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第九話:お菓子作りは戦場作り

 冒険者ギルドの重たい扉を背中で押し閉めると、先ほどまでの喧騒が嘘みたいに遠ざかっていく。ひんやりとした外の空気が、なんだか火照った頬に心地よかった。


「ふう……」


 思わず、小さく息が漏れた。

 私の隣で、シュシュが「わふん!」と頼もしく一声鳴く。その琥珀色の瞳は『大丈夫、僕がついている!』と、そう言っているみたいだった。


「ええ、ありがとう、シュシュ。あなたがいれば百人力よ」


 そのもふもふの頭を優しくこすると、彼は気持ちよさそうに目を細めた。


 ギルドから受けた初めての依頼は『薬草採取』。


 場所は、フローリアの町から歩いて半刻ほどの距離にある森の中。

 ギルドマスターの鋭い目は、明らかに私を試していた。


 あの視線は、忘れない。


 そして、私をただの世間知らずのお嬢様だと思っている、あのギルドの誰もかもに、見せてあげなくては。

 私が、私の力で、自分の道を切り拓いていける存在なのだということを。


「さあ、行きましょうか」


 これは、私の夢に続く、大事な一歩目なのだから。



 森の中は、ひんやりと湿った空気に満ちていた。


 ふかふかの腐葉土が、足音を優しく吸い込んでくれる。

 木々の葉が重なり合った天井からは、木漏れ日がきらきらと光の粉みたいに降り注いでいた。

 土と、苔と、名も知らない花の匂い。

 ここは、私の家の近くにある森よりも、もっと深くて、濃い生命の気配がする。


 依頼書によれば、目的の薬草『月光草』は、湿った岩場の近くに生えていることが多いらしい。

 葉の裏が銀色に光るのが特徴だとか。


「シュシュ、お願いできるかしら。あなたの、そのお鼻が頼りです」


「わふん!」


 シュシュは、そう一声鳴くと、鼻を鳴らしながら、周囲の地面を嗅ぎ始めていた。

 私は、その小さな探検家の後を、周囲への警戒を怠らずにてくてくとついていく。


 貴族の令嬢だった頃、こんな風に一人で森の奥深くを歩くなんて、想像すらしたことがなかった。

 侍女も、護衛もいない。頼れるのは、自分の魔法と、この小さな相棒だけ。


 でも、心細さは感じなかった。


 全てが、自分の足で歩き、自分の目で見て、自分の手で掴み取る、新しい世界なのだ。


 しばらく森の奥へと進んでいくと、不意に、先を歩いていたシュシュがぴたりと足を止めた。

 そして、何か特定の匂いを捉えたかのように、鼻をひくひくとさせながら、一点をじっと見つめている。


「どうしたの、シュシュ? 薬草を見つけたの?」


 けれど、シュシュの反応は、いつもと少し違っていた。嬉しそうに尻尾を振るのではなく、喉の奥で、低く、ぐるる……と唸り声を上げている。全身の銀色の毛が、かすかに逆立っていた。

 これは、警戒の合図。

 私がそう思った、まさにその瞬間だった。


「……ぎぎっ」


 甲高い鳴き声が、進行方向の少し先にある、鬱蒼とした茂みの奥から聞こえてきた。

 それは、鳥の声じゃない。獣の声とも違う。


 ぞわり、と。


 背中のあたりが、粟立つような、嫌な感じがした。

 一つじゃない。いくつもの鳴き声が、重なり合って聞こえる。

 そして、獣が放つ独特の、むわりとした臭気。血と、泥と、得体の知れない何かが腐ったような、不快な匂いが、風に乗って鼻先をかすめた。


 がさがさがさっ、と。


 茂みが、大きく揺れた。

 そして、その中から、緑色の小さな影が、次から次へと、わらわらと飛び出してくる。


 ゴブリンだ。


 ギルドで聞いた、この森に生息するという、知能の低い人型の魔物。


 背丈が子供くらいの、痩せた体。

 汚れた腰布を一枚まとっただけの醜い緑色の肌。

 手には、粗末な棍棒や、石の斧を握りしめている。

 その濁った小さな目が、獲物を見つけた肉食獣みたいに、ぎらぎらとした光を放って、まっすぐに私を捉えていた。


 一匹、二匹、三匹……。


 茂みから現れる影は、一向に途切れる気配がない。


 五、六……いや、十匹は軽く超えている。


 おそらく、十五匹近い大群だ。


 ぎゃあぎゃあと耳障りな奇声を上げながら、ゴブリンたちは、じりじりと、私を取り囲むように、包囲の輪を縮めてくる。

 完全に狙われている。


 か弱そうな女一人と、ペットが一匹。


 彼らの目には、格好の獲物として映っているに違いない。


 まずい。


 数が、多すぎる。


 シュシュは強いけれど、一度にこれだけの数を相手にするのは、さすがに分が悪いだろう。

 どうしよう。

 私の魔法は、直接的な攻撃には向いていない。炎の矢を放ったり、氷の刃を生み出したりすることはできないのだ。

 私ができるのは、土や石を操ることだけ。

 このままでは……。


 いや。落ち着きなさい、私。


 私の頭の中に、ふと、前世の記憶がよみがえった。


 厨房とは戦場だ。

 特に、クリスマスやバレンタインの繁忙期は、まさに地獄絵図。

 限られたスペースで、大勢のパティシエが、それぞれ違う作業を、効率よく進めていかなくてはならない。


 大事なのは、個々の力じゃない。全体の『流れ』を、どうやってコントロールするかだ。

 今のこの状況は、まるで、ボウルの中に一度にたくさんの材料を放り込んで、めちゃくちゃにかき混ぜてしまった、分離しかけのバタークリームみたいに思えた。

 それぞれの材料が、好き勝手に動いて、まとまりがなくなってしまっている。


 だったら、私がやるべきことは、一つだ。


 このごちゃごちゃになった戦場を、きれいに『整頓』してあげればいいんだ。

 パティシエは、いつだって、求められた作品を作るために、仕事場を自分で作り出すのだから。


「シュシュ」


 私は、足元でいつでも飛び出せるように低い姿勢で構えている、小さな相棒に静かに声をかけた。


「もう少しだけ、待っていてちょうだい。活躍の場をすぐに用意してあげるから」


「……ぐるる」


 シュシュが、分かった、とでも言うように短く喉を鳴らした。

 私は、すう、と深く息を吸い込む。

 そして、両方の手のひらを、ふわりと地面に向けた。


 集中する。


 私のマナを大地へと流し込んでいく。

 イメージするのは、新しい厨房の設計図。


 まず、作業スペースの確保。

 完全に囲まれるのだけは、避けなくては。


「―――第一工程、仕込み」


 ぽつりと、誰にも聞こえないくらいの声で、呟く。


 その瞬間。


 私のすぐ背後で、ごごごごご、と地響きが鳴った。

 地面が、生き物みたいにもりもりとせり上がり、木の根や石を巻き込みながら、一瞬で、私の背丈よりも高い、半円状の壁を作り上げた。


 これで、背後から襲われる心配はない。


 とりあえず、私の作業場は確保された。


「ぎっ!?」


 突然出現した壁に、ゴブリンたちの動きが、一瞬だけ、ぴたりと止まる。

 その隙を私は見逃さない。


 次の工程に移る。


 今度は、押し寄せてくる敵の勢いを削いで、混乱させる。


「―――第二工程、下準備」


 私の意思に応えて、大地が再び、静かに、しかし、確実にその姿を変え始めた。

 一番前で、棍棒を振りかざして突進してこようとしていたゴブリンたちの足元の地面が、何の前触れもなく、ずぶずぶと、底なしの沼地へと変わっていく。


「ぎぎゃっ!?」


 突然、足を取られたゴブリンたちが、間の抜けた悲鳴を上げて、もがき始めた。

 動けば動くほど、体が沈んでいく。あっという間に、数匹が腰まで泥に浸かって、身動きが取れなくなってしまった。


 それだけじゃない。


 沼地を避けようとした別のゴブリンたちの進路上に、今度は地面から、まるで巨大な獣の牙みたいな鋭く尖った岩の槍が、何本も突き出してきた。

 それは、殺傷を目的としたものではない。

 あくまで、彼らの足止めと、進路を限定するための障害物だ。


「ぎゃう!?」

「ぎいっ!?」


 行く手を阻まれ、仲間が泥に沈んでいく光景を目の当たりにして、ゴブリンたちの間に、明らかな混乱が広がっていく。

 統率の取れていなかった彼らの動きは、完全に無秩序になった。


 よし、いい感じ。


 これで作業台の上は、かなりすっきりした。

 最後に敵を、私が望む場所へと誘導する。


「―――第三工程、成形」


 ごごごごごご……っ!


 再び、激しい地響きが森を揺るがす。

 今度は、ゴブリンたちの左右の地面が、巨大な生き物が顎を閉じるみたいに、決して抗うことのできない力で、せり上がってきた。

 二つの巨大な土の壁が、沼地と岩の槍を避けて右往左往するゴブリンたちを、まるで羊の群れを柵に追い込むように、中央の一本道へと、ぐいぐいと押しやっていく。

 気がつけば、あれほど広がっていたゴブリンの群れは、私が作り出した、幅数メートルほどの狭い一本の道の上に、ぎゅうぎゅう詰めの状態で押し込められていた。


 前には進めず、後ろにも下がれず、左右は高い壁に阻まれている。


 もう完全に袋のネズミだ。


 これで、私の仕事場の準備は、全て整った。

 私は、最後の仕上げに取り掛かった。


「―――最終工程、飾り付け」


 私の合図は、それだけだった。


「わふん!」


 その言葉を待っていたとばかりに、私の足元から、銀色の閃光がほとばしった。


 シュシュだ。


 彼は風になった。

 私が作った、たった一本の道。

 その入り口から、弾丸のように緑色の密集した群れの中へと、その身を躍らせた。


 ぎゃん、と。


 悲鳴を上げる暇すら与えない。


 銀色の疾風が、緑色の群れの中を、ただまっすぐに、駆け抜けていく。

 その軌跡に沿って、ゴブリンたちが、まるでボーリングのピンみたいに、次々と、派手な音を立てて弾け飛んでいった。


 鋭い牙が、喉笛を的確に噛み砕く。

 しなやかな前足から繰り出される爪が、緑の肌を紙のように引き裂く。

 鋼鉄の鞭みたいにしなる尻尾の一撃が、頭蓋骨を容易く粉砕する。


 それは、戦闘と呼ぶには、あまりにも一方的すぎた。

 もはや、蹂躙、という言葉しか当てはまらない。


 そして。


 最初にゴブリンが現れてから、おそらく、一分も経っていなかっただろう。

 あれほどいたゴブリンの群れは、全て、静かな骸となって、私が作った一本道の上に、折り重なるようにして転がっていた。


 しん、と。


 森には、静寂が戻っていた。

 聞こえるのは、風が木々の葉を揺らす、ざわざわという音だけ。


「……終わりました」


 私がそう言うと、シュシュは、何事もなかったかのように、私の足元へととてとてと戻ってきた。

 そして、尻尾をぱたぱたと振りながら、私の顔を見上げてくる。

 その姿は、さっきまでの、聖獣の威厳に満ちた姿とは似ても似つかない、いつもの愛らしい姿だった。


「ありがとう、シュシュ。お見事でした」


 私がその頭をわしゃわしゃと撫でてやると、彼は嬉しそうに目を細めた。

 私は、自分の作り上げた、異様な光景を見渡す。

 そびえ立つ土の壁、身動きの取れないゴブリンが沈む沼、そして、骸が転がる一本道。


 これが私の魔法。


 地味で、役に立たないと、誰もが見下していた、土魔法の力。

 使い方次第で、戦場そのものを、自分の意のままに作り変えることさえできるのだ。



「さあ、邪魔者はいなくなりましたし、本来の目的を果たしましょうか」


 私は、ぱん、とスカートの土を払って立ち上がると、何事もなかったかのように、にっこりと微笑んだ。

 まずは、この物々しい状態を片付けなくては。

 私が、心の中で『元に戻りなさい』と念じると、あれほど頑丈そうに見えた土の壁や、岩の槍が、まるで砂の城が崩れるみたいに、さらさらと、静かに元の地面へと還っていった。

 沼地も、ゆっくりと水分を失い、ただの湿った土へと戻る。


 あっという間に、森は、元の静かな姿を取り戻した。


 ただ、ゴブリンたちの骸だけが、先ほどの出来事が夢ではなかったことを、静かに物語っていた。


 私は、シュシュと一緒に薬草探しを再開する。

 目的の『月光草』は、シュシュの優れた嗅覚のおかげで、すぐに見つかった。

 沢の近くの、苔むした大きな岩の影。

 そこに、依頼書にあった通りの、葉の裏が月の光のように淡く輝く植物が、ひっそりと群生していた。


「これですね」


 最高の素材を、最適の状態で収穫する。

 それは、お菓子作りも、薬草採りも、きっと同じはずだ。

 私は、月光草の群生の前にしゃがみ込むと、再び、そっと地面に手を触れた。

 今度は、先ほどのような、大規模で力強い魔法じゃない。


 繊細で、優しい魔法。


 ケーキの表面に、粉砂糖をそっと振りかけるような、そんなイメージで。


 私がマナを流し込むと、月光草の周りの土がふわりと柔らかく盛り上がった。

 植物が、一番心地よいと感じるくらいの優しい力で。

 土が、まるでベッドのシーツをめくるみたいに、そっと自らを開いていく。

 そして、その中から月光草が、一本の細い根も傷つくことなく、丸ごと地上に現れたのだ。


「……よし、と」


 私は、土のベッドから優しく月光草を摘み上げる。

 そして、持参した袋へと丁寧にしまっていく。

 依頼で必要とされているのは、十本。

 きっかり十本を収穫し終えると、私は、残りの月光草と掘り返してしまった地面に、もう一度、手を触れた。


「元通りになりなさい」


 優しく命じると、掘り返された土は、何事もなかったかのように、すうっと元の場所へと戻っていく。

 これで森の環境を荒らすこともない。

 採取した痕跡すら、どこにも残っていなかった。


「さあ、依頼は完了です。ギルドに戻りましょうか」


 私は、収穫された薬草が入った袋を、大切に抱えてから歩き出した。



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