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五月の中旬。
昼間は青一色に彩られていた空はオレンジ色に変わりつつある。黄昏時と呼ばれる時刻である。
沈みかけの太陽は部活を終えて、帰路についている生徒達を優しく照らしている。
柔らかな日差しが降り注ぐ中、道路のど真ん中で口喧嘩を繰り広げている二人組がいた。
野次馬精神でそれを眺める者もいれば、横目で眺め行く者や、一瞥し足早に去っていく者もいる。
興味はあるけれど、関わりたくはなという共通認識を持つ者を尻目に、一人の少女が喧嘩をしている二人に近付いていく。
少女はこの近くにある春ヶ峰学園高等部の制服に身を包んでいる。独自にアレンジを加えられた制服は少女の愛らしさを引き立てる。
金に近い琥珀色の髪は三つ編みにされており、少女の動きに合わせて猫の尻尾のように揺れる。
お姫様という言葉が似合いそうな少女は満面の笑みで二人組に声をかける。
「二人ともがんばってー」
野次馬達の思考を一瞬停止したのち、止めに入ったという考えはすぐに打ち消した。
同じ制服を着ていることを考えると、もしかしたら知り合いなのかもしれない。
「あーあ、星司君のせいで私の貴重な時間を無駄にしちゃったじゃない」
高慢な口調でそう言ったのは和風美人な少女だ。
生真面目に制服を着こなしている少女は、気の強さを語る釣り目をさらに釣り上げて相手を睨む。
「先に吹っかけてきたのは華蓮さんじゃないっすか」
対して不満そうに言い返したのは寝癖だらけの黒髪を無造作に伸ばした少年だ。どこか気だるげで、制服はだらしなく着崩されている。
制服の着方一つとっても対照的な二人だ。
「先に星司君が余計な事を言ったんでしょう。私だって好きで怒ってるわけじゃないのよ」
「そうだったんすか。いつもすぐ怒るからてっきり」
「星司君がもう少しまともだったら私も怒ったりしないわよ。大体こういう時ぐらいその眠そうな目をどうにかしなさいよ」
「どうにかできたら俺も苦労しませんよー」
苛立ちを隠せない様子の少女――華蓮を少年――星司は適当にあしらっているような印象を受ける。
そんな星司の態度に納得がいかない華蓮は額に青筋を浮かび上がらせ、怒りで唇を震わせる。
「もういいわ。あなたの根性叩き直してあげる」
アスファルトの地面を強く蹴った華蓮は星司の前に躍り出、足を振り上げる。
ポニーテールにされた黒髪が夕焼け色の世界に舞う。
「待ってました」
満足げに笑った星司は肩にかけるようにして持っていた袋から使い古された竹刀を取り出す。
華蓮の蹴りを避けるように数歩下がった星司は竹刀を構えた。
ちなみにタイツを履いているので残念なことに華蓮の下着を見ることは叶わない。もっとも星司は華蓮の下着などには一切興味ないわけだが。
一度距離を取った華蓮は鞄の中から扇子を取り出す。高級感漂うものではあるものの、いたって普通の扇子だ。
間合いを取りながら、注意深くお互いの動きを観察する。
最初に動いたのは華蓮だ。うっすら光を纏った扇子が振り下ろされ、星司はそれを竹刀で受け押し返す。
押し返された反動を利用して再び星司と距離を取り、流れるような所作で二つ目の扇子を取り出して投げる。
光の尾を引きながら扇子は星司の方へと向かっていく。
しかし、その扇子は星司の許まで行くことは叶わなかった。新たに現れた少年によって止められたのである。
「お前等、道のど真ん中で物騒な物を振り回すな。非常識すぎるだろ」
くるくると扇子を弄んでいる少年の後ろに立つのは春野和幸という名の男だ。
華蓮達の口喧嘩を応援していた少女、月の父親である。
といっても、その姿を見る限り信じがたいことである。実年齢は三十代後半だが、見た目は二十台といっても差し支えないほどに若々しく、月の父というよりは年の離れた兄と言われた方が納得できる。
「常識も分からない人が兄だなんて……俺、箱があったら入りたい気分だよ」
そう無表情で言ってのける少年の名は岡山健。こちらは星司の弟で、一つ下の中学三年生である。
身を包んでいる中等部の制服は一回り以上大きく、健の華奢さを際立たせている。
身長が低いのも特徴で、初対面ならば小学生と間違えてしまうだろう。
所謂萌え袖から除く細長い指で扇子を弄んでいたが、華蓮の表情が険しくなるのを見て取り、潔く華蓮に返した。
「愛しの弟よ」
何テンポか遅れて、持っていた竹刀を地面に落とした星司は健に向かって大きく腕を広げる。表情からは健が抱きついてくることを期待していることが窺える。
露骨に嫌そうな顔をした健は拒否するように数歩後ずさる。
腕を広げたままの形で待ち構えていた星司は健が抱きついてこないと判断すると、名残惜しそうに腕を下ろした。
「健にそんなことを期待する方が間違ってると思うぞ」
呆れた口調で呟くのは和幸。
その後ろに隠れるようにして立った健は普段通りの無表情に戻っている。
「いいじゃないっすか。健は俺の可愛い弟なんですし」
「うざい」
弁解する星司は猫を手招きするように、和幸の後ろに隠れる健を引き寄せようとするが、その一言に一刀両断される。
大ダメージを受けた星司はアスファルトの地面にしゃがみ込む。
その様子を見て取った健は明らかに作り物だと分かる笑顔で、落ち込む星司に駆け寄った。
「冗談だよ。俺が兄さんのことうざいなんて思ってるわけないよ」
「……健」
「にしても、俺にうざいって言われただけでそこまで落ち込まなくても。もし兄さんが本当にうざかったとしても、俺は兄さんのことが大好きだよ」
「最愛の弟に大好きって言われているはずなのに素直に喜べないのは何故なんだ」
ツッコミを拒否した和幸は苦悩する星司に冷ややかな視線を送る。
そこへ、今まで大人しく兄弟の茶番を見ていた華蓮が待ちきれなくなったのか和幸に睨むような視線を寄越した。
「何しに来たの。邪魔するつもりなら早く帰って、今すぐに」
華蓮に睨まれてもお構いなしの和幸は、星司をからかっていた健さながらに笑う。
「喧嘩は止めるものだろう?」
「あなたの口からそんな言葉が出るなんて驚きだわ」
「失礼だな。というか、目上の人には敬語使えよ」
「ふん。あなたには敬意を払う必要ないって教えられているもの」
「うわー、あいつなら言いそうだな」とどこか遠い目をして呟いている和幸に舌打ちをし、華蓮はそっぽを向く。
と、健と目が合った。
反射的に目を逸らすが、少し遅かったようだ。
「華蓮さん」
普段は無表情な顔に浮かんでいるのは無邪気ともとれる笑顔。標的が星司から華蓮に変わったことを意味する。
「いくら兄さんがムカついたからって不用意に戦闘をするべきじゃありませんよ。力を持っている者こそ、使うべきことをちゃんと考えないと」
「っさいわね。言われなくても分かってるわ」
「じゃあ、まずは短気なとこを直さないといけませんね。俺が手伝ってあげましょーか」
「なんで健君なんかに手伝われなきゃいけないのよ」
反論の言葉を思いつくままに並べていく華蓮を健は軽く受け流していく。
「健、遊んでいないでそろそろ仕事に戻るぞ」
初めに華蓮をからかっていたのは和幸ではないのか、という疑問は捨て置き「はーい」と無邪気な返事を返す。
それに対し『仕事』という単語を聞いた瞬間、星司の顔が険しくなる。眠たげな目が剣呑な色を映して和幸を凝視する。
「あまり健を危険な目に遭わせないでくださいよ」
「心配しなくても大丈夫だよ。それに――」
和幸に代わって口を開いた健の言葉は、風の音に掻き消される。
星司が露骨に反応した『仕事』。
それは彼らが住む史源町の隣に位置する【貴族街】にまつわるものだ。
巨大な塀に覆われた【貴族街】は閉鎖的空間であり、治外法権が認められている。裏社会の最奥といってもいい場所である。
【貴族街】を統治するのは春野家当主を決められており、現在はそこにいる春野和幸ということになる。
星司の家――岡山家も、華蓮の家――藤咲家も春野家と関係の深いが、現在では薄くなっている。藤咲家にいたってはほとんど関わりはないといっていい。また、岡山家は国内有数の病院を経営しており、表に出すことのできない怪我人などを治療する程度の関わりとなっている。
それでも関係がないわけではなく、春野家の恩恵のおかげで星司は高校生ながら医師免許の仮免を習得することができている。
和幸の人柄も分かっているし、信頼もしている。それでも、弟を裏社会に関わらせたくないという思いがあるのだ。
「その思いは本物なのかな」
まるで星司の考えを読み取ったかのように健が呟いた。
驚いて健の顔を見るが、機械のような印象を受ける無表情からは何も読み取れない。
「王様、行きましょー」
うっすらと微笑を乗せた健は和幸の手を軽く引き、歩き出す。
ちなみに和幸が王様と呼ばれているのは、【貴族街】という国を統治する者だからという理由である。
「星司、大丈夫?」
健達が姿を消したのを見計らってか、月が星司の顔を覗き込んだ。
実は月と星司は恋人同士であり、普段と様子の違う星司に心配になったのである。
「あ、ああ」
「大丈夫ならいいんだけど」
まだどこかぼんやりとした様子の星司に言葉を飲み込み、元気づけるように笑顔を向ける。
「帰ろっか」
「そうね。星司君、さっさと行くわよ」
●●●
ビルの屋上から星司達の姿を眺めている人物がいる。
美しい藍色の髪は腰の辺りまで伸ばされ、左目には眼帯がつけられている。
中世的な顔立ちと長い髪が相まって、少女と見間違えてしまいそうだ。しかし彼はれっきとした男である。
下界を眺める漆黒の隻眼は懐かしいものを見ているようで、同時に切なさを宿している。
〈いつまでもそこにいると身体が冷える〉
頭の中に直接響く幼い子供の声に呼応するように少年は隣を見やった。
立っているのは少年をそのまま幼くしたような子供。
年は小学校に入る前くらいだろうか。腰の辺りまで伸ばされた髪は金色で、唯一そこだけが少年と違う点と言える。
子供の身体は幽霊のように透けている。
「もう少しだけ」
〈……分かった。本当に少しだけだからな〉
子供の声は少年にしか聞こえないし、子供の姿は少年にしか見ることができない。
ここに第三者いたならば、少年が一人で会話をしているように映ることだろう。
「ふふ、本当に変わらないな」
じゃれ合いながら帰路につく星司達を見ていた少年の口元が綻んだ。しかし切なさを宿す瞳はそのままで痛々しい印象を強くする。
〈 〉
堪らなくなった子供は少年の名を呼び、手を伸ばす。が、透けた手では触れることが出来ないことに気付き、静かに手を下ろす。もどかしさからか、手は強く握りしめられている。
そんな子供の様子に気付いたのか、少年は子供に笑いかける。
ずっと昔から変わらない笑顔は子供を安心させる。
「大丈夫だよ」
少年の言葉を肯定するように強い風が吹いた。まだ少し冷たい風が頬を叩く。
「風はいろんなものを運んでくる、か」
何気なく口にした言葉は、以前この町で暮らしていた頃に知り合った人物が言っていたものだ。
種。香り。砂。花びら。葉。風は様々なものに精通していて、多くのものを運んでくる。良いものばかりとは限らず、悪しきものを運んでくることもある。
「この風は何を運んできたんだろう」
〈 〉
再び、名前を呼ばれた。今度は先程とは違いどこか不満げだ。
言わんとしていることを察した少年は決別をするように星司達に背を向ける。
「そろそろ帰ろうか」
その言葉に満足したのだろう。子供は首肯すると姿を消した。
数歩、歩みを進めた少年は足を止め、後ろを振り返る。
「ただいま」
呟き、歩みを再開した。