Title-14 虚像の日常は霧散する
ウォンは、モップで床を水拭きしていた。
入店開始直後は、客足が少ない。混雑する時間までに、だだっ広い床をピカピカに磨き上げなければならない。
昨日の朝は料理の仕込み等をやったから、今日は掃除というわけだ。どちらも手間がかかるが、頭を空にしながら手だけ動かす掃除の方が退屈だ。
ルーレット台の下にモップを潜り込ませていると、背後に誰かが立つ気配がする。
「おっ、おはようございます!」
「おはよ。よく睡れた?」
それは、今朝出かける時にはまだ眠り姫だったクリスだった。
鳥の巣のように、髪の毛先が無秩序に伸びている。
遅刻ギリギリの時間だ。
相当焦っていたのが分かる。
昨日の夜、というよりは明朝の時間。
夢にうなされて一度起きた気配があったから、それが原因だろう。
懐に入り込んできてそのまま熟睡した時は驚いたが、ウォンは狸寝入りを決め込んだ。
すぅと瞬時に寝息を立てた音がして、ウォンは目を見開いた。クリスの重ね合わせていた睫毛の上に乗っかっていた涙の雫が、丁度頬を撫でるところだった。
涙の線を拭うようにして、柔らかい頬をそっと指でなぞった。
ん、と一瞬呻いたが、心地よさそうな表情をしながら腕を掴んできた。無下に振りほどくこともできず、それから就寝した。
クリスより一足先に起床すると、あまりにも安らかな顔で寝ていたので起こすことできなかった。
「は、はい。……っていうか、すいません! 寝てしまっていて……。あと、鍵は閉めてきたんですけど」
部屋の鍵を手渡される。
置き手紙に、玄関の鍵を閉めて持ってきて欲しいと書いていたので、律儀に守ってくれたようだ。
「ああ、ありがと。……それと、そんなに気にしないで――」
フォローする言葉は、その間があればこその話。
全ての音をかき消すような――
爆発音がビルを揺るがす。
一斉に、客の悲鳴が空気を切り裂く。
下の階から、爆弾が爆発したとしか思えない轟音が鳴り響く。まるで地震のように床は振動し、あまりの衝撃に視界が明滅する。
咄嗟にクリスの肩に手を回して、物の落下などから庇い立てするが、どうやら杞憂に終わってくれたらしい。
可視化範囲の他の客も、ほとんど怪我を負っていないようだ。それでも、心理的ショックが大きいようで、一瞬みんな呆ける。
そして忘我から立ち戻ると、一気にエレベーターに押し寄せる。
「クリス……クリス!」
茫然とへたり込んでいたクリスを、怒鳴りながら肩を揺すと、定まっていなかった焦点をこちらに合わせる。
「……は、はい!」
「クリスも、他の客と一緒にエレベーターに乗って下に降りて、外に出たら一目散に警察でも、他人の家でもいいから駆け込んでくれ。分かった?」
返事を聞く前に立ち去ろうとすると、弱々しく服の裾を掴まれる。
クリスは恐怖に慄いていた。
「ウォンさんは? ウォンさんはどうするんですか?」
「下の階で何かあったのか確認してから、俺もここから逃げるよ。火の手が回ってたら、消化ぐらいはしておかないとね」
視線を振りほどくようにして、ウォンは立ち上がる。
「じゃあ、またあとでね」
偽物の笑顔を顔に貼り付けて、ウォンはエレベーターではなく、階段へと走り向かう。
ただの事故なのか。
それともクリスかウォンを狙っている刺客なのか。
今は憶測の域を出ないが、もしかしたらこれがクリスとの最後の会話になるかも知れない。だから、できるだけ笑顔でいたつもりだった。