1-13
背中に注がれていた痛みを孕んだ視線は角を曲がった辺りで感じなくなった。追いかけてくるということはないらしい。
寝癖だらけの少年。彼について思考を回したのは、ほんの数十秒程度の時間だ。
入り込む勇気すらない人間にこれ以上、時間を費やすのは無駄以外の何物ではない。時間は有限。そして、誰よりも優先すべき彼のためを考え、岡山星司という存在を忘却する。
何も映さない無機質な隻眼は白衣の青年をとらえる。
青年もこちらに気付いたようで、彼の髪と同じ漆黒の瞳と隻眼が交差する。
「終わったみたいだな」
肌を撫でていた不快な妖気が消えていることを確認し、ぽつりと呟く。
「少々手古摺りましたが、問題はありません」
「……」
返ってくるのは無言。
元々あの人以外の存在とコミュニケーションを取るのは苦手なのだ。拒否しているとも言える。
少年にとってはあの人以外はどうでもいいのだ。目の前で死のうがなんの感慨も湧かない。
隻眼がレオンを一瞥する。
瞬間、少年は糸が切れたかのように倒れる。地面に倒れ込む寸前にレオンが手慣れた所作で、少年の身体を支える。
お姫様抱っこの要領で抱きかかえ、少年の顔色を窺う。少女と見紛うような顔は色白ではあるが、特に悪いといった印象は受けない。呼吸も穏やかで、ただ眠っていだけのように見える。
ほっと息をついたレオンの背後に新たな気配が降り立つ。
「お久しぶりでーす」
軽い口調ながらも、その声は抑揚がなく機械的だ。
視線を向けた先には予想通りの人物が立っていた。
低い身長と、華奢な身体を包む制服は一回り以上大きい。
童顔に浮かべられている笑みは人を安心させるものであるが、レオンがよく知っているものとは種類が異なる。人の心に安らぎを与えるものではない。人を惑わし、恐怖がないものだと錯覚させてしまうような笑みだ。
「……健さん。お久しぶりです」
「レオンさんに少しお話があって」
「なんですか」
知らず、警戒心を強める。そうしなければ健の巧みな話術に惑わされてしまいそうだったから。
「三年経ったこの日、彼が帰ってきたのはたぶん偶然なんかじゃないんでしょーね」
「分かっています。十分に気を張るつもりです」
無機質な闇色の瞳がレオンが抱きかかえる人物に向けられる。
その間だけ健の顔は無表情に変わる。口は堅く結ばれ、目は僅かに和らげられる。
無表情の中に宿る感情の色にレオンは魅了される。作られた笑顔よりも強い魔力を秘めている。
健の胸の辺りで揺れる桜の花弁を模した透明な石が一瞬、紅く光ったように見えた。
「なら少しは安心できそーです。じゃ、俺はそろそろ戻りますね」
別れを告げるように手を振る健の動きに合わせて、手を全て覆うほど長い袖が左右に揺れる。
ふと、何かを思い出したかのように手を動きが止まる。
「そーそー、もう一つ聞きたいことがあったんでした」
「聞きたいこと、ですか」
「彼、変な夢を見たとか言ってませんでしたか?」
真っ先に脳裏に過ったのは今朝方の会話だ。
――変な夢を見ただけだから。
内容を聞いたところ、予知夢ともとれる夢であった。少年とは長い付き合いとなるが、こういうことは初めてだ。
レオン達が史源町を訪れた理由と通ずることもあり、ただの夢と決めつけるのは憚れる。
「言っていましたが……何か?」
「いえ……別に。ただ、気になっただけですから」
あの夢も健の策略の一つなのだろうか。そう判断するにはやけに歯切れが悪い。
不審そうな視線を隠さないレオンに別れを告げ、健は今度こそその場を後にする。
小柄な背中を見届けたのちに嘆息し、仲間と合流するためにレオンも別方向へ歩き始める。
●●●
カイと名乗った少年が歩いていった方向を呆然と見ていた星司を我に返らせたのは華蓮の声だ。
少年との関係性をしつこく聞く華蓮の表情はどこか怯えているような印象を受ける。
星司が別人になったように見えて怖いのだ。
「やっぱ、華蓮さんは覚えてないんすね」
「どういうこと?」
心当たりがないわけではない。幼少期の記憶がある年の間だけおぼろげで、どこか抜けて落ちているような気がしていた。
子供の頃のことなので深く気にしたことはないし、今まではそういうものだと受け入れていた。
けれども少年と出会ったさい、抜け落ちていた記憶を微かに感じた。二度目の邂逅では混乱ばかり大きくて、それを感じる暇はなかったけれど。
痛みを堪えるように目を伏せた星司は無言を貫き、華蓮の質問に答えようとはしない。
「星司ー、急にいなくなるからびびっただろ」
「あぁ、わりぃ」
星司を探しにきたと思われる航平の姿を見るやいなや、星司の表情は普段のものへ変わる。
遅れて、月と悠が姿を見せる。
今まで華蓮が見ていたものが嘘だったかのように、航平や月と談笑する星司はいつも通りだ。
「そういや試合は中止になったから」
「中止?なんでまた」
「中庭の方でなんかあったみたいだよ」
「怪物が出たとかなんとか。本当のところはわかんねぇけどな。全部活が中止になったみたいだぜ」
聞こえてくる三人の会話に耳を傾けていた華蓮は自分がここに来た理由を思い出し、焦りを露わにする。
華蓮が忘れていたせいで、被害が拡大しているのだ。
「安心しろ。妖気はもう消えている」
不安に駆られる華蓮を救ったのは会って数日しか経っていないのに、やけに耳慣れた銀猫の声。
「流紀が退治してくれたの?」
「頷きたいところだが違う。別の誰かが倒したようだな。この町には他に何人か妖退治屋がいるらしいし」
「そう、良かった」
心の底から安堵する華蓮を横目に流紀は焦燥を募らせる。
別の妖退治屋が退治したというのが自然な考えだ。けれども、流紀は素直にその考えを肯定することができないでいる。
微かに感じた別の妖気。極限まで抑えられた妖気に気付くことができたのは流紀のよく知る妖気だったからだ。
(あいつがこの町に……まさかな)
確信に近い嫌な予感を押し込めながら、様々な感情から立ち直った華蓮の方へ無理矢理に思考を流していく。
もう自分には関係ないことだ。引き摺られそうになる思考を、そう完全に断ち切る。
視線を巡らせる藍白色の瞳が自然な動作でこの場に混じる人物の姿を目にした。
「あ、健兄さんもここに来てたんですか」
流紀が気付くよりも早く、健の存在に気が付いた悠は小走りで駆け寄る。
歓喜を身体中から溢れさせる悠の姿は飼い主の帰宅を喜ぶ犬の姿に酷似している。激しく揺れる尻尾の姿が見える気がしてならない。
遅れて気付いた星司は物言いたげな視線を健へ向ける。抵抗することもなく、それを受け入れた健は何やら悠に話しかける。
大袈裟ともとれる動作で頷いた悠は星司の元で、無邪気さ溢れる顔を向ける。
「場所を変えたほうがいいだろーからついて来て、だそうです」
似ているとも、似ていないともとれる微妙な声真似を披露する悠の言葉を聞き、機械的な瞳と視線を交差させる。
隣に立つ月と航平の二人といくつかの言葉を交わし、時を見計らって歩き出す健を追ってその場を後にする。
相変わらず察しの良い月は両手でガッツポーズを作り、「がんばって」と去っていく彼氏の背中にエールを送った。
そうして辿り着いたのは裏庭と呼ばれる場所だ。名前通り校舎の裏にある比較的に小さめな庭だ。
奥の方に備えられた畑には小等部の生徒達によって植えられたさつまいもなどの野菜の苗が見える。
「ここって結構人通り少ないんだよ。時間帯的に小等部の子達もいないし」
裏庭に来るのは基本的に水やり当番の生徒と畑の様子を見にきた教師のどちらかだ。
景観が良いとは言えないので、いくら人通りが少ないとはいえ告白に使われることも稀だ。人目につかれたくないことをするには絶好な場所なのである。
サイズの合わない服に包まれた身体がこちらを向き、無表情な童顔が星司が口を開くのを待っている。
「あの時、健も見てたのか」
あの時とはカイと名乗った少年と遭遇した時のことだ。ぼかした言い方をしたのは縋る星司を否定するような少年の姿がもたらした動揺から立ち直れていないからだ。
健の登場したタイミングを考えれば、見ていたとしても不思議はない。
「うん。見てたよ」
期待通りの答えを寄越した健に、いつも眠たげに半開きな目を見張る。
「じゃあ……じゃあ、あいつが何者なのか知ってんのか?」
「知ってるよ。でも、今は教えられない」
「それは、俺がまだ迷ってるからか?」
兄弟喧嘩じみたことをしたのは今朝で、まだそれほどの時間は経っていない。
形だけであっても大切にしている弟に諭されても、星司の考えは未だに纏まっていない。人間は簡単に変われないというのはただの言い訳だ。少なくとも星司にはずっと前から考えとまとめるくらいの時間はあったのだから。
向けられる無機質な瞳に責められているような気がして、僅かに視線を下へ逸らす。
「それもあるけれど、こういうことは本人から聞いた方がいいだろうし」
「本人……?」
剣のような刺々しさを宿した隻眼を思い出した微かに身震いをする。
彼がどこにいるか知らないという以上に、会いたくない思いが強く存在している。
ライバルな親友に瓜二つの姿から溢れる拒絶の色をこれ以上見たくないというのが本音だ。
やはり逃げ腰な自分自身にうんざりする。
「会えると思うよ、近いうちにね」
星司の胸中を知ってか知らずか満面の笑みを張り付ける健の表情は意味ありげに見える。
「話は終わりでいいかな?俺、用事があるんだけれど」
曖昧に返事を返す星司に別れの言葉を告げ、健は去っていく。
残された星司はたった一日で起こった数々の出来事を振り返り、拒否をする脳内を無理矢理に働かせる。
会いたくない。知りたくない。このまま平穏な日々を過ごしていたい。
けれど、もしも星司が拒否したせいで悪い方向へ進んでしまったら?
「俺は、もうっ後悔だけはしたくない……っ」