第一章〔3〕 /…勉強が始まる
樹子は、ふと目を覚ました。
その目に明るい朝の光が飛び込んで来た。
体を起こし、手早く支度を済ませると余裕を持って大学へ向かう。
見慣れた後ろ姿を見つけ、樹子は一旦立ち止まり、その人物に何をどう説明しようか考えた。
その人物、珊堂江菜は校門へ向かい歩いていたが、樹子がわざと足音をさせながら近づくと、振り返った。
彼女は綺麗な顔だけれど、少しあどけなさが残っている。
「おはよ!江菜」
樹子は江菜の肩を軽く叩いて、元気よく言った。
「あぁ、おはよ。樹子」
二人は並んで歩き出した。
「ねぇ、江菜。あなた大学卒業後の進路決まってる?決まってないなら、その事について帰り話さない?」
江菜は笑い出した。
「あぁ、いいよ」
と、あっさり答えた。
「進路ねぇ、考えもしなかったわ。あんたは何か考えたの?」
「えぇ、昨日決めた」
「ふーん、面白い所なら私も便乗しちゃおうかな」
樹子と江菜は大学帰りに喫茶店へ入った。
「で、どこへ行きたいの?」
江菜は興味津々で聞いた。
「栄真さんのいたとこ」
と、樹子はぽつりと呟き、
「そりゃ危険な仕事だし、狭き門なのはよく知ってるけど…この国を怪物達から守るんだから、とても名誉あるお仕事だと思うのよね。保障も厚いし」
江菜は笑ってから
「あぁ、あそこね」
と言ってまた笑った。
「意外。あんた、本当にそれだけ?多分それだけじゃないんでしょうけど、なーんか私も行きたくなって来たわ。ううん決ーめた!私もそこに行こっと」
樹子は喫茶店から少し歩いた所まで江菜を見送った。
『樹子、江菜さんまで道連れにするつもりか!』
突如姿を現し、栄真が聞いた。
樹子は栄真の怒り混じりの声色には気付かないふりをしながら楽しそうに
「人聞きの悪い事を言わないで下さいな」
と、大袈裟に溜息をついた。
「江菜はとっても頑固なんです、気が乗らなかったら、親友の私が幾ら言い聞かせても聞きはしません」
心の中でお酒飲んで酔った時は別ですけどね、と呟く。
江菜はお酒に極端に弱く、一杯で撃沈してしまう。
だが本人はそれに気付いていない。
言っても記憶が飛んでるので認めないのだ。
「ねぇ栄真さん、将来の目標が出来るって素敵な事ね。江菜と私は明日の午後ラルイートさんに連絡つけて貰えるよう機関へ頼みに行くつもりなの。あの方各地を飛び回ってらっしゃるでしょう?」
『先生に何の用だ?彼は忙しいんだ、何を考えてるか知らないが迷惑をおかけするんじゃない』
と、栄真は注意した。
『樹子、真面目に将来の事を考えるべきだ』
樹子は栄真に向かい微笑んだ。
その微笑みを笑いに昇格させたのはレームナーダだった。
樹子に彼女の姿は見えないが、彼女が栄真に言った事を、栄真の言葉で大体想像出来た。
『ん?レームナーダ、何て事を言うんだ。賛成だなんて!君のそう言う所が…』
『まぁまぁ』
レームナーダはなだめた。
『いいじゃない、樹子ちゃんの好きにさせてあげなさいよ。あと私達恋人同士なんだからもうちょっと恋人同士らしく、仲良くしましょう』
『冗だ…』
「レームナーダさんは賛成して下さってるのね」
樹子は夢中で言った。
「私、頑張るわ。あなた方以上に活躍出来るようにね」
『樹子ちゃん、ようやく生き生きして来たじゃない』
栄真を置いて樹子が自宅へ向かい歩いて行ってしまうと、レームナーダが言った。
『あなたが死んでからの樹子ちゃん、見ていられなかったもの。でも昨日の今日なのに、別人のようだわ』
『樹子が元気になったこと、それが嬉しいことは喜んで認めるが…しかし…』
『だったら、そんな顔しない。あんまり説教しないの、栄真』
次の日の午後、樹子は江菜と誘い合わせて栄真が所属していた機関と繋がっている窓口へ行った。
一方栄真は色々と考え事をしていた。
樹子は大人しそうな外見とは裏腹に素晴らしい運動神経を持っている。
江菜にしてもだ。しかしあの部隊の厳しい訓練についていけるだろうか。
その前にちゃんと勉強するのだろうか。
二人は成績も良い。
だが油断は出来ない、受かるだろうか。
しかし栄真の心配をよそに、事は上手く運んでいた。
夜、樹子はご機嫌で帰って来た。
「栄真さん、ラルイートさんが、今の仕事が片付いたら…ええと2週間後に会って下さるそうよ」
樹子は報告した。
「機関に入りたいって江菜と窓口の方に言ったら、その方とても喜んで下さったわ。資料頂いたけど、あなたが以前見せて下さった資料より詳しく書いてあるわ。ラルイートさんとも、通信機でだけど、少しお話し出来たの。あなたが死ぬ前は度々三人でお会いしてたから平気だったけど、死んでからは全くお会いしてなかったし…改めて二人で会話するの、さすがに緊張したけど、ちゃんと話せたわ。ラルイートさんに勉強を教えて頂くのよ。私、一生懸命勉強するわ。もちろん江菜と一緒にね」
それから二週間経ち、それまでの所は全て上手く運んでいた。
樹子と江菜はその日も仲良く大学へ向かい歩いていた。
「今日がラルイートさんに会える日だね」
と、江菜が言った。
「あんた達の結婚式に来てた、あの背のすごく高い素敵な人でしょ」
「えぇ、そうよ」
樹子は明るく言った。
「あんたは何度か会った事があるんだっけ。どんな人?」
「栄真さんは厳しいけど優しい人で、部下にも慕われてて…真面目で、責任感が強くてとても優秀な方だって言ってたわ。私は…正直ちょっと怖いなって思ったの。もちろん悪い人じゃないのはわかるけど、ラルイートさんはあまり表情を変えられないし、自分からはそんなに喋らないの。そうそう、本当に忙しい方だから…」
「分かってるって。勉強頑張ろうね」
やがて大学が終わり帰りかけた時、顔見知りの女生徒が顔を赤く蒸気させて走って来た。
「あーっいた!ちょ、ちょっと樹子!あんたに面会人よっすっごくカッコイイ人!!!門のとこ!」
彼女の声が大きかったので、何人かが窓に駆け寄り、ほうっと溜息をつくのが見えた。
「あんた達を連れて来るよう先生に言われたわ。ねぇ、誰?」
だが樹子と江菜に答える余裕はなかった。
二人はそちらへ目をやり、校門の前に立つスーツ姿の、背の高い男性を認めた。
風になびく、緩やかにウェーブがかった長い茶髪。二人は慌てて走った。
「お久しぶりです、ラルイートさん。わざわざ…」
「失礼だが、場所を移動したい」
誰もかれもラルイートの方をじろじろ見るし、女生徒達が集まって来ようとする気配があったのでラルイートは困惑した様子で怜悧な碧い目を伏せ、言った。
「構わないだろうか?」
「はい!」
「乗りなさい」
ラルイートはさっと車を出した。
車に乗ってしまうと江菜はおどけた表情で目配せして見せた。
「本当に、素敵」
江菜は樹子にそっと言った。
「ラルイートさん、お待たせしてすみませんでした。まさか、大学へ来て下さるなんて」
樹子はラルイートに頭を下げた。
「ちょうど通り道だったので。入れ違いにならなくてよかった」
そして、いよいよ勉強が始まったのはこの日、樹子の家に着いて間もなくだった。
ラルイートは大きい鞄から二人に自分がかつて勉強に使ったと言う分厚い本を次々と取り出し、それぞれの分野について説明していた。
江菜は本の余りの分厚さに顔面蒼白となり、樹子にその恐怖を伝えようとしたが、失敗に終わった。
樹子はラルイートばかりか江菜の事もすっかり忘れていたからである。
既にラルイートが持ってきた分厚い本を一冊手に取り、読む事にひたすら集中していた。