1-19
一限目の始まるチャイムを耳にしても、やはり焦る様子を見せない星司が唐突に立ち止まる。
授業中ということもあって渡り廊下は無人で、自然の音がそのまま耳を擽る。
寝癖だらけの髪が風に煽られ、星司の心情を表すように震えている。
覚悟を決め、後ろを振り返る。
二、三メートル先、突然に立ち止まった星司に驚く人物の姿。
腰の辺りまである藍色の髪を持ち、長い前髪に隠された左目につけられているのは黒い眼帯。
これっというほどに特徴的な人物。一度見たら忘れないだろうし、見間違えるはずがない。けれども星司の中には不安が押し寄せていた。
確認しなければ。そんな思いが溢れ出し、震える瞳でその人物と向き合う。
「お前、海里だよな」
カイと名乗った少年のことが今でも忘れられない。
間違いなくあれは海里だった。違うことといえば身に纏う雰囲気が冷たいものであったくらい。
けれども別人だった。海里ではなかった。
自ら名乗ってはいても、やはり目の前にいる海里も別人なのではないか。
そんな考えが脳内を占拠し、縋るような視線を海里に注ぐ。
静かに星司の視線を受けていた海里はたまらず吹き出す。
「星司には俺以外の誰に見えるの?」
「ぁ」
笑われたというのに不快な感じはせず、ただ安堵の気持ちが星司の中に広がっていく。
カイという少年と出会ったときから心につっかえていた何かが消え去るのを感じる。
安堵するのと同時に、いつまでも笑っている海里を半眼にして見遣る。
「笑いすぎじゃね」
「ごめん」
「ほんっと相変わらずだな、海里は」
「星司に言われたくない」
変わっていない。互いに連絡を取らず十年近くの月日が流れたが、海里は昔のままだ。
今まで不安ばかりを募らせていた自分を笑い飛ばしたいくらいに。
こんなことなら信じていれば良かった。自分の中にいた海里という存在を。
それから二人は言葉を交わすことなく渡り廊下を歩く。訪れる沈黙は心地よく、海里が傍にいるという安心感に酔いしれる。
耳に届くのは二人の足音と、自然の音のみ。
時が永遠を刻んでいるような空気の中、星司は口を開く。今までずっと気になっていたことを尋ねるのだ。
「あの時、何で史源町から、俺らの前からいなくなったんだ」
華蓮たちの記憶を消してまで。
もう会うことはできない。そんな言葉だけを残して海里は史源町を去った。
それからしばらくは手紙が届いていた。内容は当たり障りのないもので、返事を書こうにも住所が書かれていない。
次第に手紙も来なくなり、完全に海里の所在を知る手立てはなくなってしまった。
「それ、は……まだ、言えない」
心苦しそうな海里の言葉に、星司は安心してしまった。
知ることを決心しておきながら、まだ理由を聞くのが恐ろしくて堪らなかったのだ。
同時に、簡単に答えられるものではないことを自覚し、更なる恐怖がのしかかる。
海里が抱えているもの。それを知ったとき、自分は拒絶してしまうかもしれない。二人の絆に修復不可能な亀裂が走るかもしれない。
たらればを重ね、海里が問いの答えを話す日など来なければいいと痛切に願う。
――そうやって逃げるんだ。
脳内に響く健の声が責め立てる。
否定はしない。健の言う通りだ。
いつだって口先ばかりで、大事な時には逃げてばかりいた。情けないと自覚していても、向き合うことの恐怖にまた逃げてしまうのだ。
無意識に拳を強く握りしめる。
「ごめん」
不意に、海里が歩みを止めた。
漆黒の隻眼が苦しそうに細められ、微かに震えている。
「俺は自分勝手にみんなを傷つけてきた。みんなのことを考えてるふりをして、本当は自分のことばっかり」
泣いているような表情だ。
いつも浮かべている人を安心させるような柔らかい笑顔はなりを潜めている。
「許してほしいとは思わない。でも、俺は本当に自分勝手だから嫌われたくないって思っちゃうんだよね。理由を言えないのは星司に嫌われたくないだけ、なんだ。でも」
泣き笑いのような表情は自嘲するようにも見える。
「でも、いつか話すから。その時は星司も逃げずに聞いてほしい」
強い光を灯した隻眼は真っ直ぐで、信念がこめられている。
自分の弱さと向き合っている目。
今の星司では決してすることはできない強い瞳を純粋に羨ましいと思った。
「海里は、すごいな」
言葉は自然を零れた。
「俺は健に諭されても答えを出せないままだってのに」
海里は変わっていない。けれども、二人の間には圧倒的なまでの差が開いている。
進むことを恐れ、星司が立ち止まっているうちに海里は遥か先を歩いている。そのことを痛感した。
「俺はさ、海里が本当のこと話す日なんて永遠に来なければいいと思ってる。海里みたいに強くないから、自分の弱さを向き合えねーよ。逃げてばっかだ」
「無理に向き合う必要はない、って俺は思うよ。逃げることだって悪いことじゃない。それに」
つられるようにして海里の顔を見る。
「俺は強くない。俺なんかを強いっていったら彼に申し訳ない」
「彼って……?」
答える代わりに海里は淡く笑う。
先程の痛みを孕んだ表情より、儚さを纏う笑顔が鮮明に残る。
深く問うことは諦め、無言で歩き出す。二人の間にはまた沈黙が流れる。
同じ沈黙のはずなのに、やけに落ち着かない様子の星司は忙しなく視線を彷徨わせ、ある一点で視線を止める。
血で汚れた海里の右腕。同じく血で汚れたハンカチが巻きついている。
「それ、大丈夫なのか」
「ん?ああ」
星司の視線を伝うように自身の右腕を見た海里は今気付いたような鈍い声を上げる。
レオンの応急処置のお陰で血は完全に止まり、黒く乾いてこびりついている。
思案ののちにハンカチを解く。元は白いハンカチは所々、黒くなっている。ハンカチと自身の右腕に添えるように左手を掲げる。
出現するのは透明な液体。水ともとれる液体は海里の右腕に、ハンカチに纏わりつくように蠢く。
液体が姿を消した頃には制服やハンカチにこびりついていた血は完全に消えていた。
「よし」
「すげぇ、便利だな」
「地味に制御が難しいんだけどね。練習すれば星司にもできるようになると思うよ」
「先生!是非、俺にご教授を」
何故、海里がそんな術を使えるのか。
気になってはいるだろうが、星司は口に出さない。
「ってか、さ。なんで、戻ってきたん、だ?」
心中で渦巻く葛藤を押しやるように言葉を紡ぐ。
そんな星司のことを分かっているのか、今度の海里は素直に答えた。
「大体はレオンが流紀さんに話してた内容で間違いないんだけど」
二人の会話は近くにいた海里と星司の耳にも届いていたのだ。
「星司は神生ゲームって知ってる?」
「じんせいゲームってボードゲームの?」
「やっぱ知らないか」
ほとんど口の中で呟く海里に、星司はひたすらにはてなマークと頭上に浮かべ続ける。
海里の反応から察するに星司の思う『じんせい』ゲームではないようだ。
「神生は神の生って書くんだ。神生ゲームに勝利するとなんでも望みが一つ叶えられる、らしい」
話を振った本人ですらいまいちよく分かっていないようだ。
「じゃ、海里はそのゲームに勝ちたいわけ?」
「ううん、俺は自分の力で叶えられない望みは諦めるから」
潔いとしか言えない海里の言葉に、星司は何となく拍手を送る。もう校舎内に入っているので、声も拍手音も控えめに。
「そもそも神生ゲームはルールも勝利条件も不明なんだよね」
「それってゲームとして成立してなくね?」
的確な星司の指摘に海里は「都市伝説みたいなものだし」と複雑そうな顔を見せる。
「で、海里が戻ってきた理由とどういう関係が」
「ないね」
悪びれたふうもなく答える海里に星司は静かに溜め息を吐いた。
はぐらかされたのが明らかに分かっていても、悪い気がしないのは海里の人柄がなせることだろうか。それとも、知らずに済んでいることを安堵しているのか。
「まあ、直接的な関係がないだけなんだけど、ね」
吐息のような海里の呟きは星司の耳には届かないまま霧散する。
教室まで辿り着き、二人の会話はそこで終わりとなった。