Title-03 派遣社員との着替え経験
「……はあ。どうして私って、こうなんだろう……」
人気のない細長い廊下。
従業員しか通行しない幅の狭い廊下のためか、掃除の配慮はされていない。どこそこに紙くず等のゴミが落ちているが、それら全てを拾い上げるだけの精神的余力は残存していない。
――これから、どうしよう。
客に迷惑ばかりかけてしまう自分に嫌気が差す。これ以上積み重ねてしまえば、今の仕事をクビになってしまうかもしれない。というか、飲み物をはこぶなんていう、入社したばかりの新人社員がやるような簡単な仕事を押し付けられている時点で、そうなりかけているようなものだ。
そうなれば、行く宛などない。
両親がいないクリスには、頼れる人間なんていない。
もう、帰る家もない。
幾多の場所を辛い思いをしながら渡り歩いて、ようやく探し出すことができたのがここの職場だ。あの事故から四年。同じ場所に長い間滞在することがなかったが、エル・ドラドは一年は続いている。
だけどまさか、ゴーストタウン化していたカートリアにこうしてまた舞い戻ってるとは思いもしなかった。
街の様相は随分と変貌してしまった。
雲に届きそうな高層ビルが縦列していて、その立派な建物群の影では、ぼろ布を纏った浮浪者が溢れている。更地となっていた時に住み着いた人間が、行き場なくそのまま留まっているに過ぎない。
そんな彼らに比べれば、クリスはまだ恵まれている方だ。こうして、職にありつけるだけでもありがたいと思わなければならない。
「よしっ! 頑張るぞ~」
フンッ、と鼻腔から気合の鼻息を二股に吹き出す。
もみじのように小さな握りこぶしを作る。
やる気だけは一人前だ。
実力が伴わないのが難点だが、だからこそ気持ちは萎えさせたくない。とにかく天真爛漫でありたい。そうしなければ、抑えつけているものが一気に吹き出しそうだから。
クリスは、口角の両端を意識的に上げる。
そうすれば、多少なりとも苦しみは和らげられる。
心の柱がバキバキに折れることはなくなる。
そうやって、両親に教えられた。
微苦笑を努めながら更衣室の扉をガタンと無造作に開けると、一気にクリスの表情が変化する。
首の根元から、髪の頭頂部まで急激に熱を帯びる。
ドアを自分の身に引き込むようにして、凄いスピードで閉めると同時にパッと手を離す。それと同時に謝罪を入れようとしたのがまずかった。
混乱ここに極まり、ゴン、と盛大に下げた頭を、押し迫ってきたドアに強打する。
「ご、ごめんなさ――いたっ!」
髪の付け根辺りをぶつけた反動で、視覚に男性の裸体がまたもや入ってしまう。
いや、間違った。
正確には、シャツを半脱ぎしている姿。
ゴツゴツと岩肌のような肩甲骨が晒されそうになりそうになりながら、吃驚仰天な顔をした青年がこちらを振り返る。上腕の盛り上がっている筋肉は、サイコロみたいな形状に等分割されている腹筋まで地続き。
どうやら着痩せするタイプのようだ。
眼福ものだが、パチパチと骨董品のカメラのシャッターみたいに、連続で瞬きする瞳に写りこんだのは、見れて嬉しいものばかりじゃない。
――あれ、どうしたんだろう?
背中や腹部には無数の裂傷がうっすらと刻まれていて痛々しい。見える範囲だけであんなに傷があるのだから、きっと男の勲章は数倍ある。邂逅してから半年ほどになるが、あんな目を覆いたくなるような傷跡初めて知った。
ゆっくりと閉じる扉の隙間から、姿態をくまなく眺める。至極真っ当な好奇心に満ちた視線の動きを名残惜しいように終えると、ようやくキッチリと隙間なく閉じる。
減点するならば、下にズボンを履いていたことだ。
男性の身体に興味がないといえば嘘になる。
父親を思い出そうとしても、うすらぼんやりとしか思い浮かぶことができない。身体の輪郭どころか、顔さえも……。
親不孝というレベルじゃない。
「……うっ……やばい……」
つんと鼻に小さな痛みが奔る。
たまらず、天井を見上げる。
鼻血が出そうだった。
興奮して出そうになった鼻血なわけじゃない。扉と衝突した時に、鼻の頭を掠ったせいだと、そう思いたい。
「入ってきていいよ」
ドア越しにくぐもった声。
入ってきていいよ、とは、つまりそういうことなのか。
頬を紅潮させながら、なけなしの期待を胸にしながら入室する。
視線を中空に漂わせつつ、青年には焦点を合わせることができない。さっきは、ハプニングの延長線上で眺めることはできたが、今はそうはいかない。凝視することを、咎められても言い訳できない。
カクカクと機械的な動きをしながら、着替え場所を確保する。
よりにもよって自分の着替えるロッカーが、青年のロッカーと前後しているのは運がいいのか悪いのか。
「クリスちゃん、どうしたの? まだ仕事中でしょ?」
「そ、それが……。その……ええっと……」
「ああ、服濡ちゃってるね。また、なにかで失敗しちゃったんだ。難儀だったね」
「はい、濡れちゃって……」
まともな会話ができない自分が恨めしい。
更衣室で背を向け合うなんて、こんな異常な状況下じゃければ、もっと会話の裾を広げることもできただろうに。
何かきっかけはないのかと思い悩み、そして思いつくままに会話を投げかけた。
「その背中の傷、どうしたんですか?」
ぴしり、と空気が一瞬で凍ったようにひび割れる。
――うわわわ。しまった。
地雷を踏む抜いた感触。
いくらなんでも、他にいくらでも話題があったはずなのに。自傷行為ならまだ相談に乗るぐらいのことはクリスにもできる。抱えているストレスは、吐き出すだけでも楽になるものだから。
だが、あそこまで徹底的にとなると、誰かから故意に傷つけられたものに違いない。DVとかだと、親の顔もうろ覚えのクリスには口のだしようもない。
パッと男は表情を変えると、
「ああ、これ? これはちょっとした事故みたいなものだよ。これが、軍に投擲された手榴弾は避けられたけど、爆発した岩肌の欠片のせいで受けた裂傷で、そしてこれが刀使いに斬られた時の傷で、そしてこれが――」
「ええっ? 大丈夫なんですか」
「あはは、ただのジョークだよ。そんなことしてたら、俺だって今頃警察のお世話になってるだろうからね」
「……そ、そうですよね。あ、ありえませんよね」
確かにそうだ。そうだが、手玉にとられたようでなんだか面白くない。
ニマニマと、底意地の悪そうな笑み。
――と。
ズバッと、唐突に青年が勢い良くズボンを脱ぐ音がする。
うわ。
うわわわわ。
更衣室だからといえば当たり前だが、服を平気で脱いでいく。
どうやら異性として見られていないようだ。
だが、だからこその役得。
ロッカーに取り付けられている小さな鏡を見やると、耳たぶまで赤面した自分の情けない顔が写る。そして、そこに写っているのは、当然それだけではない。
青年の着替える様子が、バッチリと。
罪悪感と背徳感に揺られながらも、10ラウンドの激戦の末、最終的には胸中に住むつく天使に軍配が上がった。自分の着替えに専念しようとするが、無視できないものを視界に捉える。
――指輪だ。
高級そうな。
決して面白半分や、ただのファッションの一部のものではない。しかも、ご丁寧に指輪がハメられている指というのが、右手で。それはどんな意味かというと、異性の方と、結婚を前提としたお付き合いをしているということだ。本気度が伝わってくる輝きに、目を眇める。
「……指輪……してたんですね」
声色を、意識的に明るくさせることができなかった。
咄嗟に機転を利かせられるほど、成熟はしていない。
訊ききたくはなかった。
だが、ここで訊かなかったら気にかかって、きっとこの後の仕事は何も手につかない。
「買ったんですか?」
「ああ、これ? 実は俺にはフィアンセがいてさ。実は婚約してたんだ。今はもう死んじゃったんだけど、後生大事に持ってる。どうしても過去を捨てきれないんだ。女々しいと思いつつも、外せないんだよね」
目尻を緩ませている。
きっと、クリスをいじり倒す愉悦を感じている。
またはぐらかされて業腹な半面、嬉しかった。
ジョークで流せるほどだから、ほんとに大したことはないのだろう。もしかしたら、装飾品に凝るのが趣味だっただけなのかも。そういった店は、出店から高級店まで幅広く、カートリアに揃っている。
――なーんだ。私の思い違いか。
羽が生えたかのように、体が嘘みたいに軽い。
心が浮上したおかげだ。
飛び上がりそうなのを我慢しながら、敢えて不機嫌っぽく言ってみせる。
「またまたそうやって嘘ついて……。もう騙されませんよ」
プイと、そっぽを向くと、ひよこのように唇を尖らせる。
「あはは。バレた? 俺って、実はちょっとした虚言癖があるんだよね」
「な、直してください!」
「他人の驚いた顔見るのって、楽しくない? 喜んでもらえたみたいで。プチサプライズのような、マジックみたいなものだよ」
「い……意外に、ドSですね……」
「安心してよ。俺が嬉々としていじるのは、いじりがいのあるクリスちゃんだけだから」
「それ、フォローになってませんよね!?」
憤慨するようにして、口角泡を飛ばす。
だが、そこまで悪い気分じゃない。
寧ろ、ずっとこのままでもいいぐらいには、こんな他愛ないやり取りを楽しんでいたい。
被虐に高揚するわけではないけれど、鼻先がむずがゆいような、そんな感じ。ふわふわと花畑が二人の間に広がっているようだ。
「それじゃあ、お先に」
「え、は、はい!」
いつの間にやら燕尾服に着替え終わった青年はそう言うと、あっという間に出て行ってしまう。消えていく背中を見届けると、クリスは憮然とした表情で、服を脱ぎ出す。
もう少しだけ、話していたかった。
もう少しだけ、笑っていたかった。
もう少しだけ、着替えを見ていたかった。
「あっ、そうだクリスちゃん」
「ふ、ひゃあああいい!?」
不埒な妄想を巡らしていたら、天罰かのようにウォンが舞い戻ってきた。しかもこちらは着替えの途中だというのに、まったく悪びれもなく言葉を紡ぐ。
「落ち込んでるみたいだったらさ、明日どこかに行かない? 気分転換にでも」
「え、でも明日は……」
「午後は休みだったでしょ? だったら午前からでもさ」
「い、いいですよ」
「よし。じゃあ、噴水の前で約束ね」
そう言って去っていった青年の名前は、ウォン・フォンミン。
半年前から『エル・ドラド』に勤務している、クリスより15歳上の男性派遣社員だった。