はぐれ湯けむり温泉旅情編
【第29回フリーワンライ】
お題:湯けむり
フリーワンライ企画概要
http://privatter.net/p/271257
#深夜の真剣文字書き60分一本勝負
男は少しそわそわしながら廊下を歩いていた。
年季の入った木造の渡り廊下。手摺りの向こうには雪の積もった石庭が見え、灯籠の明かりで橙色に浮かび上がっていた。
夜になってもなお眩い白化粧の森と併せて、情感たっぷりである。
真冬に吹き曝しの廊下では、そんな情緒などに感じ入る余裕はあまりないが。おまけに旅館にお決まりの浴衣とあっては、長居すれば冬の風物詩を布団の中で味わう羽目になる。
鼻先にくしゃみの予兆を感じて、彼は足早に進んだ。
冬の休暇を利用して少々奮発したのだ。つまらない病気をこじらせても面白くない。
(それに……)
期待感の源が廊下の先に見えた。
温泉浴場。それも混浴だ。
頭の中ではそんなことなどないと否定しても、混浴と聞いては否が応にも欲望が募る。
「お邪魔しまーす……」
誰にともなく断って、脱衣所に踏み行った。
如何にも、といった感じではあった。
温泉独特の臭気とぬめるような湿気。目の細い竹のすのこ。使い古されて飴色になった棚。
彼は古家屋のマニアではないので、特になんの感慨も抱かなかった。ただ、如何にもそれらしい場所なので、それらしいことへの想像力はかき立てられた。
脱ぎ捨てるようにして浴衣を竹籠に放り込むと、温泉に面した扉の前に立つ。
この向こうに桃源郷があるのだと、掛け値なしに思い始めた自分を素直に受け止めつつ、そこで失態に気付いた。
(しまった、いつもの癖でメガネを)
迂闊ではあった。近眼で視力補正しなければよく見えないのに、うっかり常日頃の入浴癖で外してしまっていた。自宅でメガネをしながら風呂に入ることなどないし、そもそもメガネが必要になる入浴など慣れていないから仕方がない。
(ああ、どうしよう)
すでに戸に手をかけているのに今更引き返すのも面映ゆい。そもそも、メガネをしたまま混浴風呂というのも、ただでさえ透けて見える下心を喧伝しているようなものだ。
諦めるしかない。
断腸の思いでカラカラ音をさせながら引き戸を開くと、メガネをしていたとしても同じだったと思い知らされた。
物理的な圧力すら感じる、真っ白い熱気を孕んだ靄が猛然と吹雪のように吹き付けてきた。
溺れそうな心持ちであっぷあっぷ喘ぐと、気管に湯気が入って思い切りむせた。
――ぼしゃん。
自分の咳の合間に何か聞いた気がして、耳を澄ませるが、掛け流しらしいサラサラという音以外には何も聞こえなかった。
気のせいだったのだろうか。
風が湯気を洗い流す。
温泉は山に面した露天風呂になっていて、洗い場の向こうから先は屋根がなかった。熱をなくし、濡れた足場にひやりとする。
(手拭い一枚で寒風に晒されるのはごめんだ)
まずは何を置いても温泉に浸かるべきだろう。
暖かそうに湯気を立ち上らせる湯面には、残念ながら人影はなかった。
(まあそんなもんだよな)
石組みの湯船は足場より低くなっていて、木桶で掛かり湯をしようとしたところで、ふと気付いた。
(なんだこの波紋)
湯に大きな波紋が立っていた。水滴が落ちたにしてはやけに大きい。
いや、それはもう波紋というより、わずかに波打ってると言った方が正確だった。
(屋根からつららでも落ちたか?)
桶で湯を汲んで浴びながら考えるが、答えが出るはずもなく。
しかし一度湯に体を沈めてしまえば、そんな些細な疑問はすぐに氷解して消えてしまった。勿論解消されたわけではないが。
ああ、これを桃源郷と呼ぶのなら、それが適切だろう。
爪先から頭の芯まで、じんわりと熱が行き渡る。
効能だとか薬効だとかは知ったことではないが、細胞の一片一片の隙間に湯が染み渡るのはそれだけで価値があるように思えた。
手足を伸ばして満喫する。
誰もいないなら、少しくらい湯船で泳いでも咎められることはないだろうか――と、子どものような考えが過ぎる。
普段なら絶対に考えないような他愛ないものだったが、それだけに魅力的に思えた。
すい、と水をかこうとした瞬間。
どさり。
はっきりと物音が聞こえて、首筋に冷や水を浴びせられたように飛び上がった。
「誰かいるのか?」
と、問うて、馬鹿馬鹿しさに気付いた。
誰もいないのは、さっき確認した――
近くの木の枝から、雪でも落ちたのだろう。
音のした方を見やると、雪景色になった斜面とその向こうに森。そして人影。
(人影?)
眉根を寄せて目を凝らした。確かに人影のように見える。
先客がいたのか。
しかし雪の中で何をしているのか。
そういえば、どこだったか忘れたが、温泉に浸かった後、雪で火照った体を冷ますところがあったような。
それを実践しているのだろうか。
ともあれ。
「先に入ってる方がいらしたんですね」
湯煙が燻ってシルエットがはっきりしないが、くびれのようなカーブが目に入った。
女、女だ。
疑問と一緒に湯に溶けていた期待が、むくりと身を起こすのを感じた。
女性に向かって声をかける。
「すいません、僕がいきなり入ってきたから、戻るに戻れなくなったんですね」
ほとんど口から出任せに喋りながら、たぶんそうなのだろうという気がした。他に考えられない。
「寒いでしょう? 目を閉じてるから戻って下さい」
返事はなかった。
(はて?)
湯煙の向こうで身じろぎしてるようなのだが。寒さのあまり、体調でも悪くしたのかも知れない。
しかし、こちらも全裸に近いのだから、変に騒ぎ立てられても困る。
「ええと、大丈夫ですか? 具合が悪いとか? そっちに行っても大丈夫ですか」
人影がかすかに頷いたようだった。
「じゃ、じゃあ行きます、よ?」
温泉に入ってた温泉客。
湯冷ましで外に出ていたとするなら、当然着るものなどあろうはずもなく。
氷が溶けるように口元がだらしなく緩むのを自覚する。
手を伸ばし、後ろ姿の女性の肩に手を――
冷たい。
まるで雪でも触っているような。
「え?」
近寄ってじっくり見て初めてわかった。それは紛れもなく雪だった。
雪だるま。
肩をぐいっと掴まれ、傾いた体から頭がずるりと動く。重力に抗うことなく、そのまま足下に落ち、地面の雪と一体化した。
人影が頷いたように見えたのは、ずり落ちかけた雪だるまの頭が、たまたま動いたものだったらしい。
その雪だるまは――少なくとも想像していた女性より胸囲はありそうではあった。
寒風がひっぱたくように頬をかすめた。
「……さむ。もどろ……」
雪面に復路の足跡を刻みながら、男は憐れなほど縮み上がった。
「ぶぇっくし!」
はぐれ湯けむり温泉旅情編・了
そのうち純情派とか情熱系とかあるんですかね、これ。
描写をちょっと凝ろうとして途中で力尽きたのがありありと窺えますな。だって温泉とかまともに行ったことねーし。混浴とか知らねーし。
そもそも美味しい混浴なんて、二時間サスペンスか旅行番組かエロゲの中にしかないだろ、いい加減にしろ!