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「ゆきって、雪のことじゃないよね」
やけに長い沈黙を破って飛び出した的外れな言葉に私は戸惑った。
もしかしたら、目の前の青年は本当に幸を知っていて、だけど素知らぬふりをしているのではないだろうか。
15年間ずっと幸の消息を知るわずかな手がかかりすらつかめなかったせいか、根拠のない期待と激しい焦りに駆られていてもたってもいられなくなった私は、青年に食ってかかった。
「幸は私の弟です。15年前から会っていませんけど、ずっと探しているんです。牡丹雪のことを話していた時のあなたは、幸と重なって見えました。牡丹雪は、私達の故郷の言葉なんです。宮廷の人々はほとんど知らないはず。もし、あなたが幸をご存知なら、教えてください。あの子は、どこにいるんですか」
残念だけど、と青年は言った。
「幸という名の人は知らない」
「でも、どうして、牡丹雪のことをご存知なんですか」
「なにかの本で読んだんだよ」
「でも、」
どうしても納得できなくて、納得したくなくて、私は言葉を探した。
すると、長い腕が伸びてきて、私の頭に積もった雪を払った。
反射的にびくりと震えると、青年は、フッと微笑んだ。
「雪だるまになってしまうから、もう行くよ」
そう言って踵を返した青年は、ふいに振り返って私を見た。
「俺の名前は、枯野。よろしく、おばさん」
青年が雪を踏みしめる音が聞こえなくなるまで、私はぼんやりと佇んでいた。
「まああ、牡丹。酷い顔ですよ」
庭園から戻った私を見た散里様は仰天した。
「ご心配には及びません。元々、大した顔ではないですから」
「冗談を言う必要はなくってよ。まあまあ。こんなに目を腫らして。体も冷え切っているじゃないの。外で泣いていたのね。お茶を飲んで温まりなさい。さあ、ここに座って」
散里様は、私を暖炉のそばの椅子に座るよう命じると、自分も近くの椅子を引き寄せて腰掛けた。
「あなたが泣くなんて。見合いのことがよほどショックだったのですね」
「縁談を持ってきたわたくしの責任ね」と散里様が言うので、私は首を横に振った。
「違うんです。泣いたのは、ちょっとしたはずみで。むしろ、たくさん泣いてすっきりしたくらいです」
「だったら、どうして悲しそうな顔をしているのです」
「幸に、弟に似た人に会いました。知り合いかもしれないと思ったんですけど、思い違いだったみたいです。馬鹿みたいですよね。15年も経っているし、幸は私のことなんて覚えていないかもしれないのに」
「それでも忘れられないのね」
そう呟いた散里様は、どこか遠い目をしていた。
きっと、亡くなった旦那様のことを考えているのだろう。
散里様の旦那様である弓張様は、我が国にこの御方ありと称えられていた将軍だった。
王女である散里様に身分違いの恋をした弓張様の熱烈な求婚は、彼が亡くなった今も宮廷の語り草になっている。
私は旦那様に会ったことはないが、散里様は、時折懐かしそうに旦那様との思い出を語る。
「一生忘れることなどできないのでしょうね」と以前散里様は言ったことがある。
私達は、涙が枯れてしまえば、消えない記憶にすがりつくしかすべを持たない。
それきり黙って、暖炉の中で赤々と燃える火をいつまでも眺めていた。
明くる日、朝から熱を出したため、散里様がわざわざ御医者を呼んでくれた。
お昼頃やってきたのは、宮廷医の中でも一番若い瀧先生だった。
瀧先生は、私の数少ない友人の一人で、宮廷に入って間もない頃から交流がある。
当時まだ医学生だった瀧先生は、庶民の出のせいか、よく医学仲間にからかわれていた。
人見知りの激しい上に垢ぬけない田舎者の私もまた、女官の中でつまはじきにされていたから、私達は、なんとなく仲間意識を持ったわけだ。
瀧先生のふわふわした髪を見た途端、私の鼻がむずむずし出した。
「へっくしゅん。ぶっくしゅん。へっぷしゅん」
「なんか、変なくしゃみだね」
瀧先生は、鞄から診察器具を取り出しながら言った。
「一発目で止めようとするから、変な音になっちゃうんですよ」
「我慢しない方がいいよ。くしゃみは、体内の悪いものを出す反応でもあるわけだから。はい、口開けて」
瀧先生は、持ち前ののんびりした口調で言うと、私の口を開けさせた。
「そういえば、お見合いしたんだって」
「ひょーしてひってるんへすか」
「医局の先生達は皆知ってたよ」
「ひゃあ、ひゅうていしゅうがひってるってこひゃないでひゅか」
瀧先生は、私の口を閉じさせると、上着をめくって、腹に聴診器を当てた。
「相手の男性が言いふらしているらしいよ。年齢詐称したって、本当なの」
思わず「うう」と唸ったら、「お腹痛いの」と聞かれた。
「お腹じゃなくて、頭が痛いんです。どうせ、私は、年齢詐称してお見合いしたおばさんですよ」
瀧先生は、「ははっ」と笑うと、聴診器を耳から外した。
「牡丹さんがおばさんだったら、僕もおじさんだよね」
「瀧先生は、男だからいいですよ。年食った分だけ社会的信用が上がるんだから。その内、可愛い年下の女の子と結婚できるわけだし」
「それは、どうだろう。ほら、僕は庶民の出だから。野心家ぞろいの宮廷の女性にはもてないわけ」
「お互い苦労しますね」
「まったくだ」
瀧先生は、掛け布団を私の首元まで引き上げると、布団の上からポンポンと叩いた。
「風邪は、寝るのが一番だよ。薬は、朝晩食事の後に飲むといい」
出て行こうとした瀧先生を私は「ちょっと待って」と呼びとめた。
瀧先生は、不思議そうに振り返った。
「瀧先生は、枯野っていう人をご存知ですか」
瀧先生は、しばらく首を捻った後、「ああ」と呟いた。
「日永様の御子息がそんな名前だったな。ずっと外に出ていたみたいだけど、最近宮廷に戻ってきたと聞いたことがあるよ。面識はないけど」
「日永様って、たしか宰相様」
何も知らない瀧先生は、「うん、そー」と可愛らしい仕草で頷いた。
平静を装って「へえ」と言ってみたけれど、心臓がバクバクして、冷や汗まで出てきた。
「ありがとう、瀧先生」
なんとかお礼を言うと、瀧先生は、眼鏡越しにふにゃっと笑い、ドアを静かに閉めて出て行った。
なんてことだ。
年齢詐称の見合いだけでも十分笑い者なのに、よりにもよって宰相様の息子に愚痴を聞かれてしまうなんて。
後に残された私は、自分の犯した失態を思い返して悶絶することになる。