6-18(幕間)
秋の色に塗り潰された町。すっかり紅葉色に染まった並木道を華蓮と二人並んで歩く。
空はどこか寂しげで、もう秋なのかと心中で呟く。ほんの少し前まで夏だったような気がしたが、時が経つのは早いものだ。
季節を楽しむ間もなく、夏はすっかり遠ざかってしまった。
処刑部隊の一員になって以来、季節をちゃんと楽しんだ記憶はあまりない。任務に追われているうちに季節が移り替わってしまっている。
十年近くも繰り返してきた日々に寂しさを覚えるのは、一緒に楽しみたいと思える人が増えたからかもしれない。
来年の夏はもう少し楽しめるといい。穏やかな笑顔の裏でそんなことを考える。
「もう怪我は大丈夫なの?」
気の強そうな顔に宿る心配の色を消し去るように「大丈夫だよ」と笑い返す。
悠の治癒の腕前は目を見張るほどのもので、致命傷だった傷も今や薄い傷痕が残っているだけだ。また傷痕を残してしまうという心配は杞憂に終わりそうで安心している。
とはいえ、治癒の術で傷を治すというのは身体への負担が大きい。大怪我で体力を消耗した身体へ無理を強いたことで、海里は今日まで療養生活を余儀なくされていた。
こうして外を歩くのも、実は久しぶりだ。
「華蓮」
意を決して、名前を呼ぶ。
今日、こうして華蓮を呼び出したのは話したいことがあったから。大事な大事な話だ。
周囲には誰もおらず、二人きりの世界が揺れる心を叱咤する。
「翔ちゃんとの話で華蓮も気付いてはいると思うんだけど……」
あの時、海里と翔生が交わした言葉は華蓮の耳にも届いていたはずだ。いくら鈍感な華蓮とはいえ、あれで気付かないほど馬鹿ではない。
ずっと気になっていた。聞くべきかどうか迷っていたところに海里からのお誘いだ。きっと話してくれるのだという考えは大正解で、少しだけ誇らしい気持ちで今はいる。
「――俺は一度死んでいる。今は神の温情で、少しだけ時間を延ばしてもらっている状態だんだ」
必要最低限だけを並べた言葉を紡ぎ、華蓮の反応を窺う。少しだけ恐れがあった。
どんな反応でも受け入れると覚悟を決めたものの、震える心まではどうにもできない。
乱れる海里の心とは対照的に「そうなのね」と頷いた華蓮の反応は実に素っ気ないものだった。
「何も思わないの……?」
「だって――海里は海里でしょ」
――あなたはあなたじゃない。
平然とした顔で答える華蓮の声に、別の声が重なった。まだ幼い少女の声だ。
かつて、華蓮は同じ言葉で海里の心を救った。彼女の記憶には残っていないけれど。
半人半妖で。一度、死んだ身で。
自分は周りとは違うのだと切なく笑った海里に彼女は何でもないことのように言い放った。愚直なまでに真っ直ぐな彼女の姿は目を奪われるほどに美しかった。
変わらない。華蓮はあの頃と変わらない。
癖となっている笑顔とは違う笑みを無意識に浮かべる。年相応の子供っぽい笑みだ。
その真意を知らないながらも、華蓮は得意げな表情を見せている。
「海里って前はこの町にいたのよね」
「うん、そうだね」
「どうして、記憶を消して出て行ったの?」
十年ほど前、海里はこの町にいたのだと星司は言っていた。ほとんど毎日のように一緒にいて親友になったのだと。
華蓮の中にその時の記憶は残っていない。これからたくさんの思い出を作っていけばいいと思う反面、少しだけ寂しくもある。
「元々、一年しかいられない予定だったんだ。俺が妖界と無縁に暮らせていられるのは六歳になる年まで。それが最低限の自由を守る方法なんだって妖華様は言ってた」
最後の一年を史源町で過ごすことになったのは偶然か、必然か。
たった一年でも濃密な時間で、海里にとっては大切な宝物だ。
「本当は誰とも関わるつもりはなかったんだ。それなりの距離感で、それなりの関係性を築いて、未練も後悔もなく別れる。そのつもりだった。……だけど」
残りの一年は海里にとって余分にすぎなかった。あんなことがあって、自分の人生を楽しむ気にもなれなかった海里はただ役目が与えられるまでの余分な時間。
「だけど、星司と出会って、華蓮と出会って。ただの余分だった時間が大切なものに変わった。すごく楽しかったんだ。手放したくないと思うくらいに。けど、期限は変わらない」
終わりが来ないでほしいといくら願っていても時計の針を止めることも、戻すこともできない。寂しくて、悲しくて仕方がなかったけれど、元々知っていたから覚悟はできていた。
「でも、みんなに同じくらい悲しい思いをさせるのは嫌だったんだ。……だから記憶を消した。もうこの町に戻ってくる気もなかったから」
「海里は……戻ってくるべきじゃなかったって思ってるの?」
「ううん。戻ってきてよかったと思ってるよ。また華蓮や星司に会えてよかった。……翔ちゃんにも会えたし」
海里の答えに満足したらしい華蓮は愛らしい笑顔を花咲かせる。美貌に咲いた花に魅了されていた海里はすぐに我に返る。
そうして意を決したように笑顔を浮かべる。
「華蓮、もう一つ大事な話があるんだ」
華蓮の反応いかんでは伝えずに終わろうと思っていたこと。
歩みを止めた海里につられて華蓮もまた足を止める。そうして向かい合って互いを見つめる。
気の強そうな顔立ち。ポニーテールにして結われた黒髪は艶やかで、和風美人という言葉が似合う少女。
顔が紅くなっていないだろうか。胸の音が聞こえていないだろうか。
甘酸っぱく、もどかしい思いで胸をいっぱいにしながら海里は口を開く。
「俺は華蓮が好きだ」
時が止まったかのように音が消失した。時間をかけて意味を咀嚼した華蓮の顔が見る間に赤くなっていく。
こう見えて華蓮は告白された経験がまったくないのである。美人なのは確かなものの、短気な性格が災いして近寄りがたい印象を与えてしまっているのだ。
ともかく、初めて告白に慌てふためく華蓮の唇から零れるのは言葉にならない声ばかり。頭が回っていないのが丸わかりだ。
「付き合おうとまでは思ってないよ。こうして思いを伝えられただけで俺は満足だから――」
「勝手なこと言わないで!」
怒鳴るような声に遮られ、隻眼を丸くする。
「一方的に伝えておしまいなんて都合が良すぎるわ。そりゃあ、まだ混乱してるし、すぐに答えは出せないけど……ちゃんと答えるわよ。当然でしょ」
「いい、の……? 俺が一緒にいられる時間はすごく短い。華蓮を悲しませることになるかもしれない」
「海里は私にとって大切な人よ。友達のままでも、こ、恋人になっても、悲しいのは変わらないわ。関係なんてどうでもいいの。私は海里が好きだから……」
言ってから、ああそうかと自分で納得する。告白されて、顔が熱くなって、気恥ずかしくて、嬉しくて、胸が高鳴ったのは――海里が好きだから。
この好きはきっと友達としての好きではない。――答えはもう出ていた。
「そう。私は海里が好き。だから……残された時間、一緒に過ごしましょう。短くても、長くても、海里と一緒にいられるなら私は幸せだわ」
晴れ晴れとした顔で言ってのける華蓮に圧倒され、ゆるゆると頬を緩める。
武藤海里という人物は常に笑顔を浮かべている。穏やかで、人を安心させる温かな笑顔を。それはもう癖のようなものだった。
けれど、今浮かべる笑顔は癖とは違うもので――。
「ほんとうに……華蓮に敵わないな」
●●●
藤咲邸にある一室。母屋とは別に設けられた所謂、離れと呼ばれるそこには緊張した空気が流れている。
苦手な空気に身を固くする百鬼はどうして自分なのだろうと自問を繰り返す。
いや、理由は分かっている。日常的に藤咲邸に訪れている百鬼は都合がよかった。ただそれだけ。
この重苦しい空気を作り出している原因は向かい合うようにして座った二人の人物である。
一人は部屋の主である女性。濡れた黒髪を背中を流し、桜舞い踊る紺色の着物を纏っている。黒曜石には嵌め込んでいたような瞳は冷たい光を宿している。
もう一人は、春ヶ峰学園高等部の制服を生真面目に着込んだ少女だ。腕には『風紀』と記された腕章を身に付けている。
どちらとぴくりとも動かない無表情で、百鬼は助けを求めるように水瓶の方へ目を向ける。まだ水瓶には誰の姿も映っていない。
「なんだ、この重苦しい空気は」
落胆しかけた百鬼の耳に救世主の声が届いた。
軛の様子を見に行っていた流紀と焔が帰ってきたのである。見るからに安心した顔を見せる百鬼に苦笑し、流紀は瞬きとともに猫の姿をとる。
桜の部屋は狭くはないものの、特別広いわけでもない。少しでも人口密度を減らそうという配慮だ。
「軛はどうでしたか」
「問題ない。といっても、細かい部分は私たちには分からないがな」
史源町を繋ぎ止めるための軛。五つあるうちの三つが悪しき妖によって解き放たれた。処刑部隊や桜の孫である少女たち、そして一人の少年の協力によってなんとか事態は収束し、軛は再び打たれた。
脅威は去ったのだと素直に喜ぶには桜の背負うものは重すぎる。
『待たせてしまってごめんなさい。少し人払いに手間取っちゃって』
ふと水瓶に注がれた水が波と立て、一人の女性の姿を映し出す。光り輝くような金色の髪と、深い紺碧の瞳を持つ女性――妖界の王、妖華だ。
「改めて見るとすごい面子よね」
鉄面皮二人が作り出す重苦しい空気をものともしない妖華の登場に、百鬼は心から安堵の息を漏らす。
無意識に力が入っていた肩をすとんと落とした。
『貴方が派遣されたのね。健君の調子はどうかしら?』
「眠ったままよ。回復にはまだまだ時間がかかりそうって幸が言ってたわ」
今回の騒動の立役者と言っても過言ではない少年、岡山健。首謀者であるオンモを打ち倒し、町を浄化し、軛を打ち直した人物。
ほとんど全ての力が使い切った彼は今、春野家で眠っている。昏睡状態という奴で、三日たった今も目覚める気配はない。
「彼にはかなりの負担を強いてしまいましたからね」
『私たちが動けていたら多少は違ったんでしょうけど』
桜も、妖華も、自由に動ける身ではない。抜け穴を見つけて、小細工を弄して、ようやく外に出ても使える力は本来の五分の一にも満たない。
もどかしい。最強と呼ばれる力を持っていても、これでは宝の持ち腐れではないか。
「健は別に気にしていないと思うわ。自分の役目だからってきっとそう言う。……ただ、悠の機嫌は…あまりよくなかったわね」
機嫌がよくない、なんてオブラートに包んだ言い方だ。あまり所か、かなり悪い。むしろ怖かった。
普段の無邪気さが隠された悠の姿は、近付くのが憚られるほどに恐ろしかった。
「それも健が目覚めたらどうにかなるわ……多分」
最後まで自信を保ってなかった百鬼に苦笑し、妖華は紺碧の瞳を和心へ向ける。
「龍王は何か言ってたかしら」
「特別なことは何も。今まで通り傍観を続けるようです」
妖の王を前にしても物怖じしない和心は淡々と事実だけを口にする。
龍王。出来損ないの神の一人である存在の所在は杳として知れない。時折、眷属を通して言葉を届けるくらいだ。
妖華の身の内に潜む存在が言うには、界の狭間を彷徨っているとのことだったが。
「それと、姫によろしくと。貴方の歌は、天使の囁きよりも美しく尊いと伝えるよう仰せつかりました」
〈ほう。あれも相変わらずのようじゃな〉
妖華だけに聞こえる声が、上機嫌で言葉を紡ぐ。妖界ではまだ一日も経っていない出来事により悪い方に傾いていた機嫌がようやく上を向いた。
「龍王は変わらず傍観、ですか」
『私も含め、妖姫も同じ意見よ。こちらから動くつもりはない。何もするつもりはない、というわけでもないけれど』
すべてをなかったことにされるのは避けたい。あの日のように、消えていくものたちをもどかしく見つめるようなことは。
残ったものはある。今度はその残ったものすら失われるかもしれない。それだけは絶対に阻止しなければならない。
誰かの都合で、消してもいい世界などどこにもないのだから。
「百鬼さん、貴方は彼から何か聞いていますか」
「何も聞いてないし、知らないわ。健のことなら陰鬼に聞く方がいいわよ。ずっと一緒にいるんだから」
件の陰鬼がいないのは、森で療養中のためだ。彼が万全であれば、百鬼がこうして肩身の狭い思いをしながら話し合いに参加することはなかったはず。
いや、それでも護衛の任でこれなかっただろう。健は春野家で眠っているのだから、護衛の任を少し離れるくらい問題ない。問題あると言うなら百鬼が代わりにやってもいいくらいだ。
『直接、話を聞けたら一番早いのだけれど。……健君のことだから話してくれないかしら?』
「なら、目覚めたらここに呼び出せばいいじゃないの。伝令役ぐらいならするわよ」
素直さを詰め込んだ百鬼の意見に妖華は困ったように眉根を寄せる。複雑な感情を含んだ紺碧の瞳は、変わらない無表情の桜を見つめる。
「彼は話さない。ここに呼んだとて無駄足になるでしょう」
頑なさを示した言葉に「そうね」と相槌を打つ。
らしくない感情的な判断を見せる桜に、今まで黙って聞いているだけだった流紀は困惑する。無表情の中には明らかな拒否が滲んでいた。
「必要であれば手を貸すくらいはいくらでもすると、彼に伝えておいてください」
己の感情を隠すように桜はそう言った。百鬼は恐縮しながらも頷く。
「一つ、質問しても構いませんか?」
場の空気を変える声が、静かに放たれた。和心のものである。
どんな状況でも顔色一つ変えない和心は桜と妖華の顔を順繰りに見て、再び口を開く。
「リセットは本当に行われるのですか?」
『ええ、それだけは間違いないわ。根拠もちゃんとある』
言いながら妖華は白い装丁の本を取り出した。神々しく輝いてすら見えるその本は和心の信奉する存在に縁のあるものだ。
「禁書、ですか」
万物を見る力と万物を紡ぐ力を結集して作られた、すべてを記した本。過去、現在、未来を映し出すその本は常に真実だけを記す。
禁書に書かれた未来は必ず起こりうることであり、予言書という側面も持っている。
何よりも心強い根拠を示された和心は納得したように頷く。
「申し訳ありません。疑っていたわけではありませんが、念のために確認を」
『気にしないで。こういう確認はとても大切なものだから』
分かった気でうやむやに話を進めれば、後で取り返しのつかない事態を招くこともある。
「しかし、疑問だな。リセットとやらが脅威なのは分かる。防ぎたいと思っているのも。ならば、何故、傍観したままなんだ?」
至極当然な問いかけに妖華は悩ましい表情を見せる。
桜と妖華の行動には制限がある。それは流紀も知っていることだ。
今、流紀が問題にしているのはもっと別――出来損ないの神々の言動についてだ。
出来損ないと呼ばれてはいても神は神。その力は強大だ。
彼らがその気になれば、桜や妖華が頭を悩ませることも少しは減るのではないだろうか。
任せるだけ任せて後は傍観する態度は、確かに神らしいといえば神らしいと言えるが。
『今はその時ではないというだけのことよ。簡単な話であろう?』
妖華ではない妖華の声が耳朶を叩いた。見れば、水面に映る女性の瞳が金色に輝いている。
金――妖姫を象徴する色だ。
『妾や龍が動かずとも鬼が動く。あれには動く理由があるからの。妾にはその理由がない』
「リセットされても構わないということか?」
『答えを出すには早計過ぎるぞ、たわけ。失くされたくないものは妾にもある。世界すべてを守る理由がないというだけの話じゃ』
守りたいものさえ、守られればそれでいい。他のものが消えようとも妖姫にとってはどうでもいいことだ。
世界は、妖姫の守りたいものの中に含まれていない。
『軛が機能しているのであれば問題ない。今まで通り、守るべきものを守るだけよ』
「龍王の意見も同じってことか」
『うむ。鬼神とて同じ考えのはずじゃぞ。あれが違うのは……とここまでしておくか』
消化不良にさせる言葉だけを残して、妖華の瞳から金色の光が消える。元の紺碧の瞳は困ったように瞬きをして、神の気紛れさを謝罪する。
「これから先のことは鬼神様にかかっているということですか」
『……そうなるわね、世界の行く末は鬼神……いいえ、彼のみぞ知るってろこかしら』