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すでに教室への移動を始めている一年二組の列に視線を向けていると、数人の生徒が体育館の入り口間際で列から抜けるところを目撃する。
予想済みのメンバーだったので特に咎めることはない。理由はレオンと同じだろう。
ただ他の生徒や教師にばれないか少しだけ不安ではある。
「レオン」
抜け出した生徒の一人が上手い具合に生徒の波をくぐり抜け、レオンに声をかける。
藍色の長髪を持つ少年。慣れているだけあって、生徒にも教師のも少年こと海里が抜けていることに気付いている者はいない。
「海里様も気付きましたか」
「うん。彼が言ってた特典って奴かな」
肌を撫でる不快な気配に、海里の笑顔にも苦々しいものが混じる。
「今すぐ現れないところを見ると生徒達が去るのを待ってくれているのでしょうか」
「いいタイミングとは言えなくても、そこまで配慮してくれるのはありがたい、かな」
海里の表情に混じっている苦々しいものが不快な気配に対するものだけではないことを察する。
協力してもらっておいて文句を言うわけではないが、もう少し場所を考えてほしかった。
「彼らしいといえばらしいけど」
「割り切った方が早いですよ。彼に利用するということはこちらも利用されるわけですから。しかし……今回の得体の知れなさは群を抜きますね」
「それこそ割り切るべきことだよ」
一般生徒と教師の退場が無事に終わったようだ。思っていたより早く済んだのは和道の協力のお陰だろう。
二人は自らにかけていた認識をずらす術を解く。この術式により、体育館内に残っている不自然さに気付かせないようにしていたのだ。
初歩の初歩と言われる術式の一つだ。もっとも残った複数の人物のうち、使えないと思われる者が二人ほどいるわけだが。
改めて体育館内を見渡す。残っているのは教師三人と生徒三人、そして猫一匹。うち四人は本日この学園に来たばかりの人物達である。
「そろそろ来ますかね」
レオンの呟きに答えるように体育館内が禍々しい妖気に包まれる。
勢いよく噴出していた妖気は一か所に収束していき、突如として巨大な大樹が出現する。全てを黒で統一された大樹は体育館のちょうど真ん中に鎮座している。
「あれは」
「化け蜜柑の本体、か」
残っていた生徒の一人である華蓮の呟きに続けるようにて流紀の声が重なる。
彼女たちが知っているのは話だけであり、画像を見たことがあるわけではない。それでも確信を持って言えることができる。
現れた大樹は一人と一匹の呟きを肯定するかのようにその身体を大きく震わせる。
ぼたぼたと音を立てて真っ黒に染まった蜜柑と思われる実が落下していく。
警戒心丸出しの視線を浴びる中、落下した実は次々に見覚えのある姿に変貌していく。
以前と違うのはでかでかと書かれていた正義の文字と、赤いマントがないことだろうか。
全身タイツは本体と禍々しい印象を与える黒で統一されている。
「人間ダ」「ウマソウ」「喰ウ」「食ベ、タイ」
化け蜜柑黒バージョンから発せられるのは地から響くような低い声だ。
笑い転げていたあの化け蜜柑とは思えないおどろおどろしさに華蓮は怯んだように一歩後ろに探る。
「海里様」
「うん」
宙に添えられた手の中に突如現れたのは竹刀。
見た目はいたって普通の竹刀だが、妖具という特殊な能力を秘めたものである。銘を龍刀という。
「形状、弓」
呼応するように海里に握られた龍刀はみるみるうちに形状を変え、弓の姿となる。
弓に変化した龍刀を一瞥した海里は矢のないまま、頭上に向けて弓を構える。隻眼は静かに一点を見つめている。
「当たったらごめん」
無責任な言葉を発し、ゆっくりと弦を引く。
「射っ」
矢の形状を保った白銀の光が天井に向かって放たれる。
大きく膨れ上がった白銀の矢は天井に当たったと同時に破裂する。白銀の雨が体育館内に降り注ぐ。
避ける暇を与えず次々と降り注ぐ白銀の矢は化け蜜柑の数を容赦なく減らしていく。
避けることができないのは華蓮たちも同じだ。身体中に白銀の矢を浴びた華蓮は怪我をすることも、痛みを発することもない自身の身体を驚きながら見下ろす。
確かに当たったはずだ。けれどもダメージを負うことは一切ない。
「どういうこと?」
「妖のみに効果がある術のようだな。かなりの使い手ということか」
猫特有の身体能力を発揮し、矢を避けてた流紀は自らの尻尾を撫でる。
避けきれずに被弾した尻尾には焦げたような跡が残り、ぴりぴりと痺れたような痛みを発している。
(幸い被弾したのは尻尾だけだったが。気を引き締めなければ、な)
薄く細めた瞳で、一人の女性を一瞥する。先程の紹介で辻風レミと名乗っていた女性だ。
白銀の矢は結界を張ることで防いだようで、今は涼しい顔で大樹を見つめている。
彼女の登場によって流紀に与えられた動揺は決して小さいものではない。
思考を戦闘へと流すことで、訪れる感情を波をなんとか押し留める。
「もう一発いっとく?」
「いえ、結果は同じでしょう。海里様の力を無駄遣いするわけにはいきません」
大量の矢を浴びたにも関わらず、相変わらず微動だにせずに鎮座している大樹。
それを見た海里の提案を断ったレオンは人好きのする笑顔を貼り直し、銀色の猫へ視線を向ける。
「流紀さん、力添えしていただけますか」
名を呼ばれた流紀は値踏みをするような視線でレオンを見返す。
「……ああ。断る理由もないだろう」
警戒しすぎるのもよくない。大樹を倒そうそしているのは嘘ではないようだし、今のうちは協力するのもやぶさかではない。
大樹に視線をやった流紀は諦念の息を吐きだす。
猫の姿のままで勝てるような相手ではない。
瞬き一つと同時に銀猫は一人の女性へと姿を変える。
癖のついた銀色の髪を背中に垂らし、涼しげな色合いの着物に身を包んだ女性。さりげなくつけられた桜の髪飾りが女性の可憐さを引き立て、藍白色の瞳は凛々しさを宿している。
胸元には銀猫が首輪代わりにつけていたものと同じ浅葱色の勾玉が揺れている。
「っ……あな、たは」
女性の姿を見て声を上げたのはレミだ。
大きく見開かれた流紀と同じ藍白色の瞳が複雑そうに揺れる。
「面倒な話は後だ。今は戦闘に集中しろ」
努めて冷静を保つ流紀は大樹の方を見据えながらそれだけ言葉にする。
互いに聞きたいことは山ほどあるが、空気を読んで口を噤む。
背を向けあった二人の表情には既に動揺の色はない。
「レミ、任せる」
「心得た」
表情の中に気遣わしげなものを混ぜたレオンの言葉に短く答える。
静かに数歩、前に進んだレミの容姿が一変する。
ハーフアップにされていた蜂蜜色の髪は赤い髪紐でツインテールにされている。
服装は女性物のスーツから薄いピンクを基調とした現代風の着物へと変わっている。
赤い髪紐の先につけられた珊瑚色の勾玉が微かに揺れる。
流紀とレミの間に会話はない。
氷で薙刀を生成した流紀は寸前までに迫っていた化け蜜柑の蔕を切り落とす。
間髪入れずにレミが放った竜巻によって化け蜜柑の身体は跡形もなく切り裂かせる。柑橘系の匂いを漂わせる黒い液体が飛び散った。
二人がともに手をあげると、それぞれの頭上に鳥の羽と氷塊が無数に出現する。手を下ろせば、それぞれが鋭さを持って化け蜜柑、そして樹木の上へ降り注ぐ。
「随分と頑丈だな」
苦笑を噛み殺した流紀の呟きは、二人の攻撃を直撃しておきながら涼しい顔を貫く樹木に向けられている。
衝撃で揺れる枝から葉や実が落下している。
それを一瞥した流紀は床を足で叩く。見る見るうちに床上に水が溢れ、再度床を叩けば一瞬にして水が凍り付く。
化け蜜柑になるより先に氷に捕らわれた実を体育館内を走る突風が砕いていく。
「すごい」
無意識のうちに華蓮の口から感嘆の声が漏れる。
レミも凄いが、華蓮が何より驚いたのは流紀の強さだ。
今までずっと猫の姿で過ごしていた流紀の本来の実力を目にするのはこれが初めてなのだ。
「私も負けていられないわ」
懐から桜特製の呪符を取り出し、狙いを定める。
流紀とレミの連携によって大半の化け蜜柑は倒されているが、全てではない。
次々と蜜柑は落とされ、いくら二人の実力が優れているとはいえ対処しきれないのだ。
呪符の持っていない方の手で宙に印を書き、炎を放つ。怯む化け蜜柑の前を駆け、呪符を投げつけていく。
妖退治屋になったばかりの上に、使える術は片手で数えるほどしかないが、甘く見てもらっては困る。
「強く、なったんだね」
囁くような呟き。
以前よりも成長している華蓮の姿に黒い隻眼が柔らかく細められる。
が、その成長が通じるのもここまでだ。
焔に教えられた術と桜特製の呪符を巧みに使いながら化け蜜柑を退治していた華蓮は、周囲を化け蜜柑たちに囲まれている。
上下左右、どこを見ても蜜柑頭の妖が迫ってきている。
「人間、喰ウ」
「喰ワセロ」
逃げ場のない華蓮は恐怖心に包まれる。
桜から貰った呪符はとうに尽きており、焦燥に駆られた華蓮には印を書く余裕も失っている。
「ったく世話のやける」
何体目かの化け蜜柑を倒した流紀は呆れたように吐き捨てる。
氷塊が降り注ぎ、華蓮を囲んでいた化け蜜柑は黒い液体をまき散らしながら絶命した。
何とかピンチから抜け出し、安堵の息を漏らした華蓮の耳元に切迫した声が響いた。身体が何者かに押し倒される。
同時に、背後まで迫っていたと思われる蔕が氷の残骸となって華蓮の目の前へ落ちた。
「っ」
苦悶の声を聞き、華蓮は恐る恐る自分を押し倒した人物に視線をやる。
「だ、大丈夫?」
「うん、大丈夫。それより、押し倒したりしてごめん」
僅かに血が滲んだ肩の辺りを押さえている。
自分のせいで怪我をさせてしまった。
戦闘中に気を抜いたりしなければ。考えなしに行動しなければ。
後悔と罪悪感を積もらせていく華蓮を海里の穏やかな笑顔が包み込んでいく。
柔らかく温かい笑顔。懐かしさを掻き立てられる笑顔は華蓮の中に溜まりつつあった黒いものを浄化していく。
「立てる?」
「え、ええ。その、怪我」
「大丈夫だから気にしないで。藤咲さんは怪我してない?」
「大丈夫よ」
「よかった」と笑う海里に目を奪われた華蓮の頬は心なしか赤くなっているように見える。
「じゃあ、一緒にあれを倒そう」
上手く言葉にすることができなかった華蓮はこくりと小さく頷く。
海里といくつか言葉を交わしているうちに、冷静さを取り戻した華蓮は思考を戦闘へとシフトさせていく。
そんな中、何もできない自分にもどかしさを感じている少年がいた。
少年こと星司が体育館に残っているのは抜け出そうとしていた華蓮を手助けしていたからである。
妖探査機によって妖の出現を知らされた華蓮は何とか列から抜け出そうとするが、気配を消すといった芸当が不得手であるために危うく教師に見つかりそうになった。見かねた星司が手を貸したことでことなきをえている。
役目の終えたのだから教室に戻った方がいいのは分かっているが、こんな状況で一人だけ安全圏に逃げ込める星司ではない。
「なにか」
辺りを見回してみるも武器になりそうなものは見当たらない。体術に自信がないわけではないけれど、妖相手では厳しいだろう。
(せめて竹刀でもあれば)
そんな星司の考えを読み取ったかのように竹刀が投げ込まれた。
一目でわかる。それは見間違えようのない、星司が普段使っているものである。
教室に置いてあるはずの竹刀が何故ここにあるのか疑問は尽きないが、考えるのは後回しだ。
「ま、なんとかなるだろう」
気落ちしてしまいそうな自分を叱咤するように呟く。
手に持っているのは愛用の竹刀で、星司には尊敬すべき師匠に教えられた剣さばきがある。
なんとかなる。心中で呟き、前へ飛び出す。
反動をそのままに化け蜜柑に向かって竹刀を横に振るう。
袈裟斬りの要領で引き裂かれた化け蜜柑の身体から、柑橘系の匂いを纏う黒い液体が噴き出す。
「?」
星司が持っている竹刀はごくごく普通のものだ。物を切ることなんてできるはずがない。
思考に没頭する星司の視界に黒い何かが掠め、ほとんど反射的にそれを避ける。振るった竹刀によって切り落とされたのは黒く染まった蔦。
――戦闘中に考え事するなんてお前にはまだ早いぞ。
一瞬で星司を打ちのめした師匠の言葉が脳裏を過ぎる。
「師匠の言う通り、だな」
からかうような笑みを浮かべていた師匠の顔を思い浮かべ、思考を戦闘に切り替えた星司は竹刀を構える。