6-17(幕間)
軛は無事に元通り打ち直され、史源町も浄化された。今はまだ、浄化の影響で陽の気が強い状態であるものの、時間をかけて元の陰陽のバランスを取り戻すことだろう。
別行動で対処にあたっていた面々の尽力もあり、被害は少なく済んだ。
首謀者であるところのオンモとサカセの遺体は黒ノ国預かりとなり、悪用されぬよう厳重に管理されているらしい。
「先日、レミが目を覚ましました。……後は貴方が目を覚ませばいつも通りですよ」
王宮に用意された一室。一人で眠るには大きいベッドの傍らに座り、語りかけるのはレオンだ。
眠るのは一人の女性。いつもなら一つに結われている山吹色の髪は下ろされ、白い布団に埋もれている。際どい衣装に包まれていることの多い豊満な身体は、質素な寝衣で隠されている。
灰色の瞳にされた蓋は、人間界の時間で二日間一度も開かれていない。
処刑部隊隊長、クリス。レオンの実の姉。
妖界に行ってくると別れた彼女と再会したのはオンモとの戦いが終わってすぐのことだ。
クリスの許へと案内してくれた妖華の傍らにはいつもいる側近の姿はなく、強い違和感を覚えた。
「死んだわけではないから安心して」
冗談めいた口調でそう言った妖華の表情はどこか切なげで、妖界で起こった何かを想起させる。
樺の姿がない理由も、そこに隠されている気がする。ただ、妖華のあの表情を見てしまっては問い質すことはできない。
妖界を襲ったという脅威はクリスにとって退けられた。が、力を使いすぎたために、クリスの身体は陰陽のバランスが崩れた状態にあるのだという。
レオンは、クリスの力の全てを知っているわけではない。
何故、陰陽のバランスが崩れることになったのか知らない。彼女が隠そうとしていることならば、知らない方がいいのだと思っている。
「……秘密主義も困りものですね」
そんな文句を言っても返ってくる言葉はない。
妖華は心配ないと言っていたものの、だからと言って心配しないわけではないのだ。
思えば、クリスが眠っている姿を見たのはこれが初めてかもしれない。
幼い頃から変わらず姉はレオンよりも遅く眠り、レオンよりも早く起きるという生活を続けてきた。処刑部隊の面々と暮らすようになっても変わらず。
ふと夜中に目を覚ませば、予想していたように彼女も目を覚まして眠るまでずっと傍にいてくれた。
守られてばかりだ。記憶のあるずっと前から、クリスはレオンのことを守ってくれている。
いつも、いつも、傍には優しく温かい灰色の眼差しがあった。
「姉さんが守りたかったものを、今度は俺が守るよ。……だから、今は休んでいてください」
部隊の長として、姉として、下の者たちを守り続けていたクリス。たまにはこうして休んでも誰も文句は言わない。
彼女が動けない分はレオンが動く。だって自分は副隊長で、クリスの弟だから。
さぼり癖があるくせに、肝心なところは押し付けてこない姉の代わりとなって部隊を支えてみせる。
「俺も守られてばかりじゃないんだよ、姉さん」
眠るクリスから「知ってるわぁ」と声が聞こえた気がして微かに笑う。
本当にクリスには敵わない。
●●●
やけに重たい買い物袋をさげた星司は疲れた顔で商店街を歩いている。
あれだけのことがあったので部活も、術の稽古も休みとなった。
始まりは「暇なら買い物してきて」という姉のお達しから。断る間もなく、ついでと母親からもお使いメモを渡され、しぶしぶと駅前まで出てきた次第である。
史源町は駅付近にお店が集中しており、町はほぼ住宅街が広がっている。
良いように使われるのは釈然としないが、気が紛れて楽なのは否定できない。
あの日の宣言以来、健は家に帰ってきていない。健がいなくても違和感なく回る家に気持ち悪く思い、普段は感じない居心地の悪さがあった。
家族の中に健がいないのは、いつものことなのに。
「あ」
鬱々とした感情を内側に広げる作業をしていた星司は、微かな呟きを聞き取って顔を上げる。
「鷺谷、翔生……」
「……え、と、岡山だっけ。なんか、その…久しぶり……?」
同じ町で暮らしていれば、こうして出くわしても不思議はない。翔生の手にも買い物袋がさげられているところ見ると、きっと理由は同じだ。
コミュニケーション能力が高い方である星司でも、つい先日まで敵対していた相手の接し方に戸惑いを隠せない。何より彼は、星司の知らない海里を知っている人物でもあるのだ。
「少し、話さないか?」
気まずい以上に断る理由もなく、二人して近くの公園のベンチに腰かける。そういえば翔生と初めて出会ったのもこの公園だった。あの時の衝撃は今も忘れられない。
「身体は大丈夫なのか」
「……長生きはできねぇって言われちまった。あんなことして代償がこれだけなんて運がいいよな」
闇に堕ちた妖力をその身に宿したことにより、翔生の身体奥深くまで邪気は染み込んでいる。表だけであれば、時間をかけて浄化することもできるが、内側になると取り除くのは難しい。
邪気に蝕まれた身体は常に死と隣り合わせだ。
望むなら取り除く方法を探すと言った海里を断ったのは他でもない翔生自身だ。
これは罰だ。罪から逃れるために、罪そのものを失くそうとしたことへの罰。
もう逃げない。自分の罪にちゃんと向き合い、償いながら生きていく。そう決めたのだ。
「岡山はさ、カイの……海里の親友なんだよな」
「そう、だな。……一応」
元親友の前で断言するのは憚られ、煮え切らない返事になってしまった。
星司の心情を知ってか、知らずか、翔生は変わらない表情で言葉を続ける。
「だったら、フウのことも知ってんのか」
フウ。聞き覚えのない呼び名に疑問符を浮かべて翔生を見つめる。
訝しげな星司の視線を受けた翔生はすぐに「あ、わりぃ」と人好きのする笑顔とともに謝罪を口にする。
あんな出会いでなければ、敵対することがなければ、普通の友人になれたのかもしれない。翔生の気やすい態度を見てそんなことを考える。
「武藤風斗。海里の双子の弟って言えば分かるか?」
「双子の……カイのことか」
カイが双子の弟という話はレオンから聞いたことがある。
海里と翔生の会話で何度か耳にしたというフウという名前。カイのあだ名であり、本名は武藤風斗と言うらしい。
何故、カイと名乗っているのか。聞く勇気のない疑問の答えはすぐに翔生によって明らかにされる。
「フウの世界はもう終わってるんだ。海里が死んだあの日から――」
親を知らず、血の繋がりのない老人に育てられた双子。
普通とは違うのだと言い聞かされ、遠巻きながら周囲から向けられるのは同情や憐憫だ。唯一違うのは、翔生とその両親だけ。
唯一の血の繋がりに、誰よりも自分のことを知っている半身に、全てを委ねてもおかしな話ではない。
風斗は特にその傾向が強かった。依存だ。風斗は双子の兄に依存していた。
「武藤風斗は、あの日に死んだんだ。生きてはいけない。あいつはそう思ってる。……だから、カイなんて名乗ってんだろうな」
海里がいない世界は有り得ない。そんな世界が存在しているはずがない。
あの日、風斗が痛切に叫んでいた光景が痛々しいほど鮮明に蘇る。
いつだって風斗の世界は自分と海里の二人だけだった。どちらかが失われれば、風斗の世界は壊れる。そして、失われるのであれば、風斗の方でなければならないのだ。
考える。もし、あの時、銀色の彼が現われなければ風斗はどうなっていたのだろう、と。
「カイに残された時間は長くない。俺だって長生きはできない。……いつか……カイを失って一人になるフウの傍にいてやれない。だから、岡山にあいつのことを頼みたい」
星司は深々と頭を下げる翔生のことをただ見つめている。
「フウはきっと俺のことを恨んでいる。でも、俺はあいつのこと気に入ってんだ。だから頼む。何かしてくれってわけじゃねぇ。ただ、一人になるあいつの傍にいてやってほしい」
「俺は……」
誰かの何かを背負うなんて星司にはできない。そんな勇気はない。
迷う星司の考えを察した翔生は息を呑み、申し訳なさそうに顔を歪める。
「わりぃ。一人で盛り上がっちまった。無理強いしたいわけじゃねぇんだ。忘れてくれ」
気にすんな、と笑う翔生の顔は強くて、逃げてしまった自分を自覚して恥ずかしくなる。
一度逃げて、それでも向き合う覚悟を決めた翔生。
自分は今も逃げようとしている。情けなくて恥ずかしい。ちゃんと向き合うと決めていたはずなのに。
「そういや、途中で来てた奴って岡山の弟なんだってな」
今も逃げている問題を思わぬところで突きつけられ、心臓が大きく跳ねた。急に早くなった鼓動に気付かないふりをして、なんとか肯定を口にする。
「礼、伝えといてくれねぇか」
「……礼?」
「嘘でも俺は助かったから」
どこか遠くを見るような素振りを見せる翔生に怪訝そうな顔を見せる星司。
星司が見ていた限り、健が翔生に何かをするような素振りはなかった。彼のことだから知らないところで何かをしていたも不思議はないが、助かったというのはどういうことだろう。
逃げたいと訴える心に気付いて、それでも逃げないと口を開く。
「……助かったってなんのことだ?」
「ああいや、本当に嘘だとは思うんだけどさ。海里を殺したのは自分だって。だから自分自身を執拗に責める必要はないって」
想像の遥か上を行く返答であった。星司は驚きを隠さないままに翔生を見る。
何故、海里がそんなことを言ったのか。本当に冗談なのか。
そんなことを考えている自分に気付き、頭を振る。冗談だ。冗談に決まっている。健が海里を殺すなんてことあるはずがない。
「嘘だってすぐに分かった。あの場所に、お前の弟はいなかったしな。気を遣ってくれたって気付いたのは落ち着いてからだったけど。とにかく、助かった。ありがとうって伝えといてくれ」
気を遣った。そうか。そうに決まっている。
冷淡で、冷徹なようで優しい少年は翔生を気遣ってそんなことを言ったのだ。
そう自分を納得させた星司はできるかどうかも分からない約束をして翔生と別れた。
「あ、星司兄さん。おかえりなさい。重そうな荷物ですね」
日頃から鍛えている身でも重いと感じてしまう買い物袋を抱えた星司を出迎えたのは、買い物を頼んだ姉たちではなく、一つ下の弟であった。
無邪気を体現した表情を顔に乗せた弟は買い物袋の一つを受け取り、「思ってたより重い」と泣き言を零す。わざと重い方を渡したことは黙っておこう。
「……健は、帰ってないのか……」
「そうですね。健兄さんは当分、帰ってこれないでしょうね」
「……そうなのか」
含みのあるような言い方が気になりはしたが、特に追及することなく流す。悠も何か言うこともなく、二人並んでリビングへ入る。
台所の方から聞こえてくる話し声は、買い物を頼んだ二人と恋人のものだ。適当に声をかけ、テーブルの上に荷物を置く。
「悠はどうするつもりなんだ? 健と一緒でアカデミーに行くのか?」
言葉はつっかえることもなく零れ落ちた。緊張もなく、いつも通りの自分だ。
どうして健の前にすると、このいつも通りをできなくなってしまうのだろう。
「いいえ」
否定する悠に、これで学費の心配は必要ないなと心中で呟く。
桜稟アカデミーの学費は、他とは比べ物にならないくらいに高いらしいという話を聞いたことがある。
もちろん、特待生制度はある。しかし、健はともかくとして悠の学力では制度を受けるのは難しいだろう。
星司たちの父親はそこそこ大きな病院の経営をしている。平たく言うと院長だ。払えないことはないとはいえ、倹約家な両親のことを考えると質素な生活が始まるのは予測できる。
育ち盛り真っ只中な今、食事がお粗末になるのは避けたい。
「じゃ、そのまま春ヶ峰に行くのか……」
「いいえ」
勝手に結論付けた星司の言葉を、悠はこれまた否定した。
眉を寄せる星司を前に、悠は今までにないほどの無邪気な笑顔を見せつける。
「高校には行きません。――ずっと健兄さんの傍でお仕えする。それだけです」