1
人生初めての見合いに挑んだ日、私は、ひどく落ち込んでいた。
「いかがでしたか、見合いの首尾は」
待ち構えていた散里様にそう聞かれた時も深々と頭を下げるしかなかった。
「申し訳ありません。しでかしました。100年祭の話題になったおり、花娘の行列に参加したことをつい口にしていまいまして、その」
「年齢がばれたのね」
散里様の口からため息が漏れた。
「本当に申し訳ありません。散里様に紹介頂いた縁談だったのに」
「仕方ないわ。年齢を誤魔化そうと言ったのは、わたくしですから。でも、良いお相手だと思ったのですけどね。最近の男性は、了見が狭いのかしら」
「誰だって、27歳を20歳と偽られたら、引きますよ」
散里様は、「そうかしらねえ」と言いながら、白魚のような美しい手で私の手を握った。
「落ち込むことはないわよ、牡丹。わたくしがきっと、もっと良い縁談を見つけてあげますからね」
「まだ諦めないのですか」
「もちろん。だって、わたくしの夢は、牡丹の子供を甘やかすことですからね」
散里様は、にっこり笑った。
「少し出てきます」
私はそう言って、散里様の部屋を出た。
肌寒い回廊を体を縮めて歩いていると、一層惨めな気持ちがこみ上げてきた。
私は、今年で27歳になる。我が国の女性の婚期は18歳から20歳までだといわれるので、もう行き遅れ以外の何者でもない。散里様は、年を誤魔化して見合いすればいいとおっしゃったが、今回のことで上手くいかないことがよく分かった。無理して、結婚などしなくともいいのではないかと思う時もある。
実際、現在の生活には、満足している。ずっと散里様にお仕えしていくのも悪くないと思う。散里様という、素晴らしい主がいるだけ、自分は幸せなのかもしれない。
でも、こんな寒い日になると、かつて手放した小さなぬくもりを思い出すのだ。たとえば、結婚したら、あのぬくもりを取り戻すことができるのだろうかとか、つい考えてしまう。結婚適齢期に意地を張って、見合いをしなかったのは、他でもない自分なのに。我ながら、往生際が悪くて、嫌になる。
とりとめのないことを考えていると、窓越しに外に降り積もった雪が日光に反射してきらきらと光っているのが目に入った。雪を見ると、私はいつだって過去へと引き戻されるのである。
私の故郷は、雪深い山村だったので、冬の間は家の中で冬が過ぎ去るのをじっと待っていなければならなかった。私は、母親と弟の幸と3人で暮らしていた。幼い私は、元気があり余った子供だったから、よく夜更かしをしていた。窓越しに降り積もり雪を眺めながら、春が来るまで長い夜を何度も明かした。
母親と最後に言葉を交わした夜も普段と変わらない、雪が降り積もる音が聞こえるほど静かな夜だった。母親は、幸の小さな頭を愛おしげに撫でながら、珍しく夜更けまで起きていた。
母親の顔は、雪のように白く透き通っていた。
私は、幼いながら、母親と過ごす夜は、これが最後であろうことを察していた。
きっと、ひどい顔をしていたのだろう。
母親は、弱弱しく微笑みながら、私をたしなめた。
「女の子は笑っていなくてはだめよ」
小さく頷き、笑おうとしたが、どうしてもできなかった。
「私、できない」
泣きわめいて、それから抱き締めて甘やかしてほしいと思っていた。
大きな不安に飲み込まれそうだった。
母親を失うなんて。
そんなことに耐えられるだろうか。
母親は、私の手を取ると、強く握った。
「幸にこれからも優しくあげて。この子を守ると約束して」
母親の言葉は、容赦なく私の心を刺したけれど、母親を悲しませたくなかったので、微笑んでみせた。
「安心して。どんなことがあっても守るから」
母親は、安心したように大きく息を吐くと、枕に頭を戻すと、目を閉じた。
次の朝、冷たくなった母親の枕もとで目覚めた私は、やっと涙を流すことができた。
もうずっと前の話だ。
涙はとうに枯れ果てて、長い月日が流れ、今は時折こうして母親の最後を回顧するだけだ。27歳の私は、約束を反故にして素知らぬ顔で、のうのうと生きている。見合いに失敗して人気のない宮廷庭園に向かっているのは、人知れず泣くためではない。今の私を見たら、母親は、罵るにちがいない。
冬のこの時期、草木が枯れた庭園は、侘しいことこの上ないのが常だが、すっかり雪化粧された今日の庭園は、明るく華やかに見えた。しかし、それどころではない私は、風情のある雪景色を素通りした。
宮廷は広しといえども、庭園の端に忘れられたように存在する涸れ井戸を使っているのは、私くらいなものだろう。宮廷に入って以来、私は、その井戸に向かって人には言えない言葉を吐き出し続けてきた。積もった雪をどけて腐りかけた木の蓋を取った私は、真っ黒な井戸の底に向かって思いの丈をぶちまけた。
「なあにが、『僕は正直な女性が好きなんです』よ。本当の年齢言ったら、誰も見合いなんてしてくれないの。こっちの事情も知らないくせに押しつけがましい正論を言わないでよ。大体、あんたこそ、本人のいないところで馬鹿にするくらいなら、『年増は嫌だ』って正直言えばいいじゃない。」
上品な宮廷の人々が聞いたら、卒倒してしまうかもしれない。
そう、誰かに聞かれたら、大変なことになる。
分かっていたはずなのに私はどうも気が緩んでいたらしい。
私は、周囲の人気を確かめもせず、さらに続けた。
「私だって、無神経で偽善者ぶった男は、お断りよ。あんたみたいな男に蔑まれるなんてゾッとしたんだから。行き遅れだって、プライドくらいあるんだから。馬鹿にしないでよ。あんたなんて、親の財産食いつぶして、一文なしになっちゃえばいいんだ。もう、なによ。なによ。なによ。なによおーーーー」
「「なによー。なによー。なによーーーー」」
絶叫は、井戸の中でむなしく反響する
それは、きっと力を持たない呪いの言葉。
肩で荒い息をしていた時だった。
「ぶは」
小さな、でも確かな、誰かが吹き出す声が聞こえた。
私は、凍りついた。
「そこに誰かいらっしゃるのですか」
聞き間違いであってほしいと全力で願いながら、声を掛けたが、私のささやかな願いは聞き届けられなかったようだ。
生垣の後ろから姿を現したのは、成人したばかりであろう青年だった。
私よりも頭二つ分高いところにある切れ長の目は、愉快そうに細められている。
顔から火が出るかと思った。
最も聞かれたくない相手、つまり若くて自信に満ち溢れた男に私の恨み言は聞かれてしまったらしい。
青年は、さも可笑しそうに喉でくっくと笑っていた。
私は、息も出来ず、その場に凍りついていた。
頭の中は目まぐるしく、どう誤魔化そうか、言い訳を考えていたが、混乱しすぎて、考えをまとめることすらままならない。
最初に口を切ったのは、青年の方だった。
「そんなに怯えなくてもいいよ。俺、誰にも言わないから」
青年は、必死に笑いを堪えようとしているのか、口元を歪めながら言った。
「ありがとうございます。どなたか存じませんが、お耳を汚すようなつまらないことをお聞かせしてしまい申し訳ありませんでした。どうか、お忘れください。では、失礼します」
破れかぶれに言った私は、踵を返して逃げようとした時、青年がまた口を開いた。
「おばさん、先週も来てたよね」
私の足は、ピタリと止まった。
今の言葉は、私に向けられたものだろうか。
早く逃げればいいのに、振り返った私の口は勝手に動いた。
「おば、おば、おばさんて、私のことですか」
「うん。他に誰かいるの」
青年は、頷く。
「私、まだ27なんですけど」
「それが何」
青年は、きょとんとした顔で私を見返した。
「私は、おばさんじゃないです」
「呼び方なんて、どうだっていいでしょ」
「私にとってはどうでもよくないです」
恥ずかしくて逃げたい心とは裏腹に私の口からひとりでに言葉が出てきてしまう。
我ながら、情緒不安定だ。
その時、青年は、少しぎょっとした顔で私を見た。
「おばさん、どうしたの。泣いてるけど」
「へ、まさか」
慌てて頬に手を当てると、本当に生温かいものが伝っていた。
王宮に来て10年、泣いたことなんて一度もなかったはずの私が、なぜか見ず知らずの青年の前で泣いていた。
涙は後から後から溢れてきて、私は、鼻をぐずぐずいわせながら、泣き続けた。
青年は、困惑した様子で号泣する私を黙って見つめていた。
どれくらいの時間が経ったのか分からないが、突然ひんやりとしたものが私の瞼に触れた。
雪が降り出したようだ。
隣に立っていた青年も雪に気付いて空を見上げた。
真っ白な玉は、灰色の空からぽたぽたとこぼれおちてくる。
その時、青年が囁くように言った。
「牡丹雪。こういう大粒の雪をそう呼ぶんだって聞いたことがあるんだ。なんかいいよね」
私は、大きく瞬きをして、青年を見上げた。
雪はいつだって私を過去へ引き戻す。
こういう大粒の雪を牡丹雪って呼ぶんだってさ
僕の名前に姉ちゃんの名前がくっついてるんだよ
ずっと一緒みたいでなんかいいよね
違うよ、幸
牡丹雪は水っぽいから、すぐ溶けちゃうんだよ
幸のゆきは、幸せのゆき
雪じゃないんだよ
「あなたは、誰。幸を知っているの」
青年が振り向く。
私は、答えを待つ。