第八話:冒険者ギルド
交易所を飛び出した途端、隣の建物から叩きつけられたのは、むわりとした熱気だった。
冒険者ギルドだ。
屈強な男たちの怒声や笑い声、酒場で陽気に歌われる歌、そして、汗と土と、お酒の匂い。
そのむせ返るような活気の中心へ、これから私は足を踏み入れるのだ。
ここしかない。
私の夢を叶えるための道は、この扉の向こうにしかないのだから。
その巨大な木の扉の前に立った私は、一度、ごくりと唾を飲み込んだ。
扉の隙間から、むわりとした熱気と、様々な匂いが漏れ出してくる。お酒と、汗と、鉄と、土埃の匂い。それらが一つになった、男たちの仕事場の匂い。
正直、私みたいな人間が、足を踏み入れていい場所じゃないことくらい、分かっている。
でも、もう後戻りはできない。
私は、意を決して、重い扉をぎい、と音を立てて押し開けた。
一歩、中に足を踏み入れた瞬間。
それまで建物全体を揺るがしていた、がやがやとした騒音が、ぴたり、と嘘のように静まり返った。
まるで、スープの鍋に冷たい水を一滴垂らしたみたいに。
全ての視線が、入り口に立つ私に、突き刺さるように集まってくるのが分かった。
無理もない。
ここは、屈強な冒険者たちが集う場所。
傷だらけの革鎧や、すすけたローブが当たり前の世界。
そんな世界へ、小奇麗なドレスを着た女が、もふもふの美しい獣を連れて現れたのだから。
場違いな組み合わせ。
好奇、嘲笑、侮り、そして、ほんの少しの警戒。
色々な感情を含んだ視線が、ちくちくと肌を刺す。
普通の令嬢なら、その空気に耐えきれず、泣き出して逃げ帰ってしまってもおかしくないだろう。
でも、私の心は、不思議なくらい、凪いでいた。
だって、私はもう、誰かの評価を気にして生きる令嬢じゃない。
一人のパティシエなのだから。
私は、背筋をしゃんと伸ばし、周囲の視線を気にも留めず、まっすぐにカウンターへと向かって歩き出した。
私の隣を歩くシュシュは、周囲の男たちに向けて、喉の奥で低く、ぐるる……と唸り声を上げている。
私を守ろうとしてくれているのだ。
「大丈夫よ、シュシュ」
私が小声で囁きかけると、彼はしぶしぶといった様子で唸り声を収めた。
カウンターの向こう側で、一人の受付嬢さんが、あんぐりと口を開けてこちらを見ていた。
「あ、あの……なにか、ご用件でしょうか……?ご依頼でしたら、あちらの窓口へ……」
彼女は、私がギルドに新たな依頼を要請しにきた、どこかのお嬢様だとでも思ったのだろう。
「いいえ、違います」
私は、カウンターの前でぴたりと足を止めると、彼女に向かって、にっこりと微笑みかけた。
「冒険者登録を、お願いしたいのです」
私のその一言で、完全に静まり返っていたギルドの空気が、再び、爆発した。
「ぶはっ! なんだって!?」
「冒険者登録だあ?おいおい、聞き間違いじゃねえのか!」
「お嬢ちゃん、ここは遊び場じゃねえんだぜ!お貴族様のおままごとは、お屋敷でやってな!」
げらげらという、品のない笑い声が、あちこちから上がる。
受付のお姉さんも、ぽかんとしたまま、固まってしまっていた。
「あ、あの……本気で、おっしゃって……?」
「ええ、本気です」
私は、少しも表情を崩さずに、こくりと頷いてみせる。
私のその態度が、逆に周りの冒険者たちの神経を逆なでしたらしい。
一番近くのテーブルに座っていた、熊みたいに大柄な男が、椅子をがたんと鳴らして立ち上がった。
「おい、嬢ちゃん。ここはな、お前みたいなひ弱なのが来るところじゃねえんだ。怪我でもしたら、お父様に泣きつくのか? 悪いことは言わねえ、さっさと帰りな」
男の言葉に、周りの者たちが、どっと笑う。
「そうだそうだ!」
「こいつが持ってる剣より、お前さんの髪の方が綺麗だぜ!」
完全に、からかいの対象にされてしまっている。
でも、私の心は、少しも揺らがなかった。
私は、その熊みたいな男の方をゆっくりと振り返ると、静かな声で言った。
「ご忠告、感謝いたします。ですが、私には、どうしてもここでなくてはならない理由があるのです」
「理由だあ? なんだそりゃ、聞かせてもらおうじゃねえか」
「それは……」
私が答えようとした、その時だった。
「―――そこまでにしろ、お前たち」
凛とした、よく通る声が、騒がしい酒場に響き渡った。
声のした方を見ると、カウンターの奥の扉から、一人の男性が姿を現したところだった。
年は四十代くらいだろうか。
冒険者のような派手な鎧は着ていないけれど、その体つきは、そこらの戦士よりもよほど鍛え上げられているのが一目で分かる。短く刈り込んだ髪に、鋭い眼光。顔には、古い傷跡が何本も走っている。
彼が姿を現した途端、さっきまで私をからかっていた冒険者たちが、さっと青ざめて、蜘蛛の子を散らすように自分の席へと戻っていった。
どうやら、このギルドの、かなり偉い人らしい。
「ギルドマスター……!」
受付のお姉さんが、ほっとしたような声を上げる。
ギルドマスターと呼ばれた男性は、私の方へゆっくりと歩み寄ってくると、値踏みをするような目で、私と、私の足元にいるシュシュを、上から下までじろりと見た。
その視線は、他の冒険者たちのものとは、明らかに種類が違っていた。
侮りや嘲笑じゃない。
純粋に、相手の意図を探るような視線。
「お嬢さん。あんたが、冒険者になりたいって言ってるのか」
「はい。その通りです」
私は、彼の鋭い視線をまっすぐに受け止めて、はっきりと答えた。
彼は、ふむ、と顎に手をやって、しばらく何かを考えていた。
そして、彼の視線が、私の隣に控えるシュシュへと注がれる。
「……その獣。ただのペットでは、ないようだな」
その言葉に、私は少しだけ驚いた。
この人は、シュシュがただの犬や狼ではないことを見抜いている。
「この子は、シュシュ。私の、大事な家族です」
私がそう答えると、シュシュは、まるで自己紹介でもするかのように、ギルドマスターに向かって「わふん」と一声、誇らしげに鳴いてみせた。
ギルドマスターの口元に、ほんのわずかだけ、笑みの形が浮かんだように見えた。
「そうか。……いいだろう。登録を認める」
「えっ!?」
意外な言葉に、声を上げたのは、私ではなく、カウンターの受付嬢さんだった。
「ギ、ギルドマスター! よろしいのですか!?こんな、こんなに簡単に……!」
「構わん」
ギルドマスターは、彼女の言葉を手で制した。
「このギルドは、実力さえあれば、出自も身分も問わん。それが、ここの唯一のルールだ。……ただし」
彼は、再び、その鋭い目で私をまっすぐに射抜いた。
「口先だけでは、信じるわけにはいかん。あんたの実力を、ここで見せてもらう必要がある」
「実力を……ですか?」
「そうだ。いわば、お試しだ」
彼は、カウンターの横に立てかけてあった、依頼が書かれた木の札が並ぶボードへと歩いていくと、その中から札を一枚、ひょいと抜き取った。
「これだ。この依頼を、受けてもらう」
彼は、その札を私に差し出した。
受け取って、内容を確認する。
『依頼内容:ギルド指定の薬草採取』
『依頼場所:フローリア近郊の森』
『難易度:最下級』
『報酬:銅貨三十枚』
薬草の採取依頼。
確かに、これなら戦闘経験のない新人でも、できなくはないのだろう。
私を侮って、わざと簡単な依頼を選んだのか。
それとも、純粋に、私の実力を確かめようとしているのか。
どちらにせよ、私に断るという選択肢はなかった。
これは、私が私自身の力で、未来を掴むための試練なのだから。
「……分かりました」
私は、依頼の札をぎゅっと握りしめた。
「その依頼、お受けいたします」
私の返事を聞いて、周りを取り囲んでいた冒険者たちが、また、ひそひそと囁き始めたのが聞こえる。
「おいおい、本当にやる気かよ」
「森にはゴブリンだって出るんだぜ。薬草採りも、楽な仕事じゃねえ」
「どうせ、途中で泣き出して逃げ帰ってくるに決まってるさ」
そんな、侮りの声が、私の背中に投げかけられる。
でも、私はもう、そんな言葉に心を乱したりはしない。
私は、ギルドマスターに向かって、淑女の礼法に則った、最も美しいお辞儀をしてみせた。
そして、顔を上げて、にっこりと、花が咲くような笑顔を浮かべてみせる。
「それでは、早速、行ってまいります」
呆然とするギルドマスターと、からかいの言葉も忘れてぽかんとしている冒険者たちを背中に、私はシュシュを伴って、きびすを返した。
見ていなさい。
私がただの、か弱いお嬢様じゃないってこと、すぐに証明してみせる。
私の本当の武器は、貴族の令嬢たちが使うような、華やかで攻撃的な魔法じゃない。
でも、この『土』の魔法と、私の知識があれば、どんな困難だって、乗り越えられるはずだ。
だって、美味しいお菓子を作るためには、最高の材料が、絶対に必要なのだから。