1-20(幕間)
化け蜜柑の本体である大樹の処刑が完了したと報告が来てから数日が経った。
レオンから聞いた報告には推測の域を達しないような不可解な点が多く存在している。
大樹は潜んでいるうちに強い力を蓄えた大変危険な妖である。いくら処刑部隊の中のトップに君臨するメンバーを当てたとて、倒すのは難しいところであった。
しかし、あの場には処刑部隊以外にも外にいたという二人も含め、かなりの戦力が集まっていたと言える。
今まで所在不明だった妖があのタイミングに現れたこと、これに疑問を抱かないわけがない。
妖界を統べる王である彼女は幼い顔立ちに苦悩の色を浮かばせる。
「あーもー」
身長よりも長い金髪を一心不乱にかき乱す姿は普段の威厳を微塵も感じさせない。
尽きることの知らない疑問に、音を上げた妖界の王は力尽きたように突っ伏す。
そんなとき、不意に部屋の隅に置いてある鏡が大きく波打った。彼女の身長よりも大きい鏡だ。
顔だけを上げた女性は鏡を見つめ、何度か瞬きをする。
「樺」
身体を起こした女性は側近である妖の名前を呼ぶ。
音もなく現れたのは長身の男性。その額には小鴨色の勾玉がつけられている。
「妖華様、お呼びでしょうか」
恭しく頭を垂れた樺は無言で主である妖華の言葉を待つ。
「人払いしてちょうだい」
「は」
短い返答のち、樺は現れたときと同じく音を立てずに部屋から去っていった。
それを確認した妖華が視線を鏡へ向ければ、さらに大きく波打っているのが見て取れる。
手招きを一つ。糸がつけられているかのように真っ直ぐ鏡が机の前まで滑り込んだ。
波が全ておさまった頃、鏡には一人の女性が映っていた。
老い知らずの肌は瑞々しく、年は二十代くらいだろうか。濡れたような黒髪がしゃんとした背中に流している。
純和風な顔立ちは無表情で、黒曜石を切り取った瞳は静かに妖華へ向けられている。
「桜」
澄んだ声が室内に響き渡る。
「どうしたの」
『少し話したいことがありまして。今、大丈夫ですか』
「ええ」
話の内容はそれとなしに予想はついている。
同時に以前、碧水がいなくなったせいで中断されていた話を思い出して口元を緩める。
「ようやく碧水の機嫌が直ったのね」
『私には機嫌を損ねた覚えなど、まったく一切ないのですけれど』
『事実』
反論する碧水を指摘するその声は、どことなく碧水の声を似ている。
『氷雪は黙っておいてくださるかしら』
氷雪。桜の式の一人であり、碧水とは対となる存在だ。
碧水と酷似した容姿を持っており、二人は常に一緒にいる。相反するような性格をしているようで本質はまったく同じであり、互いに強い愛情を注いでいる。
ちなみに名前は雪解け水から生まれたことに由来しており、桜のものぐさ加減がよく分かる。
『静粛』
告げられた声は実に静かなものだ。
主である桜と、氷雪のことだけは素直に従う碧水は渋々といった体で口を噤む。
どうしても二人だけには強く出ることができないようで、氷雪は時折こうしてブレーキ役を務めることがある。
もっとも見た目同様、本質も酷似しているのでブレーキ役の任を担っているのは稀であるが。
「さて、話を始めましょうか」
気を取り直す妖華の言葉に桜が無言で頷く。
「話って化け蜜柑のことでしょう?」
『はい。私が知っているのは流紀から聞いたものだけですし、貴方なら詳しいことを知っていると思いまして』
頷き、レオンから受け取った報告書の内容を自身の見解を含めて話す。
本来なら秘匿すべき情報であり、人間に話していることがばれたら他の幹部から強い非難を浴びることだろう。
けれども、その幹部たちよりも桜の方が妖華にとって信用に値する人物なのである。
こうして妖界側の情報を桜に開示することは別に初めてではない。
『なるほど』
何やら考え込むような仕草を見せる桜を眺めつつ、「悪用されても正直私は困らないし」と無責任ともとれる言葉を心中で呟く。
「で、一番の問題は妖の数なのよね。封印が綻びつつあるのと関係があるのかしら」
多すぎる妖の数。
妖退治屋となった約一か月の間で華蓮が遭遇した妖の数(レオンたちを除く)は二桁を超える。
全盛期に人間界へいた妖は一部例外を除き、退治されたか、退治されることを恐れて妖界へ渡ってきた。
現在、人間界にいる妖は明らかに減少している。つまり一か月の間で二桁も妖と遭遇するということは異常以外の何物でもない。
『そう考えるのが自然でしょうね。ただ、ゲームが新たな展開に進んだ今、あまり気にすることでもないでしょう』
「そう、ね」
身を引き、隠居の身となった二人は若者たちの姿を見守ることしかない。
大切なものを守るために、大切なものを危険に晒さなければならない苦しみ。
強大な力を持っているのに、見守っているることしかできないもどかしさ。
「なんのための力なのかしら」
『信じるべきです。あの子たちは我々が思っているほど弱くはありません』
真っ直ぐ妖華を見つめる黒曜石の瞳には強い光が宿っている。
これが人間の強さというものだ。
刹那の人生に宿る輝き。なんと美しく、羨ましいものか。
切なげに揺れる紺碧の瞳に映ったのは藍色の姿。
「桜、長生きしてね」
『そのつもりです。貴方を一人にするわけにはいきませんから』
そう言った桜はいつもの鉄面皮を破り、珍しく微笑を口元に乗せた。
桜もいつかは妖華を残していってしまうのだろう。それでも、今はその言葉があるだけで十分だ。
●●●
目の前に立つのは小柄な少年だ。
身長は小学生といっても通用するほど低く、幼い顔立ちに宿る表情はやけに大人びている。一回り以上大きい安物のパーカーを羽織り、胸元では桜の花弁を模した透明な石が夕陽を浴びて、煌々と輝いている。
薄い唇は僅かに綻んでおり、闇色の瞳は射貫くようにこちらを見ている。
「こうやって話すのは久しぶりですね」
場所は処刑部隊が一時的の拠点としている一軒家の近くにある公園。
時間も時間なので子供の姿は一切なく、現在は二人だけの貸し切り状態である。
「そうだね」
彼――健と面と向かって話すのは、もしかしたらあの日以来かもしれない。そんなこと考えながら、口元の笑みを深くする。
海里の手首には白い糸が縒り合わせられた腕輪がつけられている。レオンから渡されたものであり、海里の身に何かあれば処刑部隊のメンバーに伝える仕組みとなっている。
「この前はありがとう。健君の協力がなかったら、もっと手古摺ってたよ」
「正直、何かをしたってわけじゃないですし、礼にはおよびません。それで話って何ですか。お礼を言うだけに呼び出したわけではないんでしょ」
そう、健をここに呼び出したのは海里なのだ。断られる可能性が低くないことを承知して頼んだわけだが、快く了承してくれた。
「うん。健君に聞きたいことがあってね」
「聞きたいこと、ですか」
そう聞き返しつつも、何となしに察していたのだろう。無表情の中にないともとれる笑みが宿っている。
続く海里の言葉を楽しみにしているような姿に不思議と不快感は湧かない。
「どうして妖華様の術を妨害したの?」
「んー、俺がしたことになってるんですねー」
含みのある言い方である。
呼吸をするように人を惑わす健の言動に、海里は普段の調子を崩さない。
「俺にはそうとしか考えられないけど?」
僅かに目を細める健の反応を眺めながら、海里はあの日のことを思い出す。
○○○
必死な声が海里の名前を呼んでいる。
背中でそれを聞き逃す。何度も止まりそうになる足を叱咤し、ただただ歩みを進める。
自分の意志を貫き通すという覚悟が表れた隻眼は真っ直ぐと前を見据えている。
本音を言えば、今すぐにでも振り返って親友の元へ駆け寄りたい。けれども、海里の立場はそれを許さない。
たった六年しか生きていない子供とは思えない達観した瞳は、押し込めた感情の波が僅かに溢れ出している。
角を曲がった頃には自分を呼ぶ声は聞こえなくなっており、無意識に安堵の息を漏らした。そこで目の前に一人の少年が立っていることに気がついた。
何度か目にしたことのある人物だ。先程まで聞こえていた海里を呼ぶ声の主――星司の弟である健だ。
一回り以上大きい安物のパーカーを羽織った小柄な少年だ。身長が低いだけで、見た目は現在の健とほとんど変わりない。
幼い少年が纏う空気は海里の一つ下――五歳児のものとは思えないほど大人びていた。
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
状況が読めていないのか、平常に振る舞う健に得体の知れない何かを感じ、戸惑いを見せる海里。
逸らすことを許さない闇色の瞳は無機質で、海里の心中に渦巻いている感情を見透かしているようだ。
「消すんですか。兄さん達の記憶を」
前触れもなく紡がれた言葉で健が状況を読めていないわけでないことを悟る。同時に心臓を鷲掴みされたような衝撃を感じた。
何故、彼がそれを知っているのか。
星司や華蓮、史源町で関わった人々から海里の記憶を消す。そのことを知っているのは妖華と、海里が史源町を去ったのちに世話になるという処刑部隊の幹部しか知らないはずだ。
ただ事実を口にするような淡々とした声からも、感情が欠落した瞳からも、健の真意を読むことはかなわない。
「どうして、それを」
「秘密です」
今とまったく同じ仕草で言ってのける健。
尽きることのない疑問の答えを貰えそうにないとそれとなしに悟った海里は別の言葉を紡ぐ。
「止めにきた、の?」
どんなに得体の知れない何かを感じていても、このときの海里とっての健は星司の弟でしかなかった。関わることがほとんどなかったがために、健という人間を理解していなかった。
今の海里であれば、健が止めにきたのではないことを察することはできていただろう。
「違います。俺は記憶を消す手助けをしにきたんですよ」
浮かべられる笑顔。
強い魔力が込められたような怪しい笑みに魅了され、同時に背筋の凍るような恐怖心を感じる。
「まあ、妖華さんほどの力だったら手助けなんて必要ないでしょうけど」
「なんで……?」
聞いてから、海里は愚問だったと判断する。
彼に対してこんな質問は意味をなさない。そう思ったのだ。
「強いて言うなら、好奇心のためってところでしょーか」
淡々の紡がれた言葉が本当か、嘘か判断することは海里にはできない。
紅い笑みを浮かべる健の姿に自分と近い何かを感じたのだ。
だからだろうか。健の目的の読めぬままにも拘わらず、海里は健の提案を了承する気になったのだ。
その後、妖華の術が何者かによって妨害を受け、不完全なものになったことを知らされた。脳裏に過ったのは当然、健の姿であった。
○○○
妖華が行使した術式の中には一つとして問題はなかったが、何者かに書き換えられた部分がいくつか見つかった。
複雑な術式を上書きするように書き換えられた部分は、並みの術者には不可能なほど複雑なものであった。
健の実力をよく知っている現在の海里は、確信を持って書き換えた人物が健だと言える。
海里は書き換えられたことに対して怒っているわけではない。犯人が健であるならば尚更だ。
そこにある責任は健が手を出すことを許可した海里にも課せられるはずだからだ。
「冗談ですよ。妨害した理由でしたっけ?あの時も言いましたけれど、好奇心のためです」
頑なに誤魔化しの言葉を並べる健は仮面のような笑顔を貼り付ける。
対抗するように海里も笑顔を浮かべた。全てを包み込むような、柔らかく温かい笑顔。
その笑顔ですら、健の態度だけは解けない。
「健君は変わらないね」
「俺は変わりませんよ」
健の言葉を肯定するように、健の胸の辺りで揺れる桜の花弁を模した透明な石が一瞬だけ赤い燐光を放った。
一瞬を見逃さなかった海里は目元をさらに和らげて、透明な石を注視する。
「超レア物なんですよ」
浮かべている笑みを質を変えた健は飄々と言ってのける。
考えていることは言わせないといった意志が込められた態度に、海里は静かに引き下がる。
これも気になっていることの一つではあるけれど、当初の目的からは外れている。
海里が大人しく引き下がったことに頷いた健はふと視線を一点で止める。
考え込むような仕草を見せ、一点――海里の右腕に触れる。突然の健の行動に驚いた顔をする海里だが、特に振り払うことはしない。
健が触れたのは化け蜜柑との戦闘で怪我した辺りであった。
今は微かな傷跡が残っているのみだ。浅い傷だったので、遠くないうちに傷跡も消えていることだろう。
「よし」
満足げに呟いた健は疑問符を浮かべる隻眼に気付き、我に返る。
「あ、すみません。つい」
「別にいいけど。どうかしたの」
「いえ、なんでも。気にしないでって言っても無理かもしれませんが、そういう方向で」
単純に健を悪者と断定できないのは、時々見せるこういう姿を見せるからだ。
策略ではないことが分かってしまうからこそ、余計にたちが悪いとも言える。
いくら大人びていても、健は海里より年下で、まだ中学生なのだ。それを実感させられる。
「分かったよ。気にしないでおく」
「ありがとーございます。それで、他に話というか聞きたいことってありますか」
「答えてくれそうなことはないから大丈夫」
「そーですか。なら、逆質問しても構いませんか」
すっかりいつもの大人びた岡山健に戻っていて、少し残念に感じる。
「なに?」
「変な夢を見ていたらしいとレオンさんから聞きました。良ければ、どんな夢だったか教えてもらえませんか」
質問の意図が分からないまま、海里は自分が見た夢について話す。一度、レオンに話したこともあって、抵抗感はない。
健に隠し事をしても無駄なことは分かっているので、レオンには言わなかったところまで詳細に。
あの夢について健の意見を聞いてみたいという気持ちもあった。
話を聞き終えた健は黙り込み、数分ののちに小さく息を零した。
「なにかあるの?」
考えがまとまったのを見計らった海里の問いかけに、健は慎重に選ぶように言葉を並べていく。
「んーとですね。夢は無意識の部分を表現するものなんですよね。ゲームが新たな展開に進んだことによって、海里さんに影響が出てるのかなーと思って聞いてみただけです。杞憂だったみたいだけれど」
「そっか」
静かな相槌を聞き、健は夕暮れ色に染まった空を見上げる。
もう少し経てば夜の色が夕暮れ空を侵食し始めることだろう。
「兄さんに話したんですよね」
曖昧な言葉に海里は今まで崩すことのなかった笑顔を初めて崩した。
「詳しくは話してないけど、ダメ、だった?」
「いえ、別にどーでもいーです。俺がどーこー言う資格はないですし」
赤く輝く夕陽の眩しさに健は目を細める。
「海里さん」
空を見上げたまま、海里の名前を呼ぶ。酷く静穏な声だ。
細められた無機質な瞳は空を見ているようで、もっと遠くを見ているようにも見える。
「うん?」
「兄さんのこと、よろしくお願いします」
「うん」
つられるようにして、夕暮れの空を見上げる。
数羽の鳥が優雅に空を泳いでおり、夏の匂いを漂わせるせっかちな蝉の声が耳を擽った。
次回からは新しい話です。