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6-15

「……ちょっと、まずいかな」


 誤算が一つあった。

 溢れ出した邪気が結界を震わせる。下手したら破壊されてしまいそうな勢いに、力を温存しすぎたと後悔する。少し甘く見ていた。


「――」

「防御結界七十%展開」


 口を開きかけた健の耳に滑り込んできたのは蠱惑的な女の声。

 聞いた者をもれなく虜にしてしまうような魔性の声に応えるように透明な障壁が一新されていく。より強固に、より強靭に。

 さっきといい、今といい、痒いところに手が届くようというのはこのことを言うのだろう。


(あとでお礼をしないとな)


 彼女が真に望むものを与えることはできないけれど。

 周囲に浮かばせた十数本の剣のうち二つを手に取り、漂うヘドロを切り裂く。霊力を纏わせた斬撃でヘドロを消滅させながら、サカセの前へ踏み込んだ。剣を一つ捨て、新たに生成した短刀をサカセの胴へ突き刺す。


 ここまでの所要時間は五秒。

 本体を傷つけられ、怒り狂うヘドロから逃れるように後退した健を狙ったように、白い骨が降り注ぐ。

 翔生の方を見れば、彼を拘束している黒いものが薄くなっているのが分かった。


「これが限界のようです」


 申し訳なさそうな陰鬼の声。翔生を拘束していたのは陰鬼が操った影だ。

 陰鬼が主から与えられたのは影を操る力のみ。影がなければ、役立たずに成り下がる。

 地面を染める黒は影のようで影ではない。空から舞い落ちる黒雪が地面を汚染した証だ。


 最初から分かっていたことだ。骨を避けた健はすぐさま陰鬼抜きの戦術へと思考を切り替える。


 ここから本当に三対一に――眩い光が頭上を駆け抜け、弾けた。

 数多の光の矢が降り注ぎ、ヘドロを消し去っていくのを横目に健は瞳を紅く光らせる。


 盛り上がった地面がサカセを包み込み、そこへ刺突用の剣がいくつも突き刺さる。脱出マジックを彷彿をさせる泥の塊がぼろぼろと崩れ去る。姿を現したサカセは血塗れで、地面に伏した。

 溢れていた邪気は鳴りを潜め、ヘドロは滓と呼べるほどに小さいものになっている。


「これで一人は片付いたかな」


 大した消耗もなく片付けられたのは僥倖だ。これもヘドロを蹂躙してくれた光の矢のお陰。

 そんなことを考えながら光の矢が放たれた場所――木々の隙間に目を向ける。


 立っているのは一人の少年だ。かつては腰の辺りまであった藍髪は肩ほどの長さで切り揃えられている。長い前髪で隠された眼帯だけは以前と変わらない。

 寝間着に上着を羽織っただけの服は大量の血で汚れているものの、大きな傷は一つも見つからない。

 そもそも致命傷を負った彼がこうして平然と立っていること自体、おかしな話だ。その理由を当然のことながら健は知っていた。


「……悠か」

「俺が無理に頼んだんだ。責めないであげて」

「責めませんよ。怪我人の治癒を頼んだのは俺ですから」


 悠の行動は健の命令の範囲内で、治った怪我人が勝手に結界の外へ出てきただけ。

 そのことを問題とするなら最初から誰も出さないように指示しておけばいい。悠は健の命令に逆らえないのだから。


 もし、出てきたのが海里ではなくて星司だったら、また違う反応をしていたかもしれない。いや、そもそも星司ならば、悠が結界の外へ出すことはなかっただろう。

 海里だから全霊をもって治癒を施し、海里だから引き止めなかった。


「――海里さん」


 そっと海里の肩に触れる。瞬間的に透明な膜が海里の身体は張られている。

 海里は強い。黒雪の影響を受けさえしなければ、妖の力を貸し受けているだけの人間に負けることはない。


「翔生さんの相手をお願いします」

「分かった。――ありがとう、健君」


 健とすれ違う。龍刀を竹刀の形に変形された海里はかつての親友と向かい合う。

 いつもの柔らかな笑顔が剥がれたその表情は穏やかな波のように静かで落ち着いている。


「鷺谷君……いや、翔ちゃん。話をしよう」


 ずっと話せなかったことがある。ずっと話さなかったことがある。

 もう逃げないし。逃がさない。


「……カイ」


 あの頃よりも成長した幼馴染は悲嘆に瞳を揺らしながら名を呼ぶ。

 翔生がオンモ側に加勢した理由はあの日をなかったことにするため。

 世界を逆さにすれば、運命を変えられるとサカセは言った。けれども、逆さにする力をサカセは死に、翔生の希望は断たれたも同然だ。


 海里は生きていて、なんでもないことに笑いながら――平穏で平凡でありふれた日常を過ごす。翔生と海里と風斗の三人で。

 抱いていた、ささやかな夢はもう叶わない。


 漆黒の隻眼がこちらを見ている。一途に、真っ直ぐに向けられる瞳が翔生を逃がしてくれる気はないのだと語っている。


「あの日のこと、俺も後悔してるんだ」


 この話し合いに武器は必要ないと、龍刀を手放す。龍刀が地面に落ちた反動で砂が舞った。


「俺は、両親を知らずに育った。傍にはフウがいたし、血の繋がりはなくても育ててくれた人がいたから寂しくはなかったよ。……寂しくはなかったけど、なんでとは思ってた」


 同年代の子供たちは当然のように親がいる環境で暮らしている。片親どころか、両親ともにいない海里は平気なふりをしながらも、心の奥底で羨ましいと思っていた。


 自分の境遇を不幸だと思ったことはない。

 理解者たる半身がいた。優しく厳しい育ての親がいた。普通とは少し違う海里を受け入れてくれる親友がいた。恵まれている。幸せだ。

 けれど、不満がまったくないわけではないのもまた、事実だった。


「今は訳あって離ればなれなだけで、俺はちゃんと愛されてる。……おじいちゃんはそう言ってたけど」


 なら、どうして傍にいない? 会いに来てくれない?

 何年もほったらかしにして平気だなんて愛しているとは言えない。

 父が亡くなっていることも、王という母の立場も知らない、幼い海里はずっとそう思っていた。


 両親に捨てられた自分たちを悲しませないよう、育ての親である老人がついた嘘なのかもしれないと疑う心があった。

 本当は愛されていない。愛されてなんかいない。愛されているなんて嘘だ。


「愛を信じられなかった俺は確かめるようになった。ちゃんと、みんなが自分を好きでいてくれるか不安で、愛されているか不安だったから」


 幼い頃の海里はころあるごとに「俺のこと、好き?」と尋ねる子供だった。当然のように「好き」と答えるみんなを見て、ようやく安心できる。

 大丈夫。まだ愛されている。大丈夫。


「嫌いって言われたのはあの日が初めてだった」


 翔生が息を呑む音が聞こえた。これ以上は聞きたくないとその目が語っている。

 構わず、海里は言葉を続ける。


「翔ちゃんに嫌いって言われたとき、悲しくはなかったよ。悲しく、なかった。……だって、冗談だって、嘘だって分かったから」


 本当は確認なんか必要なかった。聞かなくても、愛されていることなんて分かっていた。

 周囲の優しさに甘えていただけ、という事実をあの時初めて自覚させられたのだ。

 自分が愛の確認をするたびに、みんなはどう思っていたんだろう。


 悲しんでいたのではないか?

 愛が届いていない。そんなもどかしい思い抱かせて、悲しませて、傷つけて、自分だけ安心を求めた結果が今なのだ。


「俺の責任だよ。……俺の強欲が招いたことだ」

「違う! 俺は……俺の責任だ! あの時、俺が嫌いだなんて言わなかったら……カイが死ぬことはなかった」

「――そうだよ」


 息を呑んだ翔生の口から情けない言葉が零れた。この期に及んで、自分は否定されることを望んでいたのだと気付かされる。

 心優しい海里は否定してくれる。甘さを、逃げを許容してくれる。

 そんな縋るような思いを海里は静かな表情で裏切った。


「翔ちゃんのせいで、フウのせいで、俺のせいだ。……あの日、少しでも何かが違っていれば、俺たちは今も三人で笑っていられたはずだよ」


 翔生が逃げなければ。風斗がもっと早く来ていれば。海里が愛の確認なんてしなければ。

 あの悪夢が、悲劇が起きることはなかった。


「生き返ったとき……本当は、嬉しかったんだよ。まだ終わりじゃないんだって。続きがあるんだって……また、三人でいられるんだって」

「だったら!」


 もっと一緒にいよう。あの日を全て否定して、なかったことにして、何もしらない平穏な日々を過ごそう。

 海里は死んでなどいなかった。そんな世界は存在してなどいない。


「ダメだよ。あの日を失くしたりなんてできない。――させない」

「どうして、だよ。カイだって望んでたんだろ? だったら取り戻そう。失った未来を取り戻そう。きっと探せばまだ方法は――」

「失われてなんかないよ。未来は失われてない。だって――」


 静かだった隻眼が少し揺れたように見えた。


「――だって翔ちゃんはまだ生きてる。翔ちゃんの未来はまだ続いているんだよ」

「だから忘れて、幸せに暮らせって言うのか? ふざけんな! 俺だって忘れようとしたさ。何度も何度も忘れようとして、結局思い出すんだ」


 忘れられそうだったのに。

 海里と再会したとき、翔生は嘯いた。忘れられない自分を偽れば、本当になる気がした。

 本当は、風斗に思い出してもらわなくても忘れてなんかいなかった。ずっと、あの日の罪は翔生の中にあった。


「言わないよ。忘れろなんて残酷で優しいこと、もう言わない」

「……っ」

「俺は、逃げるなって言う。向き合えって言えよ」


 怖くなった。海里の言葉の続きを聞くのがたまらなく恐ろしい。

 消えてしまえば最後、縋っていた道が閉ざされてしまう気がした。けれども、向けられる隻眼は逃げることを許さず、翔生の身体と心を縫い止める。


「後悔してるって言うなら逃げるな。向き合って、ちゃんと苦しめ。苦しんで、苦しんで、苦しみ抜いて――今を生きろ。……それが、俺が翔ちゃんに求めることだよ。罪から逃げるなんて、絶対に許さない」

「逃げ、ない。逃げないから……俺はお前を……」

「それが逃げだよ。翔ちゃん」


 一歩、一歩、海里が近づく。身体は縫い止められたように動かず、震えた心で待ち構える。

 固く握りしめられた拳が翔生の胸を叩く。力なく殴られたはずの胸に走る衝撃はすさまじいものだ。

 熱くなる目頭をこらえて、目の前の笑顔を見る。優しくて、温かい笑顔はいつもと違って見えた。


「幸い、俺には翔ちゃんとフウがくれた時間が残ってる。……だから、二人がちゃんと今に向き合えるよう、傍で支えるよ」


 一見、優しさが溢れた言葉のように思える。が、そこには逃げを許さない厳しさが宿っていた。

 翔生が挫けそうになれば、海里は言葉と拳を持って励ましに来る。笑顔を浮かべて容赦なく、逃げ道を塞ぐのだ。


「翔ちゃん……俺のこと、好き?」

「俺は――」


 せりあがった液体を地面に撒き散らす。見開かれた隻眼が、白い靄に塗り潰されていく様を朦朧とした意識の中で眺めていた。

 身体の中に潜んでいたものが存在を主張するように暴れ始める。内側から身体を蹂躙される感覚を味わう翔生は目端に涙を浮かべる。


 このまま終わるのか。また、ちゃんと伝えられないまま終わってしまうのか。


「いや、だ」


 零れた雫に反射するように銀色が瞬いた。

 冷たいものが突き刺さり、そのまま横に引かれる。身体を二つに裂く攻撃を受け、荒れ狂う何かが力を失っていくのを感じた。

 己の身体に巣食っていたものが消えていく感覚を味わいながら、翔生は意識を手放した。


「翔ちゃん!」

「妖の力を宿した代償ですね。中はかなり大変なことになってるでしょーね」


 龍刀を捨て、翔生の身体を受け止めた海里。その横に着地した健はオンモの攻撃をあしらいつつ、翔生の具合を確認する。

 外傷は擦り傷程度で、海里に斬りつけられたはずという疑問は、龍王の性質から解消される。

 持ち主の意思に応える刀。身体を傷つけず、中の存在だけを切り捨てるくらいお手の物だ。


 問題なのは内側。平凡な人間が妖の力を身に宿せば当然、代償を大きい。身に余る力を宿った身体の内部はボロボロだ。海里の迅速な対処のお陰で今はもっているが、事は一刻を争う。


「悠なら治癒できます。早く結界の中へ」

「なにか、俺にできることはある?」


 何度か瞬きをしたのちに、健はゆるゆると笑みを浮かべる。穏やかな笑みだ。


「こっちもすぐにケリがつきます。その後、少し力を貸してください」

「分かった」


 健が作り出した隙を突き、結界内に足を踏み入れる。灰を満たす神聖な空気に息をつきつつ、レミの治癒をしている悠に目を向ける。

 レミの傷は大分治っている。引きちぎられた翼を元通りで、もう心配はいらないようだ。


「話は聞いていました。どうぞ、こちらへ」

「……悠君。翔ちゃんをお願い」

「お任せを。海里さんもお疲れでしょう。少しお休みになってください。結界の外にいるだけでも大変なんですから」


 ちらりと結界の外へ目を向ける。健は今も、大変な場所の最前線で戦っている。

 力は五分。だが、健の言葉を信じるならば、幾ばくもしないうちに決着はつく。海里の出番はそれから、らしい。


 もどかしい思いで戦う健を見つめる海里の耳を美しい声が擽った。歌詞のないメロディーだけの歌に励まされるように、結界内の陽気が存在を増す。


「……妖華様?」


 どこからともなく聞こえてきた歌声は間違えようもない。妖華の声だ。

 と、そこまで考えて即座に否定する。


 違う。この声は妖華であって妖華ではない。

 一音として聞き逃すことが許されないような美声は、結界内に、はじまりの森に、史源町に響き渡っていく。

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