第3話 理不尽を見たら滅する邪神龍 2
事件は、予想より早く来た。
帰り支度をしていると、東棟の方角から魔力の波動を感じた。邪神龍の感覚は鋭い。人間の魔力は日常的に感知できるが、今感じたのはそれとは別の種類のものだ。
冥界の魔力だ。
〈灰の牙〉の工作員。
学園に潜り込んでいる工作員が動いている。
発生源は東棟の三階、準備室のあたり。
まずい。今の時期に動くということは——聖女関連の文書を狙っている可能性が高い。
私は荷物を机に置いて、足早に東棟へ向かった。
放課後の廊下は人が少ない。東棟の三階はさらに人気がない。準備室の前に立つと、扉の隙間から確かに冥界の魔力が漏れていた。
扉を開けた。
眼鏡の男が振り返った。三十代、温厚そうな外見。手に羊皮紙の束を持っていて、棚の扉が開き、「聖女記録・閲覧禁止」と書かれた封筒が乱雑に引き出されていた。
「……誰だ」
男が低く言った。
「新入生です」と私は答えた。
「その書類、棚に戻してください」
男の目が細くなった。
「新入生が何を——」
「戻してください」
もう一度、静かに言った。今度は声に、少しだけ力を乗せた。
邪神龍の力が、声帯を通ると、普通とは違う響きになる。音圧ではなく、存在の重さが言葉に乗る。人間がそれを聞くと、脳の奥で何かが止まる感じになるらしい。
男が一歩後退りした。
「っ……お前、その魔力は……邪神龍……」
「戻してください、と言っています」
私は部屋に入って、右手を上げた。
黒い炎が両手から溢れ出た。
部屋の温度が急落した。窓ガラスが内側から白く曇る。棚の上の小物が震え、松明の火が青白く変色した。
黒い光が蛇のように動いて、男の両肩と足首を、壁に縫いつけた。
体が動かない。声も出ない。ただ目だけが私を見ている。
「聞こえますか? 頷けますか?」
男がゆっくり頷いた。
「その書類を棚に戻して、今日のことは誰にも言わないでください。そして——」
一拍置いた。
「この学園の生徒を傷つけようとしたら、次はもっと本気でめっします。これは脅しではなく警告です」
黒い炎をゆっくり引いた。
男がずるずると床に崩れた。
めっ、という言葉が私に定着してきた。邪神龍の口から「めっ!」が出ると妙な迫力になるな。我ながらいい言葉を選んだと思う。
男は震える手で羊皮紙を棚に戻した。封筒を元の位置に差し込んで、扉を閉めた。そして深々と頭を下げた。言葉は出ていなかったが、全身で「わかった」と言っていた。
私は準備室を出た。
よし。書類は守った。
ゲームのシナリオでは、この盗難がきっかけでエルマが危険にさらされ、フェリクスが守るという展開になる。
……って、また横取りしてしまった。
でも今回は完全に仕方ない。エルマちゃんが危険にさらされるのは嫌だ。
それに冥界側が悪さをしたら「めっ!」するって最初から決めていた。
廊下を歩き始めたところで、声をかけられた。
「——何をしていた」
フェリクスだった。廊下の曲がり角に立っていた。荷物を持っている。帰り際だろう。
なぜここにいる。
……魔力の異常に気づいたのか。
フェリクスの魔力感知能力は高い。冥界の魔力が漏れたのをキャッチして来たんだろう。
察しが良すぎる。
「ちょっと後始末をしていました」
「後始末……」
「この学園に、よくない目的で入り込んでいた人間がいたので。おとなしくしてもらいました」
フェリクスの目が細くなった。
「……それがあの魔力の乱れの原因か」
「そうです」
「お前が単独で対処した?」
「一人でできることだったので」
短い沈黙。
「え、ああ、ちゃんと先生には報告しますよ!」
「ふん……」
夕暮れの光が廊下を橙色に染めていた。フェリクスの金髪がその色を受けて、ゲームで見たどのグラフィックよりきれいだった。
「今朝の件もそうだが」フェリクスがゆっくり言った。
「お前は今日だけで何度、この学園のために動いた」
「そんなに大げさなことではないです」
「大げさではない。お前は俺の一歩先に動いている」
一歩先、か。
シナリオを知っているから先に動けるだけで、私自身が優れているわけではないんだけど。
でもそれは言えない。
「なぜだ? 理不尽が嫌い、というだけで、ここまで動けるのか」
「そうですね。あとは、あなたたちに嫌な思いをさせたくないので」
フェリクスが少し目を丸くした。
「……俺たちに?」
「クラスの人たちが、理不尽なことに巻き込まれるのを見たくないです。それだけです」
「理由になっていない」
「私にとっては十分な理由です」
フェリクスがまた黙った。廊下の奥で、他の生徒の話し声が遠く聞こえた。夕暮れの学園は、朝よりずっと静かだ。
やがてフェリクスが、低く言った。
「——お前はなぜ、俺たちのことをそんなふうに言う」
「どんなふうにですか」
「まるで、ずっと前から知っているような口ぶりだ」
鋭い。
フェリクスは勘が鋭い。理由は言えないけど、感じ取ることはできる人だ。
「……そう聞こえましたか」
「聞こえた」
「気のせいではないですが、説明できる言葉を持っていないです」
フェリクスが私を見た。長い間、無言で。
そして、静かに言った。
「……もういい」
「信じてくれるんですか」
「判断を保留する」
昼と同じ答えが返ってきた。
「だが——お前が敵ではないことは、わかった」
フェリクスが「敵ではない」と言った。
一歩前進だ。
喜んでいいのか複雑なんだけど、喜んでみる。
「ありがとうございます」
「礼はいい、と言ったはずだ」
「言わずにはいられないので」
フェリクスが短く鼻を鳴らした。また口元が緩んでいる。
「——明日も来るか」
三日連続で同じことを聞かれている。
「来ます。毎日来ます」
「そうか」
フェリクスが歩き出した。別の方向へ。今日も歩幅が少し早い。
私はその背中をしばらく見送ってから、窓の外に目をやった。
丘の上の学園を、夕焼けが橙と紫に染めている。見たことのない色の花が咲いた花壇が、夕風にゆれていた。
◇ ◇ ◇
夜、寝る前にぼんやり考えた。
三日目でこれだ。シナリオはすでに、いくつか変わっている。
変わったことは悪くない。誰かが傷つくよりずっとましだ。
でも一つだけ、気になることがあった。
工作員が動いたのは、ゲームのシナリオより早かった。
なぜ早い?
〈灰の牙〉は、邪神龍が学園にいることを知っている。
だから計画を前倒しにしている可能性がある。
私がここにいることが、シナリオの時系列を歪めている。
ゲームの知識は持っている。
でもそれが「いつ」起きるかは、もう正確にはわからない。
楽しむつもりで来た。
今も楽しいのは本当だ。
でも楽しむために、戦わなければいけない場面が想定より早く来るかもしれない。
窓の外に星が見えた。邪神龍の目で見ると、星の数が人間の目より多く見える。光の層が何重にも重なって、夜空の密度が全然違う。
きれいだ。
それは変わらない。
まあ、なるようになる。
邪神龍の力があるんだ。何が来ても——
めっ、してやる。




