Title-32 冥府の猟犬は次の派遣先へ行く
四枚の羽が、ヒュンヒュンヒュンと風きり音を奏でる。
クリスとの別れを示唆しているような音で、ウォンの胸が張り裂けそうになる。
《ハデス》からお迎えの社員用ヘリコプターの二台目が、今ようやく屋上に降下しようとしている。もう一つのヘリはウォンが乗るべきもので、そして、もう一方はクリスが乗るべきものだ。
そのまま《ハデス》の総本部である場所へ直行するはず。
クリスと同行するのは、『創造主』と『流星』の両名。本来ならば、一台にウォン以外の全員が乗る手はずだったが、ビルの眼下には警察がひしめき合っている。
箝口令が敷かれているはずなのだが、どうやら《アースガルズ》が命令無視してこうして犯罪者の臭いを嗅ぎつけたらしい。ウォンの乗ったヘリコプターが囮となって、クリスのヘリを逃がすことになった。
こうなったのも、ウォンが考えなしにヘリを一台破砕してしまったのが原因なので犯人としては何も言うことはない。
もう『創造主』と『流星』は、ヘリに乗っていった。
『創造主』は未だにウォンとクリスが握っている手を注視すると、ぴくんと片眉を上げて批難するように見てきたが、敢えて無視してやった。あいつがもっと能動的に動いていれば、もっとこの事件はもっと簡単に解決したからだ。
そして、これからどうなるのかなんてウォンにもわからないが、クリスに対する《ハデス》の待遇は決して甘いものではないことだけは確かだろう。
「悪いな、クリス。これも『社長』命令で、ここでお前の見送りをしないといけないんだ」
「そう……ですよね。私も……そこまでうまくいくなんて思ってなかったですから……」
互いにどちらともなく、手を握りしめている。
寒くなってきた風を耐えるように。
それから、もしもこの手を放してしまったら、もう二度と会えなくなることが運命付らているのを憶測がっているように。
ただ静かな時が流れる。
またもや震えだしたクリスの手をしっかりと握ると、
「また会えるさ」
恐らく今クリスに言われたら最も嬉しいと思える言葉を、自分の口から言ってみせる。クリスは、あっ、と困ったみたいに、だけど嬉しそうに口元を微妙に動かすと、
「はいっ……!」
感極まったみたいにして、それだけ告げる。
それ以上の言葉を発してしまったら、瞳に張っている膜が破れてしまいそうな気がしているのか押し黙ったままヘリへと向かう。それはまるで監獄へと向かっているかのように足取りは重くて、こんな時に何もしてやれない自分が嫌になる。
ウォンはただの一社員に過ぎない。
無頼をきどりながらも、結局は裏社会の歯車の一部となって動くしかない。だからどうすることもできなくて、クリスのことも救ってはやれない。
こうして押し黙って分かれる方がお互いのためだ。ここで余計なことをしてしまえば、未練が残ってしまう。希望を持ってしまう。
さっきの嘯いた言葉一つで十分はずだった。
だけど――
「クリス!」
「えっ……?」
後ろから抱きしめる。
背丈の高低差で、クリスの後頭部が腹のあたりに当たる。シャンプーのいい匂いが鼻腔に漂ってくる。
どんな表情をしているのか、ウォンからは見えない。怒っているだろうか、それともいつものようにあたふたしているのだろうか。
「お前に何かしようとしたら、理不尽な命令だとしたら、その時はこの世界を滅ぼしでもいいから、能力を発動しろ。そして、そうなる前にさっきみたに、そうなってもいいのかって脅せばいい。俺もなんとか『社長』に釘を刺しておくから、な」
だから、泣くな――と自分の胸中にだけに留めておく。
もはや隠しきれない量の水滴が、クリスの足元にポタ、ポタ、と何度も落ちていた。クリスはくしゃくしゃになってしまった自分の顔を見られたくないのか、振り返ることができないまま湿った声で、
「ウォン……さん……」
「ん?」
「また……会えますよね?」
「ああ。だけど今度は俺が先輩で、クリスが後輩だな」
「そう……ですね」
意気消沈したクリスは、そのままヘリに搭乗する。意外にも『流星』や『創造主』は空気を読んでくれているのか、奥の方へ引っ込んでいる。
「それじゃあな」
ブン、とクリスに大仰に手を振る。
窓越しではあるが、ようやくこちらを見てくれたクリスは、こちらにも聴こえるような大きな声で、
「はい、また! お元気で!」
明快な声を上げるクリスを乗せたヘリは、だんだんと小さくなっていき最終的には米粒までの大きさになっていく。視界から消えるまで見届けたウォンは、ヘリに急いで乗り込んだ。
このままでは『アースガルズ』に追走されてしまう。こちらのヘリで攪乱できるだけ攪乱しなければいけない。
『冥府の猟犬』はクリスに向けていた温かな表情を一変すると、次の派遣先へ向かうヘリへと乗り込んだ。