譲れないもの(2)
兄様は腕を強く引いて私を空き教室に押し込んだ。いつもの漣兄様と違う。
私の腕を掴んだ力の強さと、私を見下ろしている目を見てそう感じた。
「漣兄様?」
兄様は私を椅子に座らせて自分も隣に座り私の顔を覗き込んだ。
「父さんから聞いた。貧血を起こしたって?どうして同じ場所にいるのにオレに連絡しなかった?」
強い口調で言われ、何か答えなければと思って口を開きかけたけれど、今日の兄様にはいつものような強がりやごまかしは通用しないと思えて口をつぐんだ。
答えられなくて黙っていると、兄様は深くため息をついた。
「利奈の事だから、心配かけるとか迷惑かけるとか、くだらないことを考えてたんだろ?」
どう答えたらいいかわからない。
「ごめんなさい。1人で帰れると思ったから・・」
これは本当に思っていた事。それを言うと兄様は私の前髪を、くしゃりとかきあげた。
「ちゃんとオレの目を見て話せ・・・利奈、泣いた?」
ああ、やっぱり兄様には分かってしまった。時間が経って、瞼の腫れもひいてきたと思っていたのに。漣兄様が分かったという事は史兄様も分かっていたんだろうな・・・
「どうして泣いた?あの女に何か言われたのか?」
漣兄様はママの事を『あの女』と呼ぶ。それを聞いて少し悲しくなった。ママも兄様たちを『あの子』としか呼ばない。
「違うよ・・昨日、パパが帰っておいでって・・」
私の頭を抱え込むようにして自分に抱き寄せて背中をポンポン、と軽く叩いた。
昔、私が泣くと兄様達は泣き止むまでこうしてあやしてくれた。
「大丈夫、もう泣かないよ?」
兄様にあやされながら言うと、
「利奈の『大丈夫』は聞かない事にした。何が大丈夫なのか説明できる?」
いつもはここまで深く追求しないのに、今日に限っては容赦なく痛いところばかりをついてくる。兄様の問いかけに、答えることのできない私は口をつぐんでいるしかなかった。
「説明できないだろ?利奈の『大丈夫』の後に続く言葉はわかってるから。もう聞かない」
何も言えないから、「降参です」の意味を込めて兄様の背中に腕を回してぎゅっとしがみつくと、髪の毛をクシャクシャにしながら頭を撫でられた。
「とにかく、連絡がつかなくて心配した。兄貴にでもいいからメールの返事ぐらい寄越せ」
その言葉に捜し物の事を思い出し、兄様の胸から顔をあげて兄様を見た。
「あのね、携帯をなくしちゃったの」
「なくした?落としたのか?」
「わからないけど・・・今捜してる」
「利奈、黎人に何か言われた?」
急に話が変わって驚いた。今はまだ黎人のことを話す気持ちになれなかったから首を横に振った。
「そうか・・・」
話題を変えようとした時、午後の授業が始まる予鈴が鳴り兄様の腕が解かれた。
「兄様、私行くね?次は移動教室だから」
兄様は笑顔で見送ってくれた。
兄様にはああ言って教室を出たけれど、授業を受ける気持ちにはなれなかった。
1人になりたい。そう思って大学部に繋がる小路を通り、小さな噴水がある広場まで来ると芝生の上に座り大きな木の幹に寄りかかった。
大きく息を吐きながら空を見上げると青空だった。眩しくて目を閉じると、陽の光で瞼の裏が赤く染まった。
昨日、パパは「私を取り戻す」と言っていた。親権を取り戻すということだろうか?そうしたら、私はまた剣崎利奈に戻るの?
ママは、どうするのだろう?抵抗する?それともあっさり引き渡す?
パパは、やると言ったらすぐに行動に移すんだろうな・・ママが私を1人にしておいた証拠は沢山持っているはずだし、パパの弁護士が負けるなんて考えられない。
ぎゅっと自分の膝を抱いて、膝の上に額を乗せた。
私はどうしたいんだろう?
ママが自分を見ていないのにあそこに留まる?それとも、ママと離れて剣崎に戻る?
私が剣崎になったら、ママがあの家に帰ってきても“おかえり”って言ってくれる人はいないんだよ?1人って寂しいんだよ?
ママが囚われている想いは・・子供の私には理解できないことで元々はパパとママの問題なのはわかる。私が口を出す問題ではない。
でも、ママが兄様達を傷つけるのは嫌だ。それはどうしても譲れない 。
ふいに暖かな陽の光が感じられなくなり、目を開くと雲が太陽を隠していた。
時間を確認しようと思っていつもの癖でポケットに手を伸ばしたけれど、触れるはずの固い感触はなかった 。
携帯を捜しに保健室をに行こうと思って行きそびれていたんだ。
早く捜しに行こう。