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重たい瞼を押し上げ、真っ先に飛び込んできたのは数日前から自室となった天井。様々な土地を転々としているせいか、自室と言っても特に愛着は湧かない。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。新しい土地に来たばかりで疲れていたのかもしれない。昔ほどこういうことはなくなっていたけれど、この町は自分にとって特別な場であるから無意識に気負ってしまってたのだろう。
「ゆめ、か」
呟いた声は少し枯れている。乱れている呼吸を整えながら、ゆっくりと身体を起こす。自分にかけられていたと思われる毛布が床に落ちた。
腰の辺りまである藍色の髪が汗で張り付いている。汗が体温を奪い、寒気に身体を震わせる。
心配そうな表情を作ってこちらを見ているのは自分とよく似た顔を持つ金髪の子供。
〈大丈夫か?〉
「大丈夫。変な夢を見ただけだから」
〈変な夢……?〉
「変な夢ですか」
金髪の子供の声と重なるようにして聞こえてきた声に隻眼を丸くする。
ジャケットの代わりに白衣を羽織った執事服を着た優男。戦闘時とは違って細いフレームの眼鏡をかけており、つい数秒前まで書類に目を通していたようだ。
本人曰く視力が悪いわけではなく、眼鏡をかけるのは気分と光を直接受けるのを避けるためらしい。
「どんな夢だったんですか」
「大した夢じゃないよ」
笑って誤魔化そうとする少年に優男――レオンの目が僅かに細くなる。今の少年の姿を値踏みしているようにも見受けられる。
「そんな様子でよく誤魔化そうと思いますね」
「ちゃんと覚えてるわけじゃないし」
「断片的なものでも構いませんよ」
言い逃れできないと判断した少年は嘆息し、自分が見た夢について話し始めた。
懐かしい町。幼少期、たった一年の間だけ過ごしていた町。
訪れたのは何年ぶりだろう。この町で過ごした一年間は濃密で、今でもはっきりと思い出せる。
何気なく顔を上げれば、灰色の雲が空を覆っている。単に曇っているわけではないことは不気味に蠢く空が教えてくれる。
肌を撫でるのは不穏な気配。澱んだ空気が不快さを掻き立てる。
少年の手には使い慣れた武器。竹刀のように見えるそれは襲い掛かる黒い塊を一振りで切り裂く。
周りには見慣れた人物も幾人かいた。いずれもひしめき合う黒い塊の対処に追われている。
音もなく凍り付いていく黒い塊は鋭い風により粉々に砕かれる。炎の花は黒い塊を灰に変え、霊力を纏った斬撃が二つに引き裂く。
「 様!」
白衣を纏った青年が切迫した声で名を呼ぶ。
視線の先には焦燥を隠せないでいる青年が苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「お先に」
「分かった」
本当は少年一人に行かせるのは嫌だとその表情は訴えていたが、少年は素直に頷く。
そんなことを言っていられる状況ではないのだ。一刻も早くこの原因を断ち切らなければならない。
そして、その役目に最も相応しいのは少年なのだ。これが最善策なのだ、仕方がない。
「「 」」
少年の名を呼ぶ二つの声が重なる。
一つは少女のもの。気の強そうな瞳が不安げに揺れ、こちらを見つめている。
「私も行くわ」
「お前が行っても足手纏いになるだけだ」
「でも……」
的確な相棒の言葉に二の句が継げないでいる。
少女だって分かっているのだ。現状ですら満足に役立てていないのに、ついていったら少年の危険が増すだけだということを。
迷いを露わにする少女にただ笑いかける。人を安心させる柔らかな笑顔。
「ちゃんと戻ってきて」
「うん」
続いて視線を向けたのはライバルでもある親友の顔だ。もう一つの声の持ち主。
親友は何も言わない。物言いたげな視線のみがこちらを射抜いている。
「行くな」と強く訴える視線にやはり笑顔を向ける。
様々な場面で人々を救っていたその笑顔は少年の最大の武器だ。
「大丈夫。今度はすぐ帰ってくるよ」
「 」
「みんなで待ってて」
渋々といった体で頷く親友を見届け、ゆっくりと背を向ける。
腰の辺りまで伸ばされた藍色の髪がふわりと広がる。
目指すのは――。
話し終わった少年はレオンの反応を窺う。
何やら考えるような仕草をしていたレオンはしばらくして顔を上げる。
「予知夢かもしれませんね」
ただの夢と断言するにはあまりにも鮮明な上に、少年が再びこの史源町に戻ってきた理由に関わる内容というのが嫌に引っかかる。
レオンがやけに難しい顔をしているのもそれが理由だろう。
静かに頷いた少年はレオンの方へ視線をやりながら、別のことを考える。
実は夢には続きがあったのだ。言わないでいたのは心配かけたくないというのと、口にしてしまえば現実になってしまいそうだと思ったからだ。
(あんなのはもう懲り懲りだからね)
脳裏に過る鮮明な記憶を隠すように少年は武器である笑顔で取り繕う。
●●●
目を覚ました星司は見慣れた自室の天井をぼんやりと眺めながら脳の覚醒に努める。
覚醒するまでに時間を要する星司は数分程度そのままで、次第にゆっくりベッドから起き上がる。まだ半分ほど眠っている状態だ。
のっそりとした動きで窓際まで寄り、カーテンを開ける。
太陽光の眩しさに思わず目を瞑る。何度か瞬きをすることでこれを乗り越え、青々とした空を確認する。時刻は朝の七時前後といったところだろうか。
「つーか、いつ寝たんだ」
昨日の記憶を掘り起こそうとして諦める。
常に眠気に襲われている星司にとって知らないうちに眠ってしまっていることはよくある。
勉強会が終わってからのことをいまいち覚えていないわけだが、特に何もなかったということだろう。そう結論づけ、伸びをすることで脳の覚醒を促す。
不意に盛大な音を鳴らした自身の腹を無言で見つめる。そういえば夕食を食べた記憶がない。
眠っていても月辺りが起こしに来てくれるのが常だが、昨日はそれがなかっということだろうか。
違和感を感じながらも、空腹に耐えかねた星司は行動を起こす。即ち、リビングに行くのだ。
夕食を食べずに寝ていたということは十時間以上眠っていたことになる。
「さすがに寝すぎだろ」
呆れてつっこみを入れつつ、部屋を出る。
同時に二つ奥の扉から出てきたのは最愛(という設定)の弟。
無機質な目とかち合う。不意に思い出したのは昨日の出来事だ。
勉強会が終わった後、星司は十年近く前に史源町を去った親友からの手紙を読んだ。今までとあまりにも違う内容の手紙の真意と確かめるために健の部屋にいったのだ。健ならば親友の居場所を知っていると思って。
結果、あの手紙は健が書いたものらしいと知った。安堵とともに湧きおこったのは怒りと恐怖。そして――。
その後の記憶が一切ない。自分は部屋に戻ったのだろうか。
「おはよ」
健の態度は普段通り。無表情に徹している顔からは何も読み取れない。
忘れている、ということはないだろう。覚えていて、あえて忘れているようなふりをしているのだ。
最愛と謳っていながらこの弟のことを何も知らない星司であるが、これだけは確信を持って言えた。
覚醒しきっていない脳を酷使し、思考をフル回転させる星司の横を静かに通り過ぎていく健。小柄な背中をただ見つめる。
「星司?」
声をかけられ、我に返る。
緩慢な動きで視線をやった先に立っているのは最愛の彼女。形だけでも、設定でもない正真正銘の最愛。
普段は三つ編みにされている金に近い琥珀色の髪はおろされている。
「どうしたの、こんなとこで立ち止まって」
「……なんでもねーよ」
丸い瞳に移る憂慮の色に返す言葉が思い浮かばず、力のない気休めの言葉だけを吐き出す。
月は何も言わない。「そっか」と短く返すだけで、深入りはしない。
そんな気遣いが痛ましいものに思え、それでも何も行動に映せない自分に腹が立つ。
「先行くね。星司も早く降りてこないと怒られるよ」
「ああ」
遠ざかっていく琥珀色の背中が、あの日の親友の背中と重なった。
●●●
待ち合わせの場所についた月を先に来ていた華蓮が迎える。
肩には銀色の毛並みを持つ猫が乗っており、月は二人(正しくは一人と一匹)と挨拶を交わし、穏やかな足取りで歩き出す。
当たり障りのない言葉を交わしていた二人の言葉が不意に止まる。
「浮かない顔してるわね」
そう話を振ったのは華蓮だ。
さんざん鈍感だなんだと言われている華蓮であるが、月がいつもより元気がないのに気がついていた。
「んー、ちょっとね」
「話なら聞くわよ。星司君のこと?」
今までにない察しの良さを見せる華蓮に月をどころか、流紀すらも驚きの表情を見せる。
華蓮というと時折こういうことがあるのだ。
「なんか……星司が変なんだよね」
「変って?」
「部屋の前でぼーっとしてたし、怖い顔で健君を追いかけていっちゃうし」
数秒の沈黙の末、華蓮は口を開く。
「健君と喧嘩したんじゃないの?」
「ブラコンのあいつが喧嘩するとは思えないけどな」
流紀は星司と会ってからまだ数日程度しか経っていない。常に傍にいる華蓮とは違い、知っていることはそこまで多くない。
しかし、数日程度であっても星司の件への溺愛っぷりは嫌というほど見せつけられてきた。
嘘っぽさも多少混じってはいるものの、喧嘩をするというのは考えにくい。
自らの見解を述べる流紀に華蓮は得意げに鼻を鳴らす。
「あら、星司君のブラコンは似非よ」
「そうなのか」
ならば時々感じていた演技っぽさにも納得いく。
ただ何故、似非ブラコンに興じているのか疑問が湧くが、華蓮もよく分かっていないようだ。
「どっちにせよ、二人が喧嘩したことは見たことないけれど。でもするんじゃないかしら、兄弟だし」
「そういうものか」
「そういうものよ。不本意だけれど、あの二人の幼馴染である私が言うんだから間違いないわ」
兄弟も姉妹もいない華蓮の言葉には妙な説得力があった。
「華蓮が言うなら間違いない、かなぁ」
●●●
背中に注がれた視線。潜められた気配。
家を出たときから尾行をしている人物が誰なのか考えなくても分かる。口元に笑みを作り、ゆっくりと歩みを止めた。
人通りの少ないこことならば気兼ねなく話ができるだろう。
「いつまでついてくるつもりなの?」
無機質で淡々とした声に尾行していた人物は観念して姿を現す。
服装は着崩された春ヶ峰学園高等部の制服。髪の毛は寝癖だらけで、目は眠たげに半開きだ。
「昨日のこと、まだ怒ってるみたいだね」
意味ありげな笑みを貼り付けた健はそれ以上なにも言わずに星司を見つめる。
声と同じく無機質な闇色の瞳は星司を見ているようで、どこか遠くを見ているようにも見える。
昨日とは違い、恐怖は感じない。怒りの方が先立っているからだ。
「海里のこと何か知ってんだろ」
努めて冷静な声を出す星司の問いに健は答えることはせず、誤魔化すように肩をすくめる。
余裕な態度を隠さない健に怒りがふつふつと湧いてくる。
「惚けんな!」
そんなつもりはなかった。なんていうのは完全に言い訳に過ぎない。
考えるよりも先に身体が動き、強く握られた拳は確かに健に向けられている。このままでは手加減すら抜け落ちた攻撃は容赦なく健に叩き込められるだろう。
しかし、一切の躊躇もなく殴るために差し出された拳は掌によって受け止められる。
「落ち着きなよ」
少し力をいれただけでも、簡単に折れてしまいそうな細い腕からは想像できないほどの力で、星司の拳を受け止めている。押しても引いても拳は微塵も動かない。
やはり余裕な態度を崩さない健は静かに息を吐いた。疲れたような吐息だ。
「いくら家族でも無償で情報を売るほど、俺は親切じゃないよ」
貼り付けられた笑みが音もなく消え失せる。普段通りの無表情だ。
「兄さんはさ、本当にこの情報知りたいの?」
その問いはいたってシンプルなものだ。迫られている答えはYESとNOの二択。
無表情とはいえ、普段と変わりない様子で、昨日のように恐ろしいものを感じたわけではない。
しかし、星司は心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥った。
海里のことについて知りたいという気持ちは確かに星司の中に存在している。
どんなに小さなことでも海里の居場所の手掛かりとなるのならば知りたい。大事な親友なのだ。これも当然のことであろう。
半面、星司は知ることを恐れていた。
もしも、海里が死んでいたとしたら。もしも、自分の知っている海里がいなくなってしまっていたら。
可能性は重なり、まともな連絡もないまま十年近く経ってしまうと、それも信憑性があるように思えた。
手紙などいくらでも偽造できる。それこそ昨日の健がしたように別人が書いて渡すことだってあり得るのだ。
知らない方が良かった。そう思うことになるくらいなら、知らない方が良いのではないかと考えてしまうくらいには星司は臆病者である。
「答えは早い方がいーよ、兄さん」
健は受け止めていた星司の拳を離し、数歩後ろに下がる。口元はそこはかとない微笑を含んでいた。
その表情は素なのか、作り物なのか、星司には判断できない。
似非ブラコンはやはり偽物。どれだけ愛しているだの、可愛いだの言おうが、星司は健の隙間は絶大なものなのだ。
「後悔しないよーにさ」
その一言で、初めて健の本質というものに触れられたような気がした。
(ああ、そうか)
昨日、健があんなことをしたのはこれが理由だったのかもしれない。
優柔不断でどうしようもない兄のために自ら悪となる道を選んだのだ。
健という人間に対する評価が一瞬にして改められる。
「お前って、優しいんだな」
「なっ!」
家族なのに、兄弟なのに初めて気付いた事実。
健の驚いた顔も、初めて見る。いつも無表情か、意味ありげな笑顔でいるばかりだから。
兄弟喧嘩というものもたまにはいいかもしれない。
初めての喧嘩で、謎ばかり膨らんでいた弟のいろいろな一面を知ることができた。
こんなことばかりだったら、怖がることなく知ることを選択できるというのに。
「さて、と。そろそろ学校に行かねぇとやべーな。一緒に行くか?」
「先に行きなよ。俺は用事を済ませてから行くから」
「そっか。んじゃ」
ひらひらと手を振り、去っていく兄の後ろ姿を健は無言で見つめる。
表情は無。何を考えているか微塵も読ませない横顔。
「兄さんは海里さんのこととなると冷静さを欠くんだよねー」
力任せに向けられた拳を思い出し、漆黒の瞳を自身の手に向ける。
何度か握って開くという動作を繰り返した果てに強く握りしめる。
「健兄さんって、優しいんですね」
星司の言葉を真似ながら、状況を見計らったように現れる人物。
春ヶ峰学園中等部の制服を生真面目に着こなし、子供を連想させるような無邪気な笑顔を浮かべている。
健の双子の弟である悠だ。
瓜二つとまではいかないものの、言われてみれば顔つきがよく似ている。
低身長で童顔な健に対し、悠は顔も身長も年相応だ。
「優しくない」
うんざりとした顔で言葉を返す健に悠は無邪気な笑顔の中に、悪戯めいたものを混ぜる。
「優しくないとあんなことできませんよ?」
「……優しくない」
「そうですね。健兄さんは自分には優しくないです」
「何言ってんの?」
冷ややかな視線を悠にくれてやる。
それだけで悠はたちまち涙目になって「酷いです」と縋りつくような声をあげる。
隣で何やら言っている悠を他所に、健の懐から無機質な着信音が鳴り響いた。
自然な手付きで懐からタッチパネル式の携帯電話を取り出し、相手を確かめるより先に耳に当てる。
仕事用の携帯電話なので、かけてくる相手は自然と限られてくる。
「王様、どうしたんですか」
『少し頼みたいことがあってな。今すぐ来れるか?』
「大丈夫です」
簡潔な返答。
その後も短い言葉をいくつか交わし、電話を切る。口元は微かに綻んでいた。
「後はよろしく」
「はい、お気をつけて」
無邪気さを宿した悠の言葉を背中で聞きながら、地面を強く蹴る。
常人ではまず捉えられであろう速度で走り出した健を見送った悠は「さーてと」と小さく呟き、反対側――学校に向けて歩き出した。