Title-31 パンドラの箱は再び……
『悲劇の魔女』は、世界を敵に回した。
やってしまったという汗が猛烈に噴き出しながらも、不思議と後悔の念に強圧されることはない。罪深きレッテルに怯えるのではなく、ウォンを救うために利用する。
それしか、無力な自分には思いつかなかった。
当惑の顔を浮かべるウォンは、ようやく攻撃の手を緩めてくれた。
複雑に絡み合った視線。
とんでもないことを言い放ったクリスを責めるような口調で、
「クリス……自分で何を言っているのかわかっているのか」
「わかってます。……分かっている……つもりです」
確認するように独りごちる。
自分がどれだけ残忍な言葉を吐いているのか。
それは、理解しているつもりで――理解しなきゃいけないことだ。
どれだけ言い訳を尽くしても、自分の為していることは誰に確認するべくもなく悪。
だが、正攻法では何も得ることはできない。
無慈悲な現実に膝を折るだけ。
それならば、いっそのこと偽装の悪党になる。
正義の味方はおろか、クリスは本物の悪にすらなりきれない。罪悪感を捨てきれず、心とともに肉体は砕けそうだ。倫理観を引きずったまま、世界の敵として舞台に踊り立った。
だがそれでも世界そのものを改変しようともせず、ただ世界を巻き込むしかできない。
最低の自己中っぷり。
だが、今のクリスにはそれしかできない。
そうすることしかできなくとも、何者にもなりきれずとも演じきってみせる。
――『悲劇の魔女』を。
血の気が引いていき、冷たいものを一気に掻き込んだ時のように激痛が頭に迸る。ガサガサに水分が枯渇してしまった唇に、舌で潤いを与える。
そうして安寧を保とうとするが、『流星』が遮りの彷徨を上げる。
「大量虐殺の魔女のくせに、何開き直って――」
「やめてください。ほんとうに能力を発動させますよ!」
「この餓鬼ッ――」
全てはハッタリに過ぎない。
もしも『悲劇の魔女』としての能力が自在に操れるのならば、既に何度も機会はあった。だが、そんなことできない。できないのなら、虚勢を張ってごまかしきるしかない。
そんな子どもの浅知恵が看破されていることは、この場にいるクリス以外の面々の表情を窺えば明白だ。
それでも誰もが口出しせずに牽制するようにして、クリスの言葉に固唾を飲んで耳を傾けている。それだけ悲劇の傷跡が未だに残っているということだ。
『創造主』はクチャクチャとガムを噛みながら、
「……つまりこれは……人類を人質にとった交渉――いや、脅迫か……」
ズキン、と胸の奥で痛みが走った。
クリスがやっているのは、そういうことだ。生真面目に生きていた人生で、自分の記憶がある限りでは、小さな犯罪すら起こしたことがなかった人間だけにそのしてきは相当辛い。
だが、ここですぐさま後戻りできる道ならば、最初から泥の中に足を一歩突っ込んでなどいない。
「そうです。今すぐ二人共戦う意思がないことを表明してください。もしもまだ戦うというのならば、私はこの世界に生きる人類を道連れにして滅ぼします」
ウォンと『流星』にそう告げるも、戸惑ったみたいにして硬直している。どうすればいいのか、判別がつかないみたいだ。
クリスは即興でない頭をフル回転しながら、つらつらと言葉を継ぐ。
「もちろん、メリットもあります。もしも戦わないと約束してくださるのなら、私が《ハデス》へ入社することを約束します。そうすれば、他の問題も一挙に解決できますから」
甘い見解だろうか。
だが意外なことにウォンが一番最初に、成長を遂げた子どもを見るような眼差しで、
「……なるほどな。もしも本当に『悲劇の魔女』が自ら《ハデス》に入社するのなら『流星』が戦う必要もなくなる……か……」
戦闘狂いである『流星』は激昂するようにして、
「それでも、この魔女が危険であることには変わらない! こんな危険思想を持っているのなら、やっぱりこの不発弾が誤爆しないように処理すべきじゃ――」
[いいや、彼女の入社を私が正式に認めよう]
機械音が混ざり合った声。
『創造主』が手に持っていた情報端末機器から、その声が『流星』の啖呵を切り裂いた。
いったい、誰?
女性の声だ。
何故か日常茶飯事に聴いているような聴き覚えのある声なのだが、『創造主』の知り合いという時点で、クリスが知っているはずがない。もしや、ただのデジャヴに過ぎないのか。
「『社長』……!」
あの『流星』が恐れを孕んだ声で呻く。
どうやら相当凄い人物であることは分かり、妙にかしこまってしまう。
[部下が先走ってしまい、君には申し訳ないことをしてしまった。君が社員として活動するというならば、こちらとしても危害を加えるつもりは毛頭ない。社員名『パンドラ』として、これから一緒に頑張っていこう]
元来のものなのか、どこか台本を読んでいるような平坦な声。
感情が伴っておらず、スラスラと言葉を発しているのが少し不気味だ。
相手が情報端末機器越しに話していることなど関係ないように、明らかに渋面を作っているウォンは、
「この手際の良さ……最初からこうするつもりだったわけじゃないだろうな……」
[そんなわけないだろ。ただ私にとって『パンドラ』が使える手駒なのか、排除すべき駒なのかは、そちらの対応しだいというわけだ]
「私、それでいいです!」
「クリス!」
咎めるようなウォンに一瞬怯えるようにしてビクつくが、クリスはそれでも頑固に首を振る。
「私だって、怖いし、どうなるかなんて分からないけど……だけど、ウォンさんが一緒だったらどんなところに行ったってどうにかなるような……そんな気がするから」
消え入るような語尾のまま、赤面しながらウォンを見やると、なんでもないような表情で、むしろ怒るみたいにして眉根を寄せている。
どうやら、よほどクリスと一緒にいれる宣言が不服らしい。ウォンは不機嫌顔のまま口を開こうとするが、納得の言っていない『流星』が黙って見ているはずもなく、
「なっ……! そんなことが許されるとでも」
[聴いたとおりだ、『流星』。もしもこれ以上新人社員である『パンドラ』に牙を剥こうものなら、他の社員全員を今からそこに派遣して、君を一瞬で殲滅してもいいのだよ]
「………………了解しました」
不承不承といった感じで、舌打ちしながら『流星』は頷く。
[フ、それでいい。そういうわけだ。君の《ハデス》に入社してからのこれからの待遇についての細々した説明については、君が我が社に到着してから追って連絡しよう。それでは――]
一方的にそこまで言い切ると、情報端末機器がガチャという音を立ててあちらとの交信がキレた。
それと同時にクリスの緊張の糸も切れてしまったようで、へなへなと屋上のアスファルトに膝をつく。
「……ハハハ、良かった……」
自分は凄い人たち相手に、口八丁でなんとかこの場を乗り切ってみせた。その偉業に達成感がいっぱいとなって、誇らしくもある。
他人を傷つけることしかできなかった『悲劇の魔女』の能力のおかげで、こうして誰も傷つかないで済むような解決策を打ち出すことができたのだ。
これが贖罪になるとは思っていない。
ただ一時的にクリスの心が軽くなるだけのものだ。だが、それでも大切な人を守れたのだから、今はよしとしておきたい。
だがそれでも険しい顔をしているウォンは、
「言っておくが、お前が思っているほど《ハデス》は、世界に優しいところじゃないぞ……」
「だ、大丈夫ですよ……大丈夫なはず……なのに、どうしてなんですかね? 震えが……止まらないんです」
ガクガクとまるで雪山で遭難した人みたいに全身が震えて、それを止めるために腕を交差するようにして全身を締め付ける。
そうして震えが止まるのを待ち続けていても、一向に心に吹き荒れるブリザードは収まる兆しを見せない。
歯をガチガチと鳴らす。
凍えるようなクリスのその手を、いつの間にやら隣に立っていたウォンが優しく労わるようにして、握ってくれた。
「震えが止まるまで、お前の手を握ってやるよ」
言葉尻は先ほどと同じように尖っていて、顔も顰め面のままだった。だがその瞳の底に見えたのは、優しくクリスのことを気遣ってくれている色だった。




