6-16
次々に襲い掛かる剣や槍を巧みに避けるオンモを遠巻きに眺める健の瞳は紅く煌めいている。空恐ろしさすら感じさせる輝きは鬼神の力を使っている証だ。
万物を操る力は固定化のデメリットを消すことができる。無限に生成される剣や槍などの武器は健が思い描いた通りにオンモを追い詰める。
与えた傷は全て瞬く間に消えてしまう。今まで繰り返してきたこれも、もう終わりだ。
「最後の一人になってしまいましたね。感想をお聞きしても?」
「ふむ。一人になろうとも、我のすることは変わらぬ。目的を果たすだけだ」
「そーですか。では、俺も俺の目的を果たすとしましょー。せっかくお膳立てされているわけですし」
町全体を覆うように響き渡る美しい歌声。思わず聞き惚れてしまいそうな美声は妖姫のものだ。
清冽な歌声は降り積もる黒雪を解かし、町に浄化をもらたす。
常のように聞いている、人の心を奪う歌声とは違い、心に深く滲み込んでいく。内に潜む邪気すらも癒す歌声に耳を傾ける健は、機は熟したと笑みを浮かべる。
はじまりの森に来る前に施した準備が、妖姫の歌声を重なって予想以上の力を発揮する。
「神の力を貸し受ける者には等しく制約が課せられているものです。紅鬼衆しかり、Dしかり、妖姫さんの眷属しかり」
縦横無尽にオンモを狙っていた武器たちが全て霊力に返される。訝しむオンモを他所に、健は言葉を続ける。
制約なしで力を振るう。それは神の力そのものを使っていることになる。制約は神の力を一部だけ与えられた状態と言ってもいい。
「俺に課せられた制約は触れること。一度触れてさえしまえば、全ての万物は俺の制御下に入る。まー、複雑なものを壊さずに操るのは難しーんだけれど」
触れる。それが、健が神――鬼神の力を使うために必要なこと。
岡山健という存在を形作るものが触れればいいので、四肢はもちろんのこと、髪の毛一本でも条件をは満たす。それどころか、切り離されたもの――抜けた髪や霊力で作られたものですら有効判定だ。
「――壊してもいーのなら別だ」
笑みを浮かべた健の瞳が一際強い輝きを纏う。血を零したような紅は煌々と輝き、オンモの死を照らし出す。
ごきっと不快な音をたてて、オンモの腕が逆方向に曲がる。響く歌が治癒を妨害し、瞬く紅がオンモの動きを封じる。
健が生成した武器で散々傷つけられたオンモの身体は今、完全に制御下の中にある。
生物を生かしたまま操ろうと思えば、内臓や毛細血管の一つ一つまで機能を損なわないように気を配る必要がある。いくら人より聡明な頭脳を持っていたとて、それは不可能とだ。
万能のような制約も、神ではない存在が扱えば万能になり得ない。
だが、生かす必要がないのならば話は変わってくる。
健は手の中に細身の剣を生成する。馴染んだ柄の感触を味わいながらオンモへと近付いていく。
紅い輝きに動きを封じられているオンモを前にした健はそのまま剣を横へ薙ぐ。骨を断つ感触。
血飛沫が舞い、サッカーボールほどの物体が地面が転がった。
「さて、と。ここからが本題だ」
頭を切り離され、倒れ伏した胴体に一瞥もくれないまま思考を切り替える。
放たれた軛。汚染された町。オンモが死んだからといって、全て解決するわけではない。
事前準備は滞りなく、妖姫の歌が相乗効果を齎している。状況を分断し、刹那のうちに作戦を見直す。
想定外はある。が、不備はない。問題なく作戦を実行できる。
腕をすっぽり覆っていた袖を捲り上げる。露わになった腕に巻かれた包帯には真新しい血が滲んでいる。
するすると包帯を解けば、青白い肌が姿を現す。包帯とさして変わらない色合いを見せる肌に、塞がりきっていない傷が嫌に目立っている。
白に差し込む赤い線。その上に生成したばかりのナイフを滑らせた。
深く上書きされた傷口から滂沱と血が溢れ出し、白い腕を伝って地面へ。見る間に赤く染まっていく地面を無感動に見つめる健は「こんなものか」と包帯を巻き直す。
不思議なことに、傷口からそれ以上の血が零れることはなく、包帯に新たな血を滲ませただけだ。
痛みを感じる素振りを一切見せない健は血が染み込んだ地面に手をつく。
「陽は陰を呑み、陰は陽に転ずる」
ささやきに呼応するように、健の血が染み込んだ地面が眩い光を放つ。そこを始まりに、次々と光の柱が立ち上った。
柱が上がったのは全て、健の血と桜から貰った数珠の玉を埋め込んだ場所だ。
地脈に沿って作られた光の道が爆ぜ、光の欠片が降り注ぐ。光は軛を陰に堕としたことで作られた闇色の柱を飲み込み、光の欠片が全てを浄化していく。
地面に埋めた血は媒体だ。血を通して吸い上げられた霊力は、地脈に沿うように染み込ませた血を通じて町に広がっていく。
桜の霊力を宿した玉があるとはいえ、吸い取られる霊力の勢いは尋常ではない。それでも健は顔色一つ変えることはない。
「妖姫さんの助けがなかったらと思うとぞっとしないな」
歌声にのせられた妖姫の神気。神気に宿る力は、妖力や霊力を遥かに上回る。
妖姫の協力が得られなかったら、鬼神の力を借りることになっていた。今はそうならなかったことに安心している。
そっと手を離せば、光の柱は徐々に細くなり薄くなっていく。それは本来の役目を終えたからであり、光の欠片は今も降り注いでいる。きらきらと欠片が舞い、幻想的な情景を作り上げている。
「終わったの……」
森の、町の邪気が払われたことで結界が解除されたようだ。姿を現した華蓮の言葉を否定しつつ、彼女の後ろに立つ人物を見遣る。
肩より少し長い髪は美しい藍色だ。迷いを映さない隻眼は真摯にこちらへ向けられている。
芯を持ち、真を失わない。揺れることがあったとしても、選択を誤らない者の目だ。
「まだですよ。軛を打ち直す必要があります。……海里さん、手伝っていただけますか」
「断る理由はないよ。それで俺は何をすればいい?」
「そー構える必要はありませんよ。ただ霊力を貸してくれるだけでいーです。……龍王の力が必要なだけですし」
真っ直ぐに向けられる、苦手な瞳から逃れるように視線を逸らす。
「何言ってるのよ。海里はその、龍王って奴じゃないでしょ。そもそも軛って何なのよ。みんな分かっているみたいに話を進められても困るわ」
町を繋ぎ止めるためのもの、としか知らないとレオンは言っていた。
放たれれば、町が大変なことになる。漠然とした説明で奮闘してはきたが、全て納得しているわけではないのも事実だ。
知っているのなら話せ。
つり目をさらにつり上げた訴えに健は困ったように苦笑する。見れば、レオンたちも同じ意見のようだ。
時間がないから後で話す、と言っても引き下がってくれはしないだろうと嘆息する。
今までさんざん、いろんなことをはぐらかしてきたツケがこんなところで回ってくるとは。
「時間がないので手短に。質疑応答はいろいろ片付いてからでお願いします」
返答を聞くよりも先に言葉を続ける。
「史源町はいろんな界が重なって不安定な状態にあります。存在があやふやで、簡単にかき消されてしまう状態と言えば分かりやすいでしょーか。軛はそれを防ぐためにあります。施したのは妖姫、鬼神、龍王の三人。打ち直すには三人の力が必要なんです。……そして海里さんは龍王の子孫ですから。これ以上の適任者はいません」
未だに聞こえる妖姫の歌声。後は龍王さえいれば、役者は揃う。
龍王本人が出てくることがないのは予想していた。こちらを見ていても現れるようなことはない、と。
「でも、妖姫と鬼神がいないじゃない」
「質疑応答は後でって言ったはずなんですけど……。ま、いーか。妖姫さんはこちらに来ることができない方なので、歌のみを届けてくれています。そして――」
ちらりと星司を一瞥する。訝しげに眉を寄せる星司から視線を逸らし、逡巡ののちに口を開く。
最後の一人、鬼神。それは――。
「――鬼神はここに。俺の中にいます」
存在を主張するように、健の胸元で揺れる桜の花弁を模した石が紅く煌めいた。
告白に対する反応は二つに分かれる。
海里とレオンはやっぱりという表情を見せ、華蓮と星司は隠しきれない驚きを表情にのせる。
鬼神が健の中にいる。浅からぬ縁の中で、まったく気付けなかった。驚きに呑まれる二人を置いておき、健は予定より幾分か遅くなった行動を起こす。
「海里さん、手を」
「あ、うん」
差し出された手を通して、銀色の光が健に渡される。光は徐々に収束し、別の形を作り出す。
笛だ。俗に、龍笛と呼ばれる笛は銀色の光を纏って、長い袖で覆われた手の中におさまっている。
一音、一音、確かめるように吹き、「うん」と小さく呟く。そして――繊細な息遣いと、流れるような指使いよって流麗な音色が生み出される。思わず聞き惚れてしまいそうなメロディーは妖姫の歌声と重なって町を包み込んでいく。
歌と笛の音が美しく重なりあった頃、健はとん、と軽く地面を鳴らす。
笛を吹く隙をついた微かな呼吸のもと、それは始まる。
軽やかに足を運ぶ。両手を笛で塞がれながらも動きは饒舌に語り聞かせているようだ。瞳を紅く輝かせた健ではない健は雄弁に舞い踊る。
メロディーだけだった歌に歌詞がつき、降り積もる光の欠片が世界を飾り付ける。瞬きすら惜しく思うほどに美しい情景だ。
「――」
呼吸をも忘れて見入る面々を他所に、それは終わりを告げる。
始まりと同じように健の足が地面を叩き、惜しむように笛の音が細くなっていく。気がつけば、流麗な歌声も聞こえなくなっていた。
余韻に浸る空気を破るように拍手が響き渡った。驚きの視線を独り占めするのは春ヶ峰学園中等部の制服に身を包んだ少年だ。
「素晴らしい舞でした! さすが健兄さんですね! 思わず見惚れちゃいまいたよ」
「……悠、二人の容体は?」
「お二人とも傷は完全に塞がっています。レミさんは妖力が回復すれば目を覚ますでしょう。翔生さんの方は――」
当然のように会話を繰り広げる二人に、海里は胸の中に暗いものがよぎるのを感じた。
レミの無事を素直に喜べない、不穏な何かが胸を締め付ける。
「ぐっちゃぐちゃになった中身はちゃあんと治してあります。けど、中の邪気まで浄化するのは、さすがの僕でも難しいですね」
「方法がないわけではありませんが」
「……そこまではいいよ。あれだけのことをしたんだ。翔ちゃんもきっと覚悟してるよ」
顔色を変えずに言ってのける海里に健は苦笑を禁じ得ない。
おそらく彼は、覚悟していなかったなんて言葉は許さない。翔生が現実に向き合えるまで説得した上で、どうにかする方法を自分たちで模索していく。
健の手を借りようとはしない。それが命に係わることであっても絶対に。
感情ではない部分で、決断できる人だから。
「優しい顔してシビアなこと言いますね。俺に貸しを作らないっていう点では良い判断ですけど」
信用するなという遠回しの訴えを無理矢理に付け加えているような気がして、海里は小さく噴き出す。そんな気がしたのは多分、海里くらいだ。
一瞬だけ物言いたげな視線を海里に寄越しつつ、健は悠に目配せをする。
「役目を終わったことだし、俺たちはお暇するとしましょー」
「待ってください」
海里を除いた面々が先の情景に呑まれたままのを良いことに、立ち去ろうとしたところをレオンに引き止められる。
さすがは妖界の王直属部隊の副隊長をしているだけはある。簡単に流されてはくれない。
「質疑応答は後でとおっしゃいましたよね。軛について質問しても?」
問いかけは健の肯定を当然と待っており、「構いませんよ」と向き直る。
「軛が打たれた理由……この町が不安定な理由は神生ゲームにある。だからこそ、妖華様が気にかけていらっしゃる。私はこう推測していま――」
言葉を呑んだのはただならぬ気配を感じたからだ。華奢な身体が一回りも、二回りも大きくなったように思え、圧倒的な存在感に気圧される。
健の中に鬼神がいるというのは本当なのだと、疑っていたわけではない事実を再確認する。
小学生然とした見た目を持つ少年に気圧されることを恥ずかしいと思えないくらいの何かを健から感じる。
「その通り、ですよ。史源町は始原、全てが始まった町です。妖姫。鬼神、龍王。出来損ないと呼ばれる神はみな、この町で生まれた」
訥々と語り出した健の言葉に、レオンはただ耳を傾けるしかなかった。それしかできなかった。
「知っていますか。貴族街も、妖界も、元は史源町の一部だったんです。……それが、ある出来事によって次元ごと別れた。だからこそ、史源町は不安定で歪んでいる」
「……」
「軛は史源町を人間界へ繋ぎ止めるためにあります。放たれれば、他の界へ揺らいでしまう。オンモさんはそれを利用してこの町を黒ノ国の領土にしよーとしたんですね。――世界を逆さに。厄介な術でした。……あれと無関係にあそこまでやるとはね」
刹那の時間、健から殺気が立ち上った。
冷静で、冷徹で、冷淡な健らしくない荒々しい気配に場の空気が止まる。鈍感な華蓮ですから気付くレベルのものだ。
圧倒的な存在感を持った残り香を払拭するように健は手を打ち鳴らす。
「すみません」
悪びれるように笑みを浮かべて、「さーて」と空気を変える明るい声を出す。
「今度こそ、俺たちはお暇するとしよーか」
「健さ――」
まだ聞きたいことがある、と引き止めようとしたレオンは海里に止められる。
訝しる視線に頭を振って答えた海里は、健に先に行くように促す。
「俺は健君の負担になるつもりはないよ」
「……本当に、海里さんのそーゆーところ嫌いです。……今回は助かりましたけど。そーだ、オンモさんたちの遺体処理は妖界にお任せします」
海里の意志を尊重することにしたレオンに満足げな表情を見せ、健は背を向けて歩き出す。
吹き抜けの空間から抜ける直前で一度立ち止まり、振り返った。常の無表情に戻った顔を星司に向ける。
鬼神の宿主であると告白して以来、何のリアクションを見せない兄を無機質に見つめる。息を呑み、瞠目する兄の様子に気付かないふりをして口を開く。
「兄さん。……俺、桜稟アカデミー受けるから。しばらく家には帰らないと思う」
何でもないことのようにそう言って健は今度こそ、その場を後にした。星司の胸に大きなしこりを残して。