Title-10 カートリアの悲劇は傷跡を残す
エル・ドラドの出入り口。
群青に覆われた空には、雨雲が大挙として身を寄せ合っていた。叩きつけるような雨脚は、手元に傘があろうとも外に出るのをウォンに躊躇わせる。
降りしきる雨はちょっとした霧さえ発生させていて、帰路に就くにはしんどそうだ。
こんな時にこど、五階建てであるエル・ドラドのどこかに職員寮があればいいのに、と思う。
そうすれば衣服を濡らさずに済むのだが、餓鬼じみた贅沢も言っていられない。しょうもない考えに足を絡み取られていると、
「あっ、雨降ってるんですね……」
隣へやってきたクリス。
こうして並ぶと、小柄な彼女の身長がより際立つ。
顔を曇らせているのは、手元に傘が見当たらないせいか。
「せっかくだから、一緒に帰ろうか。どうせ帰る道は同じなんだし、クリスちゃんとちょっと喋りたい気分だったしね」
「私と……ですか?」
その瞳には、疑いようのない喜びの色が滲んでいた。
それを見て、言い知れぬ危惧を覚える。
ウォンは素直に相合傘をしようだなんて誘えるほど、キザではない。
実は善意の塊だとか、そんな過度な期待もされたくない。
互いに寄り添うのはいい。
だが、一方が寄りかかるのはごめんだ。
中途半端な優しさは、かけた本人だけでなく、かけられた人間の精神をもいずれは腐敗させるものだ。
おんぶや抱っこを、永久に続けられるわけがない。
そんなことをしていれば、辟易してしまう。
心の弱い人間同士は、ずっと傍にはいられない。
いつまでも、人は子どものままでいることなんてできない。
いつまでも傍にいたいと思うのならば、独りで生きていけるほどに、強くならなくてはいけない。大人にならなくてはいけない。そうして成長ができた人間だけが、他人の隣にいてもいいんだ。
甘えたいのなら、せめて二人三脚するぐらいに留めるべきだ。だが、それは一時の間。傷が癒えたらなら、自分の足で歩かなけれればならない。
そうしなければ、人は人としての尊厳を喪失する。
生きた屍と同類項だ。
それは、あの事件の後に嫌というほど味わった。だから、人生の先駆者として少しばかりのお節介を頭に巡らせてしまった。
長い間黙考していたせいで、クリスは訝しげな瞳を向けてくる。
「ああ、ごめん。ちょっと今考え事してた」
クリスが依存者にならないように、ちょぴり意地悪く笑ってみせる。
「えっと、一緒に雑談でもしながら帰宅しようって話だったよね。今日もオーナーに怒られてたでしょ。だから反省会でもしようか」
「ええ~、いいですよ、そんなの」
「でも、このままじゃ濡れちゃうよ」
「……分かりました。でも、あんまり厳しく説教しないでくださいね」
「大丈夫。オーナーみたいにガミガミ言える人なんて、ひと握りしかいないからね」
皮肉めいた事を言ってのけると、クリスは笑ってくれた。
バッ、と蝙蝠の翅のような真っ黒い傘を広げる。
目線で誘導すると、クリスはひょこひょこと傍に寄る。
傘の中に二人して入り込む。
すっぽりと包み込むぐらいの大きさはあるが、身長の高低差がなんとも勝手が悪い。
必然的に高い方に合わせなくてはいけないが、それだと傘とアスファルトの隙間に横入りする雨がクリスにそのまま襲いかかる。
傘を斜めにしながら、なんとかクリスが最大限濡れないように気遣う。その心遣いが、クリスにバレないように会話を繰り広げる。
「失敗は誰でも犯すことだけど、本当に大切なのはそのあとの対応だよ。怒られてもらえるなんて、今のうちだけなんだから、大いに反省しなきゃ損ってもんだよ」
「ええっ? できれば私も……怒られない方がいいですけど……」
目線を逸らしているのは、オーナーの怒鳴り声を想起しているからだろうか。
いくらこっちが含蓄のある話をしようが、聞く耳を持ちたくないらしい。
ここで何の躊躇もなく頷けば可愛げなんてないが、こちらの意見を受け入れて欲しいものだ。
小さい頃は、どうして大人がこちらの胸中を察してくれないのかと苛立ったものだ。
だが、こうして大人になってみると、子どもの時に味わった屈辱をいつの間にか忘れてるらしいことに気がつく。
……こんなことを考えるようになった時点で、年を食ったことを実感せざるを得ないな。
気が付かないうちに、随分と老いたものだ。
なんて言葉を漏らせば、老人の反感を買いそうだからやめておく。
できれば、十歳の行動心理に立ち戻りたいとさえ思う。
なるべくクリスにも分かりやすいように、理屈を噛み砕いて吐き出す。
「怒られている間が華だよ。それさえされなくなったら、他人になんの期待もされてないってことでしょ。だから、その期待に応えなくちゃね」
「あのオーナーはそんなこと考えてないと思いますけどっ!」
舌足らずで、唇を尖らせる様は、何故だか途轍もなく可愛いく見えた。
「それは……言えてる」
真面目くさった顔で、ぬるい説教を続けようと思ったが、全くもってその通りだったので、クリスに同意してしまう。
オーナーが後生大事にしているのは、自分のプライドぐらいなものらしいことは、数か月も一緒にいれば察することができた。
それでも威厳に満ちた顔を続けているが、なんだか馬鹿らしくなって目尻が次第に緩んでいく。
クリスも緩和な空気に感づいたのか、口元に手を当てる。
やがて、二人してクスクスと笑い出す。
それから、笑顔が大きく弾ける。
通行人たちが驚いてこちらを一瞥するくらいには、笑い声のボリュームが上がっていった。
やがて、目線が気になったクリスは、
「静かにしましょうか」
「そうだね……」
ちょっとした見世物になる前に、どちらが先という訳でもなく口を閉じる。
やがて、静寂が夜闇に溶ける。
なんだかその静けさが痛々しいぐらいに張り詰める。頭上から降り注ぐ雨が、アスファルトや傘に落ちる音だけが響く。
クリスが無表情になって、こちらを見上げる。
その容貌はこちらがはっとするぐらいに、年齢とは不相応に綺麗だった。
「先輩」
「ん?」
「この街も随分と立派になりましたね」
「そーだねー。ほんと、『カートリアの悲劇』があったとは思えないぐらいに、この街は復興した」
『カートリアの悲劇』という単語を口にした途端、クリスはビクンと反応した。
「凄いですよね。あれから四年しか経ってないのに……」
煌びやかなこの街並みは、かつては炎に包まれていた。
四年前。
マスコミが喜色を浮かべそうな、歴史に残る原因不明の大事故が起こった。
空を飛行中だった旅客機が、中央街に突っ込んだ。飛行機の燃料は引火すると大爆発を起こし、あっという間に街中の人間を帰らぬ者にした。
犠牲は1万人人以上の死傷者を出すに至った。
それからは、あっという間だった。
焦土と化したカートリアの土地は安値で取引され、富豪がこぞって買い取った。他の街と交差するような位置にあるカートリアは、商品の流通場所としてまだ価値があると踏まれたからだった。
その予想はあたり、今では高層ビルが軒を連ねている。まるであの事故の全てが夢であったかのように、傷跡などさっぱり失くなっているように見える。
「私……実は……『カートリアの悲劇』の生存者なんです」
ギュッと、クリスは両唇を噛み締める。
言うのですら、相当の勇気がいるだろう。
あの時のことは大人ですら口にしない。
タブーそのものだ。
どれだけ街が綺麗に直されても、被害者の心の傷までは完治することはできない。
もしかしたら、痛みは一生続くかもしれない。
「それは……辛かったね」
「いいえ。私……実はあんまり覚えてないんです。あの時のこと」
虚ろな瞳をしたまま、長年抱えていたであろう苦悩を吐き出す。
「私、あの時まだ六歳だったからだからか、あの時の記憶がほとんど曖昧で……。飛行機に家族と乗っていたのは覚えているんですけど、気がついた時にはもうっ――独りでした」
湿っているのは空気だけじゃない。
伏せた顔は窺い知れないが、震えるような声でどんな表情をしているのかは容易に想像がつく。
「だけど忘れてしまったのは、思い出すのが怖いからだって思うんです。あの地獄を思い出したくないから、ずっと目を背け続けているだけなような気がして……私は……」
沈黙の帳が降りる。
冷気を孕んだ空気。
土砂降りの音だけが妙に鼓膜を響かせる。
そして――
「それでいいんじゃないの?」
ウォンは重い口を開いた。
「苦しかったら、逃げていいんだよ。辛かったら、忘れたって――。そうやってたまには適当に生きていきゃなきゃ、いずれ心はひしゃげるだけだから……」
クリスは魅せられるように、黙りこくったままだ。
「だから……今はそれでいい。今は無理でも、いつか向き合える時が必ずくるんじゃないかな」
クリスにではなく。
過去の自分に言い聞かせるように言い募る。
我に返ると、いつの間にか職員寮の前に立っていた。古くてボロいアパートのようなものだったが、一応雨露を凌げる屋根がある。
「着いたよ」
クリスはすぐに自分の部屋に入ろうとしない。
しばらく逡巡すると、
「ありがとうございます。このことウォンさんに話そうかどうか迷ったんですけど……やっぱり話してみて良かったです」
さっきよりは明るい顔をこちらに向けてくれた。
そのお礼とばかりに、ウォンは顔を綻ばせる。
「それは、良かった」