第5話 邪神龍だって学園生活を謳歌したい 1
入学から二週間が経った。
あれから〈灰の牙〉の動きはない。
なにか良からぬことをしようとすれば、邪神龍のセンサーにビビッとくるので本当に何もしてない、はず。
すると朝、クロエが教室の前で待っていた。
堂々と、笑顔で。
この人の神経がわからない。
朝のホームルーム前の廊下に、くすんだ銀髪の男が壁にもたれていた。二年生の制服を着ている。表情はあの日と同じ——薄い笑みだ。
周囲の生徒が「誰だ」という顔で見ている。気にした様子もなくクロエは私が近づくのを待っていた。
「おはよう」とクロエが言った。
「……おはようございます」
「また来る」と言っていたが、朝から教室前とは思っていなかった。
堂々としすぎている。
工作員のリーダーがここまで表に出てきていいのか。
「授業が終わったら、少し話せる? 今夜のことで」
今夜、という言葉に、背筋が緊張した。
「……今夜、何があるんですか」
「ここでは話せない」
それだけ言って、クロエは廊下を歩いていった。
周囲の生徒が「あの人誰?」とひそひそしていた。
「次は俺が直接動く」と言っていた。
でもわざわざ事前に声をかけてくるということは——動く前に何かを伝えようとしている?
敵が情報をくれる。
意味がわからない。でも無視するわけにいかない。
◇ ◇ ◇
一限目は魔法実技の授業だった。
この授業、入学以来ずっと憂鬱だった。
理由は単純だ。私には「普通の魔法」が使えない。邪神龍の力はある。でもそれは「魔力を操作して特定の現象を起こす」ものではなく、「存在の重さで世界を歪める」ものだ。火を出せと言われて制御した炎を出すのは、私には実は難しい。
悩んでいたら、実演の順番が来てしまった。
どうする。
普通の魔法が使えませんとは言えない。
でも邪神龍パワーを出すと確実に大騒ぎになる。
……考えろ、澪。OL時代、できないことをできるように見せるのは得意だったはずだ。(大きな声では言えないけどね)
邪神龍の力で「普通の魔法に見える何か」を作れないか。
「宵崎、前へ」と教師が言った。
立ち上がった。教壇の前に出た。クラス全員の視線が集まった。フェリクスが眉を少し上げた。リュカが静かにこちらを見た。エルマが「頑張れ澪さん!」と小声で言った。
お題は「基礎炎魔法」だ。小さな炎を手元に灯す、一年生の最初に習う魔法だ。
私は右手を前に出して、目を閉じた。
炎は「急激な酸化反応」だ。
現代化学の話をすれば、燃焼には可燃物・酸素・熱の三要素が必要だ。
邪神龍の力で空気中の酸素密度を局所的に高めて、摩擦熱でエネルギーを燃焼させれば……
やってみよう。
右手の指先に、意識を集中した。邪神龍の力を、今まで一番細かく、精密に絞り込んだ。空気の流れを感じて、分子の動きを想像して——ほんの一点だけ、世界を「押す」。
橙色の炎が、指先に灯った。
普通の炎だった。魔法の炎とも、邪神龍の黒い炎とも違う、まっとうな橙色の火だった。揺れて、揺れて、静かに燃えていた。
教室が、しんと静まり返った。
教師が固まっていた。
「……そ、その炎、魔術式を一切組んでいないが」
「手順を省略しました」
「魔術式なしで炎魔法を……?」
「そういう体質なんです」
クラスがざわめいた。
魔術式なしで魔法を発動する。この世界では理論上不可能とされていることだ。でも、「魔術式は人間が力を制御するための補助輪」なので、邪神龍的には省略できる。現代化学の発想で「現象の本質」に直接アクセスした結果がこれ。元の世界の論理的思考が役に立った。
リュカが静かにノートを開いた。
「記録していいですか」
「どうぞ」
「……ありがとうございます。正直、驚きました。これは歴史的な瞬間です」
リュカが「驚いた」と言った。
真顔で、淡々と。
この人が感情を表に出すとき、言葉が直球すぎる。
フェリクスが静かに言った。
「……お前は毎回、何かをやってのけるな」
「たまたまです」
「嘘だ」
「……ご想像にお任せします」
フェリクスが鼻で笑った。口元が緩んでいる。いつもの癖だ。
エルマが「すごい! すごいです澪さん!」と両手を合わせていた。ガウェインが短く頷いた。それだけだったが、ガウェインの頷きには妙な重みがある。毎回そう感じる。
◇ ◇ ◇
放課後、中庭の隅の木陰でクロエが待っていた。
昼間の学園は生徒が多い。木陰は人目から少し外れているが、完全に隠れているわけでもない。クロエはベンチに腰を下ろして、空を見上げていた。
私が近づくと、視線を下ろした。
「座って」と彼は言った。
「立ったままでいいです」
「……そう」
クロエが少し間を置いた。表情が読みにくい。昼間の光の中では、目の隈が深いのがよくわかった。あまり眠れていないのかもしれない。
「今夜、上が動く」
「上、というのは?」
「〈灰の牙〉の本部から、直接人が来る。幹部クラスが二人。目的は邪神龍の排除と、それに付随する聖女の確保だ」
幹部クラスが二人。
これまでの工作員とはレベルが違う。
ゲームのシナリオで幹部クラスと戦闘するイベントは存在していた。でもそれは第二部、二年生のときの話だ。
これも前倒しになっている。
「なぜ私に教えるんですか」
クロエが少し目を伏せた。
「……俺の指示じゃない。本部が勝手に動いた。俺が動くはずだったのに、上が介入してくる。そういう話だ」
「だからといって、敵に情報を流す理由にはならないです」
「そう、ならない」
クロエが認めた。あっさりと。
「でも——」
クロエが木の幹を見上げた。葉の隙間から午後の光が落ちていた。
「今夜、あの幹部連中がここに来て、学園の生徒を巻き込んだら。誰かが傷ついたら。それは俺の作戦ではない。でも俺の管轄の中で起きることだ」
“誰かが傷ついたら”
この人は——本当に、疑問を持っている。
どこかで線を引こうとしている。
まだ踏み越えていない線が、この人にはある。
「クロエさん、あなたが今夜ここを離れれば、幹部に関わらずに済みます」
「逃げろということ?」
「戦わなくていいという意味です」
クロエが少し間を置いた。それから、薄く笑った。
「俺に選ばせてくれるんだ」
「そう、選ぶのはあなたです。私がどうこうできることじゃない」
クロエがまた少し黙った。
「今夜0時を過ぎたあたりに来る。場所は中庭だ。正門から入ってくる」
「……ありがとうございます」
「礼はいらない」
それだけ言って、木陰を出ていった。
ゲームでクロエが改心するのは第二部の後半だった。
でも今、この人の中で何かが動いている。
ゲームのシナリオよりずっと早く。
◇ ◇ ◇
フェリクスに話した。
「今夜、エルマちゃんを狙う敵組織の幹部が来る」と告げると、フェリクスは三秒黙った。それから「情報源は」と聞いた。
「言えません」
「……信頼できる情報か」
「はい」
フェリクスがまた黙った。王太子として動くべきか、個人として動くべきか、両方を瞬時に計算しているのだろう。
「ガウェインとリュカを集める。エルマは寮から出さない」
「お願いします」
「お前は?」
「中庭で迎えます」
フェリクスが私を見た。何か言いかけて、止めた。
「……一人でなんでもしようとするな」
命令口調なのに、心配している声だった。
フェリクスはこういう人だ。
直接「心配だ」とは言わない。でも言葉の裏に全部ある。
「任せてください。私、強いので」




