第2話 推しが動いている。 息をしている。 1
入学式の朝、私は人生で初めて「学校に行きたい」と思った。
正確には「推しキャラに会いに行きたい」だ。
邪神龍が推し活のためだけに学園に乗り込んでいる。我ながら最高だと思う。
アルカナ学園は、王都の丘の上に建っている。
石造りの塔が四本、空に向かってそびえていて、その間を渡り廊下でつないだ構造になっている。中庭には噴水があって、花壇には見たことのない色の花が咲いている。ゲームのオープニングムービーで何十回も見た風景が、今は体全体で受け取れた。石畳の感触、朝の空気の冷たさ、どこかから流れてくる水の音。
正門をくぐった瞬間、私の周囲で空気がざっと動いた。
「……あの子、誰?」
「黒髪……魔力の気配が……」
「目を合わせるなよ……」
邪神龍のオーラが漏れてるんだろうな。
隠してるつもりだけど、完全に隠しきれてないのは知ってた。
まあいい。目立っても困らない。
どうせここの連中とは三年間一緒にいるんだから、慣れてもらうしかない。
入学手続きを済ませて、担任の先生から「一年一組」と書かれた紙を受け取った。そこに記載されたクラスメイトの一覧に目を走らせて——私は声をあげそうになった。
情熱を秘めた王太子・フェリクス・アルバーン。
寡黙な剣士・ガウェイン・ロック。
天才魔術師・リュカ・テオーレ。
聖女(ゲームの主人公)・エルマ・セレス。
全員、同じクラスだ。
ゲームの設定通りだ。
でも、わかってても、実際に紙で見ると心臓に来る。
全員と同じクラス。三年間、毎日一緒にいられる。
これが推し活というものか。これが最高到達点か。
震える手で紙をしまった。邪神龍なのに手が震えている。我ながらどうかしている。
一年一組の教室は、西棟の二階にある。
扉を開けると、すでに何人かが着席していた。窓際の席、日の光が差し込む場所に、金色の髪が見えた。
私は止まった。
フェリクス・アルバーン。
ゲームで一番好きなキャラだ。攻略難易度が高くて、最初は高飛車で、でもルートを進めるごとに見せる顔が変わって、最終章で「お前だけは俺を退屈させないな」と言うシーンで私は三回泣いた。
今、そのフェリクスが教室の窓際に座って、外を見ている。朝の光が金色の髪に当たってきらきらしている。横顔が、ゲームのグラフィックより全然きれいだ。
……やばい。
生きている。
呼吸している。
まつ毛が長い。
実物の方が全然きれいじゃないか。どういうことだ。
落ち着け、澪。落ち着くんだ。お前は邪神龍だ。ラスボスだ。このクラスで一番強い存在だ。推しキャラの実物を見てひとりで舞い上がっているラスボスなど存在してはいけない。
深呼吸をして教室に入った。
席はそこそこ後ろになった。窓側の列の、ちょうど中間あたりだ。
ちなみに名前は「ヴォルグ・ナーシア」ではなく「宵崎澪」で登録されている。
荷物を置いて座ろうとしたとき、窓から差し込む光の加減で、私の席のすぐ前の椅子が、妙に存在感を持って見えた。
クラスの座席表をもう一度確認した。
私の前の席——リュカ・テオーレ。
後ろの席——ガウェイン・ロック。
前と後ろが攻略キャラ。
邪神龍の席の前後が攻略キャラ。
これ、シナリオが私に甘すぎないか。
感謝します、世界よ。
着席してしばらくすると、教室に人が増えてきた。
橙色の巻き毛の少女が扉から飛び込んできた。ゲームのヒロイン、エルマ・セレス。実物は目がくりっとしてて、ゲームより三割増しでかわいい。入ってきた瞬間に「あ、あの子が聖女……!」という空気が教室に流れたのを感じた。
聖女が入学してくることは周知されていたが、聖女の気配というのは、どうも周囲にわかるものらしい。
エルマちゃんだ。本物のエルマちゃんだ。
橙色の髪が動いてる。
彼女の笑顔。
ゲームでは無数に見た笑顔だけど、今は空気が揺れるように感じた。
エルマが辺りを見回して、空いた席を探していた。そして私の斜め前に立つと、ふと視線が合った。
エルマが、にこっと笑った。
「隣、いいですか?」
「どうぞ」
「ありがとうございます! 私、エルマといいます。エルマ・セレス。よろしくお願いします!」
「宵崎澪です。よろしくお願いします」
「ヨイザキ……、めずらしいお名前ですね!」
確かに、外国人っぽい名前に聞こえるのだろう。
実際、この世界の言語体系には「ヨイザキ」という音が存在しないはずだ。〈灰の牙〉の工作員が書類を用意するときも困惑しただろう。
そして、私はエルマちゃんと話している。
ゲームの主人公と、ラスボスが入学初日に普通を話している。
しかもエルマちゃんから話しかけてきた。
これは……ゲームの設定通りだ。エルマは誰にでも屈託なく話しかける性格だから。
わかってても、嬉しいものは嬉しい。
ホームルームが始まる直前、白髪の少年が教室に入ってきた。
リュカ・テオーレ——天才魔術師。私の前の席のはずだ。少年は教室を見渡して、静かな足取りで私の席の前に来ると、荷物を置いた。
座りながら、ちらりと後ろを振り返った。
銀色の瞳と目が合った。
……目が合った。
リュカくんの本物の目と、目が合った。
ゲームのスチルで何十回も見た色だ。銀色。光の角度で白にも青にも見える、あの色が今、私を見ている。
リュカが小さく会釈した。私も会釈を返した。
それだけのやりとりだったけど、リュカは前を向いた後、少し静止した。一拍おいてから、また後ろを振り返った。
「……あなた、何者ですか。魔力の気配が変わっています」
静かな声だった。周囲に聞こえないくらいの、低い声。
やっぱりリュカくんは気づくのが早い。
ゲームでも邪神龍の研究を続けていた人だから、異常な魔力には敏感なんだろう。
「そうですか? 緊張してるだけかもしれないですよ」
「緊張と魔力の乱れは別物です」
リュカはまっすぐ私を見た。
「あなたの魔力に乱れはない。ただ、深さが——普通じゃない」
「ふふっ、それはどうしてでしょうか? ご想像にお任せします」
「……」
リュカが少し間を置いた。
「研究してもいいですか」
「研究?」
「あなたという存在を。今まで感知したことのない魔力の質です。興味があります」
……ゲームでもこういうキャラだった。
探究心が全てに勝る天才少年。でも初対面でここまで真っ直ぐ言われると――
動揺するな、という方が無理だ。
「……どうぞ」と私は答えた。
「ただし、危ないことはしないでください」
「危ないことはしません」
リュカがまた前を向いた。
「ありがとうございます」
お礼を言われた。
研究対象にお礼を言う天才少年。
動揺をごまかすために窓の外を見た。空が青い。雲が流れている。邪神龍の感覚で受け取る空の青は、まだ慣れないくらい鮮やかだ。
◇ ◇ ◇
ホームルームが終わって少しすると、教室の温度が変わった。
正確には、ある種の「圧」が廊下の方から近づいてきた。人の注目を一身に集めるタイプの人間が発する、あの独特の空気の歪み。
扉が開いた。
フェリクス・アルバーン。
遅刻——ではなく、ホームルームには間に合っていた彼が、何らかの用事で席を外していたらしく、戻ってきたのだ。金髪が揺れる。長身が廊下の光を背負う。教室の全員の視線が集まるのが、空気でわかった。
フェリクスは教室を一瞥すると、自分の席に向かって歩き始めた。窓際の列。前から三番目の席。
——私の席の斜め前だ。
知ってた。
座席表で確認したから知ってた。
でも、実際にあの人が私の斜め前の席に向かって歩いてくるのを見ると、知識と現実は全然別物だということがよくわかる。
フェリクスが席につく直前、視線がこちらに動いた。
目が合った。
一秒。
二秒。
フェリクスの眉が、ごくわずかに動いた。
「……お前」
低い声で、言った。
「この教室で一番魔力の密度が高いのはなぜだ」
リュカくんに続いてフェリクスにも気づかれた。
このクラス、魔力に敏感な人が多すぎる。攻略キャラたちだから当然か。
でも、フェリクスに初対面でいきなり声をかけられた。
本物のフェリクスに。
ゲームでは主人公への最初の台詞は「なぜ平民がここにいる」だったはずだ。私の場合は「なぜ魔力が高い」になった。
「いろいろと特殊な事情があります」
「特殊な事情、とは」
「ご想像にお任せします」
さっきリュカに言ったのと同じ答えを返した。フェリクスが目を細めた。
「貴様、何者だ」
来た。この台詞だ。
ゲームの攻略本の一ページ目に載っていた台詞。フェリクスが初めて主人公に興味を持ったときに発する言葉。私はこのシーンのために何周この乙女ゲーをやってきたか。
「貴様、何者だ」
フェリクス・アルバーンが。
本物のフェリクスが。
私に向かって言っている。
……死ぬかもしれない。嬉しすぎて。
邪神龍なのに。
なんとか顔に出さないように深呼吸をして、私は答えた。
「宵崎澪です。よろしくお願いします」
「よろしく、だと?」
「挨拶です。この国にそういう文化はありませんか」
「……ある」
フェリクスが少し詰まった。
「あるが、お前のような者から言われるとは思っていなかった」
「どんな者だと思われましたか」
嬉しさでニチャつきそうなところを無理やり平静さを保とうとしているのが、逆に怪しまれているのかもしれない。
「少なくとも——」
フェリクスが私を見たまま、低く言った。
「俺に臆さない者だとは思っていた」
「臆してませんよ」
「そうだな」
王子様相手でも臆することはないよ。あなたのことは良く知ってるしね。
フェリクスが席についた。斜め前から、ちらりとこちらを見て、また前を向いた。
耳が、かすかに赤かった気がした。
……え。
初対面で、これ。
ゲームではもっと後半のイベントで見る反応が、入学初日に出た。
フラグが立つのが早い気がするんだけど、それはエルマちゃんに立つべきものなのでは?
違う方向に転がってないか、これ。
◇ ◇ ◇
一時限目は魔法理論の授業だった。
担当教師が黒板に魔法の基礎方程式を書き始めたとき、私はひとつの問題に気づいた。
この方程式、間違っている。
正確には「間違い」ではなく、「不完全」だ。この魔法の基礎方程式は二百年前に確立されたまま更新されていない。この方程式には変数が抜けていて、それが原因で魔法の効率が本来の六割程度に落ちている。
これ、指摘していいものか。
目立つのはいいとして、初日から授業の内容に口を出すのは……。
でも、放置しておくのも気持ち悪い。
しかも、これはゲームでリュカのルートに進むためのフラグイベントのひとつだ。リュカが独自研究でこの不完全性を発見して、学会に論文を出して認められるシーン。あのシーン、好きだったな。
でも、先に私が言ったらリュカの見せ場が潰れる。
これはまだ先のイベント。
あえてゲームの進行をぶっ壊すのもおもしろそうではあるけど、ここは黙っておこう。
そう、黙っておこうと決めたのに――
リュカが静かに手を挙げた。
「先生、その方程式に変数の欠落があります」
教室がざわめいた。担当教師が「……え?」という顔をした。
リュカが淡々と続けた。
「魔力の減衰率を表すβ係数が抜けています。これを補完すると式はこうなります」
さらさらと黒板に式を書き足した。
私は前の席のリュカの背中を見ながら、静かに微笑んだ。
そうだよ、リュカくん。
そういうキャラだよ。
このイベント、まだ先とかどうでもいい。
よかった。生で見れてよかった。
教師が固まっている間、クラスがざわついていた。
「すごい」
「天才だ!」
「あの式が正しいのなら二百年間誰も気づかなかったやつじゃないか」
しかし、このイベントが初日で起きてしまっている。
本来いないはずの私が存在している影響なんだろうか……。
まあ、ゲームと違う進行をしてくれたほうが楽しめそうだから、良し!
◇ ◇ ◇
授業が終わったとき、リュカが後ろを振り返った。
「……気づいていましたか」
「なんのことですか」
「あなたの顔が、私が発言する前から少し笑っていた」
バレた。
この人、観察眼が鋭すぎる。私、後ろの席なのに……。
「リュカさんが正しいことを言うだろうと思っていただけです」
「なぜ私が正しいことを言うと?」
「なんとなく、そういう人だと感じたので」
リュカが少し間を置いた。
「……あなたは不思議な人だ」
「よく言われます」
「言われ慣れているんですか」
「今日から言われ始めました」
リュカが小さく息を吐いた。笑い声だったと思う。




