第3話 理不尽を見たら滅する邪神龍 1
学園に来て三日目。
私はすでに一回、本気を出しかけていた。
理由は単純だ——目の前で理不尽なことが起きていたから。
理不尽は滅する。
私はもうOLじゃない、邪神龍だ。
朝のホームルーム前、私は中庭を抜けて教室へ向かっていた。
アルカナ学園の中庭は広い。石畳の中央に噴水があって、その周囲に木製のベンチが並んでいる。朝は各クラスの生徒が思い思いに歩いていて、ゲームのオープニングで見た「学園の日常」がそのまま広がっていた。鳥の声、噴水の水音、どこかから漂ってくる花の匂い。全部が本物だ。
問題は、ベンチの陰で起きていた。
平民の男子生徒が、貴族らしい上級生三人に囲まれていた。制服の胸元に手を伸ばされて、鞄を取り上げられかけている。声もあげられない様子で、ただ肩を縮めて俯いていた。
周囲の生徒は見て見ぬふりをしていた。
立ち止まれ澪……。
あれは……滅する。
三秒で結論が出た。
私は足を止めて、上級生たちに向かって歩いた。
「ちょっといいですか」
上級生の一人が振り返った。制服からして二年生、体格のいい男子だ。私を一瞥して、鼻で笑った。
「一年か。関係ないだろ、あっちへ行け」
「その人の荷物を返してください」
「あ?」
「人の物を取るのは、理由がどうあれ間違っています」
上級生の顔が赤くなった。
「お前、先輩に向かって——」
「先輩後輩も関係ないです」
私は手を伸ばして、上級生が持っていた鞄をすっと取った。呆気に取られた顔の上級生から、そのまま平民の少年に渡す。
「返します」
「な……お前、今——」
上級生が一歩踏み出した。その瞬間、私は右手の指先から、邪神龍の力をほんの少しだけ、漏らした。
黒い靄が、指先からじわりと滲み出た。
煙のように広がって、上級生たちの足元を流れる。
音はない。爆発もない。ただ「何か途方もないものがここにいる」という感覚だけが、空気を伝わっていった。
石畳が、ほんの一瞬、黒く染まった。
上級生たちの顔から血の気が引いた。
「ひ……っ」
一人がと短く声を出した。
三人とも、足がすくんでいる。動き方を忘れた、という顔だ。
「——めっ! しますよ」
笑顔で言った。
上級生三人が、足をもつれさせながら逃げた。転びそうになりながら中庭を横切って、東棟の入口に消えていく。周囲で見ていた生徒たちが、全員固まっていた。
邪神龍パワーを最小限に漏らすだけで人間はこうなるのか。威嚇に使えるな。OL時代に理不尽な残業を押しつけてきた上司にも使いたかった。
平民の少年がぽかんと私を見ていた。茶色い髪の、緊張したような顔の男子だ。
「あ、ありがとうございます……」
「怪我はないですか」
「は、はい、大丈夫です……。えっと、あなたは……」
「宵崎澪、一年一組」
「……ぼくも一組です。ノア・アルツといいます」
ノア・アルツ。
同じクラスだったのか。顔を把握していなかった。
ゲームでは脇役だけど、いいキャラだったな。
「またこういうことがあったら、先生に言うか私に言ってください」
ノアが少し目を丸くした。
「……なぜぼくを助けてくれたんですか?」
「そうね、見ていて気分が悪かったので」
率直に答えると、ノアが何か言いたそうにして、でもチャイムが鳴った。私は教室へ向かいながら、ひとつ気になっていた。
あの上級生たち、ゲームのシナリオだとフェリクスが止める場面だった。
私が先にやってしまった。
フェリクスの「内面の優しさ」を示す最初のイベントを、横取りした。
またシナリオを変えてしまった。けど、自分を止められなかったので仕方ない。
◇ ◇ ◇
昼休み、食堂でエルマと席についたところへ、フェリクスが来た。
エルマが「あ、フェリクス様!」と嬉しそうに声をあげた。フェリクスは短く頷いてから、向かいの席に座った。そして私を見た。
「今朝の中庭、見ていた」
開口一番でそれを言った。
見ていたのか。
ということは、自分が動く前に私が動いたのを目撃したということだ。
「そうですか」
「俺も動こうとしていた。お前に先を越された」
「すみませんでした」
「謝ることではない」
フェリクスがやや眉を寄せた。
「ただ——お前が使ったものは何だ。あの黒いもの」
「脅しに使っただけです。実害はないですよ」
「実害がなければいいという話ではない」
「そうですね」
私は少し考えてから言った。
「でも、これ以上の説明は今は難しいです。ごめんなさい」
フェリクスが目を細めた。黙っている。詰めてくるかと思ったが、しばらくして短く息をついた。
「……お前が嘘をついていないのは、顔を見ればわかる」
「信じてくれるんですか」
「信じるのではない。判断を保留している」
エルマが「フェリクス様……」と困ったようにつぶやいた。
フェリクスが判断を保留した。ゲームでも怪しいと思ったら疑念を持ち続けるようなキャラだった。
その対象が私になっちゃったけど……。
「それで、お前はなぜ彼を助けた」
とフェリクスが続けた。
「理不尽が嫌いなので。それだけです」
「それだけで動けるのか」
「動けない理由が見当たらなかったので」
フェリクスがまた黙った。パンをちぎって一口食べて、また私を見た。
「……嫌いじゃない」
その言葉にドキッとしてしまう。
小さな声だった。でも確かに聞こえた。
……止まれ、心臓。
王太子が「嫌いじゃない」と言った。
入学三日目で。早いよ。
お前は邪神龍だぞ澪。ラスボスだぞしっかりしろ。
「嫌いじゃない」と言われて全力で喜ぶラスボスが——
……喜んでいる。どうしようもなく。
「ありがとうございます」
「礼はいい」
「いいえ、言わせてください。ありがとうございます!」
フェリクスが鼻で笑う。呆れているのに、口元が緩んでいる。前にも見た癖だ。
エルマが「なんか……すごい……」と私に熱いまなざしを向けていた。




