Title-13 悪夢は雷雲と共に消え去る
灰色の煤けた空の下。
視覚野に刻まれるのは、終焉の景色。
先刻まで旅客機の上から眺めていた建物は、全てなぎ倒されていた。ビルに飛行機の右翼が衝突し、空中で傾いてから、交差点を渡っていた大勢の人たちに、巨大な飛行機が突っ込んでいたことまでは記憶にある。
だが、その前後の記憶は霞んでいる。
思い出そうとしても、脳みそを直接掻き毟るようなノイズが邪魔する。
まるで、身体が思い出すのを拒絶しているかのようだ。
「……いっ――」
頭が割れるように痛い。
患部に手をやると、ベッタリと血が付着していた。
ふらりと、貧血気味に倒れそうになる。
現実味のない光景がぼやける。
こんなのありえない。
まるで、夢か何かを見ているようだ。
「ひっ!」
悲鳴を上げたのは、瓦礫の隙間から人の手が突き出していたためだ。
手の甲が上向きにだらりとぶら下がっていて、血だらけになっていった。腕の角度がおかしく、ありえない方向に折れ曲がっている。
――なに、これ。誰か――助けて――。
血の気が引く。
顔面蒼白になりながら蹈鞴を踏むと、足に何かが引っかかる。
「きゃ!」
短い悲鳴とともに、後ろにすっ転ぶ。
ぬちゃあ、と後ろ手についた両手に何かが粘着する。青くなった唇を震わせながら、掌を見やると、先ほどよりも更に赤黒く染まっていた。
振り返ると一目見て致死量と思える血溜りに、人が沈んでいた。女性で、白目を剥いている子どもを抱えながら、全身から血を流している。
そして、気がつく。
後ろにひっくり返ったのは、息をしていないこの女性に躓いたからだということを。
「――――!」
声にならない悲鳴を、口内に響かせる。
頭を振りながら、駆け足になって逃げる。どこに逃げていいのかなんて分からない。だが、こんなところに居続けたら、きっとおかしくなってしまう。
怖い。怖いよ。
誰でもいいから。
この悪夢から解放して。
涙を虚空に溶かしながら、息を弾ませる。
心臓が破裂しそうになりながらも、ただ必死に走り続けた。
――あ、誰かがいる?
死臭が漂う瓦礫を抜けて開けた場所に到達すると、そこには見慣れた後ろ姿があった。二人連れ立って歩いていて、生還者がいるというだけでも心が浮き足立つ。
だが、それだけじゃない。
「――母さん? お、父さん? お母さん! お父さん!」
歓喜のあまり、涙が迸る。
泣きすぎて、目元が痛い。
両目から溢れた涙は口元にまで流れ、唇を伝って地面に落ちる。汚らしいことこの上ないが、拭う余裕はなかった。
鼻水すらでそうになりながら、何度も両親を呼ぶ。
喉が枯れても、足が棒になっても、必死になりながら駆け寄る。
だけど、気がつかないのか、振り向いてくれない。
それどころか、全然距離が縮まらない。
こちらは懸命に走って、あちらは歩いているというのに。
「お父さん! お母さん!」
ようやく――届いた。
両親の間に割り込むような形になりながら、二人の手をがっしりと掴んだ。
だが、掴んだ瞬間に、違和感を覚えた。
満開花のように開花させていた笑顔が、どんどんしおれていく。
ぶにょとした気味の悪い肉感がしたと思うと、両親の手が吐瀉物のようにドロドロになる。
「あっ……あっ……」
驚愕に目を見開き直視したくないと想いながらも、あまりの恐怖に目を閉じ方すら忘れる。
過呼吸になりながら、ドッと冷や汗を全身からかく。
チーズのように溶けた腕が纏わりついてくるが、振りほどくことができない。
凄惨な光景に吐き気がしながら、悲鳴を撒き散らす。
足が磁石のように地面にくっついて、倒れることもできない。
やがて、両親が振り向く。
目を閉じてしまいたい。
全てを闇の中へと葬り去りたい。
それなのに閉じることができなかった眼球には、原型を留めていない両親の顔が写る。肌どころか髪の毛の一本に至るまで酸をかけられたようだった。
粘ついた糸を引きながら、両親のベトベトとした口が数度に渡って開閉する。
ドウシテ アナタハ イキテイルノ?
「はっ!」
ガバッ、と飛び跳ねるようにして、クリスは掛け布団をどかす。
喘ぐようにして、酸素を吸い込む。
偏頭痛に苛まれながら、暗闇の中視線を漂わす。
職員寮の壁や天井であることを視認して、ようやく今まで夢を見ていたことに気づかされる。
「良かった……夢だったんだ……」
だが、全てが丸々夢だっただとは思えないぐらい、鮮明に情景が瞼の裏に映し出された。時折こうして四年前の悲劇の一端を、夢の世界で垣間見ることがある。
汗ばんでいる全身は、全てが冷や汗。
肝を冷やしながらも徐々に落ち着きを取り戻していく。
外から漏れる月明かり。
静寂に満ちていて、雷雲は彼方に霧消したようだった。
それなのに、心の暗雲は立ち込めたまま。
悪夢に取り憑かれるのは、家族を置いて、クリスだけが生還の抜けがけをしたからだ。これならば、いっそのこと自分が身代わりになればよかった。
生きていてもいいことなんて、一つもない。
だからこそ、あの優しかった両親に生き残って欲しかった。目覚めても、寝ていても、何かしらの責め苦に精神を苛まれるぐらいだったら、いっそのこと――。
「……あ」
クリスの手が、誰かの手に触れる。
ウォンだ。
ベッドが一つしかないということで、二人一緒に一つのベッドに眠ることになったのだった。
寝息を立てていて、起きる素振りを見せない。
良かった、起こさずに済んで。
生きていてもいいことが一つもないなんて、間違いだった。
どれだけ辛いことがあっても、ウォンが味方でいてくれる限り頑張ることができる。
過去の幻影に責められ、ようやく覚醒したその時に、こうして傍にいてくれる。何もしなくとも、こうして隣にいてくれる。
独りぼっちじゃなくなることが、こんなにも心満たされるなんて思いもしなかった。
自分にとって大切だと想える人が、近くにいるだけで幸福だということを教えてくれた。
この想いは、きっととてつもなく価値のあるものだ。
ちょっとしか生きてきていないけれど、それは確信を持ってそう想える。
「…………」
ウォンの身体の中に滑り込むようして、目蓋を閉じる。
今日の二度寝は、どうやらいつもと違ってぐっすりと眠れそうだ。