜂蜜色の髪が表情を隠す。
――お供いたします、どこまでも。
そう言って彼はレミの手を取った。
彼の手は想像していたよりもずっと大きくて温かかった。
あの時の感触を思い出すように手を握りしめたレミの耳にノック音が届き、一気に現実へ引き戻される。
「何だ?」
扉で赤い顔を隠しながら来客に応じる。なるべく冷たい声を出すことを心がける。
対する人物は表情に苦笑を混ぜる。スーツに白衣を羽織った優男だ。
「帰ってからずっと籠ったままと聞いたんだが、何かあったのか」
「別に何もない」
ついと視線を逸らすレミの分かりやすさに、レオンは強引に扉を開ける。
「それなら降りてこい。護衛の任を疎かにするな」
「……分かった」
ばつが悪そうに顔を俯けるレミの頭を軽く叩く。
その表情は穏やかそうに見えて、怒りを漂わせている。レオンがこういった表情を表に出すのは非常に珍しい。
それほど怒っているということだろうか。
「俺は仕事に行ってくるから」
どうやら一度帰宅して真っ先にレミの様子を見に来てくれたようだ。
それなのに怒らせてしまった。ありがたさ以上に申し訳なさが脳内を占拠する。
切なさ溢れる表情で、去りゆくレオンの背中を一心に見つめる。
不安で震える手を取ってくる、優しくて温かい手が酷く遠い。
暗く落ち込んだ気持ちを消して背中を押してくれる声が遠い。
「自業自得だ」
寂しそうに呟き、肺が空になるまで息を吐き出す。
新たに吸い込んだ空気で灰を満たしたレミからは痛惜の表情が消え去った。
仕事を行く前に一度顔を覗かせたレオンのことを思い出しながら、海里は苦笑を滲ませる。
いつも通り冷静そうに見えて、親しいものはありありと分かる程度に怒りを露わにしていた。
「あんなレオン、珍しいな」
「そおですねぇ」
独り言のように呟かれた言葉に同意を示したのはソファに座り、書類のようなものを見ているクリスである。
スリットのはいった衣装に身を包んでいるため、組んだ足が覗いている。太腿辺りも大胆に覗いているが、本人は一切気にしていないようだ。
「あれは自分に怒ってるんですよぉ。まだまだお子様なのよねぇ」
レオンの姿を思い浮かべようとして静かに目を閉じる。
いくら大人ぶろうが、クリスにとってはいつまでの可愛い弟のままだ。
「ちゃんと自分の気持ちに向き合えるようになったら変わるのかしらねぇ」
「そう言われると俺も耳が痛いな」
「海里様はちゃんと向き合えていますよぉ」
「そうかな」と呟く海里に妖艶な笑みを向け、足を組みかえる。
レオンが自分の気持ちに向き合えていないのは気付けていないからだ。スタート地点にすら辿り着けていないに等しい。
気付きさえすればゴールまでに然程、時間はかからないだろう。
仕事に関してはどこまでも怠惰なクリスではあるが、大切な人に対する助言の努力は惜しまない。もっとも、惜しまないのが助言の努力であることが重要である。
「あら」
ふと視線をあげるとレミがいた。
表情はいつも以上に硬く、それはレオンと何かあっただけではなさそうだとクリスは一人推測する。
気付いているのはクリスだけではない。
様子がおかしいことはレオンに代わって自分を迎えにきたときから気付いている。けれども海里は飽くまで普段通りに振る舞う。
幼い頃の境遇のせいか演技を得意としているレミが自分を出すようになったことを良い傾向と捉えながら。
「レオンはなにか……いえ、なんでもありません」
言っていませんでしか。そう続けようとしていた言葉を自ら切り捨てる。
そんなレミの言動を気にとめないとでも言うようにクリスは立ち上がる。
「後はよろしくねん」
ウインクを交えつつ一言。
了承の声を背中で受け、ひらひらと手を振りながらクリスは退散する。
置きっぱなしにされた最重要書類と思われる紙の束に気付き、レミは小さく声をあげる。
それを聞き留めた海里はその書類を少し離れた位置で眺めながら苦笑する。
(ここにレオンがいたら溜め息を吐くんだろうな)
敢えて自分が溜め息を吐くべきだろうかと思案し、口元を綻ばせる。
わざとであろうクリスの忘れ物によって、知らず部屋内の空気が和らいだ。
「さすがだな」
まとも仕事をしないクリスが処刑部隊隊長なのも頷ける。仕事が出来るよりも、もっと大切なものを彼女は持っている。
「俺も見習うべきかな」
誰に言うでもなくそう呟いた。
●●●
目を覚ました場所はもうすっかり見慣れてしまった部屋。
月が岡山家に居候することになったから与えられた部屋である。
この部屋にあるものは最低限、高価なものばかりだ。そんな気遣いにさえ、強い疎外感を感じてしまう月である。
自分の愚かさから逃れるように月は窓に目を向ける。
眠っている間に夜になってしまったようで、周りは暗闇に包まれている。
幾分か暗闇に慣れてきたところで、自分の鞄を探す。
「あった」
思っていたよりも近くにあった鞄をベッドから降りずに足だけで引き寄せる。文子が見ていたら強く非難されるであろう。
鞄の中を漁り、スマートフォンで時刻を確認。深夜の一時。
「明かり、つけなくて正解だったかな」
んー、と伸びを一つしてベッドから降りる。
時間が時間なので誰かが起きている可能性は限りなくゼロに近いが、取りあえず下へ向かう。
やけに静かな家内に少しだけ物寂しい印象を受ける。
「あれ?」
リビングに入った月は人影を見つけ、不思議そうな声をあげる。
人影の正体は岡山家の次男坊、健である。ちょうど今帰ってきたばかりらしい健は少し遅れて月の存在に気がついた。
「今、帰ったの?」
「はい、月さんは……」
「いやあ、寝過ぎちゃってさ」
「そーですか」
普段よりも反応が淡泊な気がする。
大人びた表情が宿る童顔はいつも通りに見えて、月は気のせいだと自分を納得させる。
「話し相手くらいにはなりますよ」
唐突の言葉に月は大きな瞳を丸くし、「そうだね」とほとんど口の中だけで相槌を打つ。
眠っている間に見たのは子供の頃の記憶。未だに月の中に暗い影を落としている出来事の記憶。
胸中に湧きおこるもやもやとしたものを吐き出してしまいたい。
そんな月の気持ちを無機質な健の瞳は見抜いているようだ。
「じゃあ聞いてもらおっかな」
精一杯の明るい声を出す月に答えるようにして健はリビングの明かりをつけた。
人工的な光に照らされ、二人の姿が明瞭になる。
健は安物のTシャツの上に、一回り以上大きいパーカーという普段通りの姿である。胸元には桜の花弁を模した透明の石が揺れている。
病的に白い肌とは対照的な漆黒の髪と瞳。それらは光を完全に拒否しているような印象を受ける。
対する月は制服のままだ。
三つ編みにされた琥珀色の髪は眠っていたせいか乱れている。
今更ながら、自分が制服のままだということを思い出した月は照れ笑いを健に向ける。
「シャワーだけでも浴びてきたらどーですか。俺、待ってますよ」
「うん、そうだね。そうする」
話を聞いてもらう上に待たせてしまうことに申し訳なさを感じながら、月はリビングを後にした。
残された健はただ真っ直ぐ月が去っていった方向を見つめる。無感動な瞳からは健の考えは読み取れない。
「本当は俺のすることじゃないんだけれど」
話を聞くことならもっと相応しい人物がいる。
ほとんど部外者に等しい健に何か言えるわけでもない。できるのは話を聞くだけ。
それでも話を聞いてもらえるだけで不思議と楽になるものだし、部外者だからこそ話しやすいことだってある。
(王様にも頼まれてるしねー)
口元だけの笑みを貼り付け、視線を移動させる。
不意に。
「健?」
リビングの扉が開かれる。
現れたのは寝癖だらけの髪を無造作に伸ばした少年だ。岡山家の長男である星司である。
考え事に没頭していたせいか、名前を呼ばれるまで気付かなかった。
「帰ってたのか」
「月さんの時も思ったけど、そー言われると俺が夜遊びしてるみたいだなー」
「健、いつのまにそんな子に……」
大袈裟な仕草を見せる兄を健は冷めた表情で見ている。
この反応は偽物だ。
星司はこうして似非ブラコンを気取るのは普通でありたいから。
岡山家はある一点を除けばごく普通の家庭だ。ある一点、健という異常はこの家の中に、星司の中に深い闇を落とす。
その闇を払拭させるための似非。
そのことを理解している健はただ諦念に身を任すだけ。
「いや、本当に夜遊びしてるわけじゃないから」
適当な言葉とともに偽物の笑顔を貼り付ける。
と、星司の返答を聞くより先に健の懐が振動する。
懐からスマートフォンを取り出した健はそれを耳に当てる。仕事用のスマートフォンである。
「もしもし……ああ。それは――」
何やら話し込んでいる健の姿を星司は静かに見つめる。
誰からなのだろうか。和幸か、友人か、それとも別の誰かか。
星司は自分でも驚くほどに弟の交友関係を知らない。
「分かったよ。今から行く」
小さな溜め息とともに健は電話を切った。
「兄さん。後日、機会があったらって月さんに伝えといてもらえる?」
「ん? 別にいいけど」
「ありがと。じゃ、俺は少し出かけてくるから」
星司の言葉を聞かないまま、健はその場を後にした。
しばらくしてリビングに戻ってきた月は星司の姿に目を丸くする。
「あれ? どうしたの」
「水を飲みにな」
健がいたことですっかり忘れていた本来の目的を思い出した。
別に切羽詰まっていたわけではなく、別にいいかと思える程度のものだ。
「そうそう。健が後日、機会があったらって。なんか、急用ができたみたいだったけど」
「そっか」
少しだけ残念そうな表情は見せた月は「仕方ないよね」と心中で呟く。
誰かに話すことで楽になりたかった。
星司や華蓮には迷惑をかけたくないという気持ちの方が先に出てしまうけれど、健にならば話せるような気がしたのだ。
しかし、用事ができてしまったのならば仕方がない。
「月の分の夕飯、冷蔵庫にあると思うぜ」
「うん。ありがとう」
仄かにはにかむ月に星司は少しだけ違和感を覚えた。