第七話:絶望的な価格と本当の夢
広場の一角でパイを売り始めてから、数日が過ぎた。
「嬢ちゃん! 今日も来たぜ!」
「今日はまだ残ってるか? 昨日、目の前で売り切れちまって、涙で枕を濡らしたんだ!」
「俺にも一つくれ! これを食わねえと、一日が始まらねえ!」
開店準備のために木の箱を地面に置いた途端、どこからともなく現れた屈強な冒険者さんたちが、あっという間に私を取り囲んでしまう。
その光景は、もうすっかりお馴染みになっていた。
みんな、顔なじみのお客さんだ。最初にパイを買ってくれた、熊さんみたいな赤毛の人。狐みたいに目がシャープな人。
他にも、私のパイを気に入って、毎日通ってくれる人たちがたくさんいた。
「はい、どうぞ。いつもありがとうございます」
私は一つ一つ、丁寧にパイを手渡していく。
そのたびに、足元の袋にちゃりん、ちゃりんと銅貨が投げ込まれていく。
ずしりとした、心地よい重さ。自分の力で稼いだお金だと思うと、一枚一枚の銅貨が、まるで金貨みたいにきらきらして見えた。
「くぅん」
私の足元で、シュシュが誇らしげに胸を張っている。
じつは彼が、私の優秀な営業部長さんなのだ。もふもふで愛らしい姿は、いかつい冒険者さんたちの心を癒す、最高の看板息子だった。
「うめえ……やっぱり、嬢ちゃんのパイは最高だぜ」
「ああ、こいつを食うと、腹の底から力が湧いてくるようだ。不思議なパイだよな」
冒険者さんたちは、その場でパイを頬張りながら、満足そうにため息をついている。その顔を見ていると、私の胸の中も、オーブンで温められたバターみたいに、じんわりと温かくなっていく。
嬉しい。
私の作ったお菓子で、こんなにたくさんの人が笑顔になってくれる。
パティシエとして、これ以上の喜びはない。
一日三十個限定の『森の恵みのパイ』は、
毎日、お昼を過ぎる頃にはすっかり売り切れてしまう。
稼いだお金で、塩やランプの油、それから石鹸や丈夫な布といった生活必需品を買いそろえる。
シュシュには、お肉屋さんで一番良いお肉を少しだけ。残ったお金は、なにかあった時のために、大切に袋にしまっておく。
穏やかで、満ち足りた毎日。
追放された令嬢の暮らしとしては、きっと、これ以上ないくらい幸せなものなのだろう。
でも、私の心の中には、日に日に、小さな、でも、無視できないもやもやがジワジワと広がっていた。
◇
その日の商売を終え、シュシュと一緒に宿屋へ戻る道すがら。私は、ふと足を止めた。
道の向こうから、甘い匂いが漂ってくる。
パン屋さんの店先から、焼きたてのパンがずらりと並べられているのが見えた。
素朴な、丸いパン。きっと、美味しいのだろう。
でも、私の心は少しもときめかなかった。
私の知っているパンは、こんなんじゃない。
表面はぱりっとしていて、中はふわふわの、雲みたいに軽いブリオッシュ。
バターの香りがたまらない、何層にも重なったさくさくのクロワッサン。
ああ、作りたい。
パイだけじゃない。クッキーも、タルトも、マドレーヌも。
それから、スポンジケーキ。
真っ白な生クリームと、真っ赤なイチゴで飾った、お菓子の王様。
食べた人みんなが、その一瞬だけ、悲しいことなんて全部忘れてしまうような、そんなケーキ。
私の頭の中には、前世で培った、星の数ほどのレシピが詰まっている。
最高の厨房も、最高の道具も、もう私の手の中にある。
なのに。
今の私に作れるのは、森で採れた木の実と樹液を使った、素朴なパイだけ。
「……材料が、足りないわ」
ぽつりと、思わず声が漏れた。
今のパイだって、もちろん美味しい。
愛情を込めて作っているし、買ってくれる人たちも、心から喜んでくれている。
でも、これだけが、私の理想とするお菓子じゃない。
もっと理想のお菓子を作るには、絶対に欠かせないものがある。
きめが細かくて、真っ白な小麦粉。
雑味がなくて、甘さをまっすぐに伝えてくれる、精製されたお砂糖。
新鮮な卵と、香り高いバター。
それらがなければ、私のお菓子作りは、始まらないのだ。
「くぅん……?」
シュシュが、私のスカートの裾をくい、と引っ張った。
その琥珀色の瞳が、どうしたの、と心配そうに私を見上げている。
「ごめんなさい、シュシュ。なんでもないのよ」
私はしゃがみこんで、シュシュの頭を優しく掻いてやった。
なんでもなくない。
でもこれは、私にとって、一番大事な問題だ。
「……本格的に、商売を始めなくちゃ」
日銭を稼いで、その日暮らしをするだけじゃだめだ。
もっとたくさんのお金を稼いで、ちゃんとした材料を仕入れて、私の作りたいお菓子を、自由に作れるようにならなくちゃ。
そのためには、まず、状況を知ることから。
この世界で、お菓子作りに必要な材料が、一体どれくらいの価値を持つものなのか。
それを、自分の目で確かめる必要があった。
「シュシュ、行きましょう。少し、寄り道よ」
私は立ち上がると、町の中心に向かって、きっぱりと歩き出した。
目指す場所は、一つだ。
このフローリアで、ありとあらゆる物資と情報が集まる場所。
『交易所』だ。
◇
私が目指す『交易所』は、町の中心にどっしりと構える冒険者ギルドのすぐ隣にあった。
隣にあるギルドからの熱気を肌で感じながら、私はその隅にある上品な作りの扉へと向かった。
私がその上品な扉に手をかけようとすると、シュシュは私の背後にさっと隠れて、中の様子を伺い始めていた。
そんな警戒心丸出しの彼に、私は、その背中をぽんぽんと叩いた。
「くぅん」
毒気を抜かれたかのような雰囲気で、シュシュはこちらを見てきた。
「さあ、行きましょう」
私はゆっくりと扉を開けた。
一歩、足を踏み入れた瞬間、空気ががらりと変わった。
外の喧騒が、すっと遠くなる。
そこは、静かで、どこか張り詰めたような空気が漂う場所だった。
革鎧の冒険者さんたちの代わりに、上等な布の服を着た商人らしき人たちが、真剣な顔つきでカウンターの向こうに立つ職員と話をしている。
床はきれいに掃き清められていて、空気中には、お酒の匂いの代わりに、羊皮紙とインク、それから、遠い異国のものらしい、不思議な香辛料の匂いが、かすかに漂っている。
「すごい……」
私は、思わず小さな声を漏らした。
ここが、このフローリアの経済的な中心地。
壁際には、大きな木の板がいくつも掲げられていて、そこには、様々な品物の名前と値段が、ぎっしりと書き込まれていた。
あれが、きっと、現在の取引価格なのだろう。
私は、シュシュを促して、そっと壁際のボードへと近づいていった。
ボードに書かれている文字は、私でも読めるように、丁寧な字体で書かれている。
『岩塩(一袋)……銅貨三枚』
『ランプ油(一瓶)……銅貨五枚』
『治癒薬(下級)……銀貨一枚』
ふむふむ、と頷く。
だいたい、私が宿屋の主人から買っている値段と同じくらいだ。これなら、良心的な価格で売ってもらっていたみたい。
私は、ボードの上から下へと、ゆっくりと視線を動かしていく。
そして、ある一点で、私の目は釘付けになった。
『南部産 精製砂糖(一袋)……金貨二十枚』
……え?
きんか、にじゅうまい?
私は、自分の目がおかしくなったのかと思った。
もう一度、目をぱちぱちさせて、その文字を見つめる。
何度見ても、そこにははっきりと、『金貨二十枚』と書かれていた。
金貨一枚が、銀貨十枚。銀貨一枚が、銅貨百枚。
つまり、銅貨に換算すると……に、二万枚?
私のパイが、一つ銅貨五枚。
この、手のひらに乗るくらいの、小さな砂糖の袋一つを買うために、私のパイを、四千個も売らなくてはならない計算になる。
頭が、くらくらした。
なにかの間違いだ。きっと、そうだ。
私は、次の項目へと視線をずらした。
『王都直送 最高級薄力粉(一袋)……金貨十八枚』
ああ、もう、だめだ。
私の目の前が、真っ暗になった。
まるで、砂糖の甘さも、小麦粉の香りも、全部吸い取られてしまったみたいに。世界が遠ざかっていくかのように感じた。
なんてこと。
どうして、今まで、こんな簡単なことに気がつかなかったんだろう。
公爵令嬢だった頃。
もし、私が厨房でお菓子を作りたいと言えば、料理長は、いつでも好きなだけ、真っ白な砂糖や、絹のようにきめ細かい小麦粉を用意してくれた。
それらが、どれほどの価値を持つものなのか、私は一度も考えたことがなかった。
当たり前のように、そこにあるものだと思っていた。
なんて、世間知らずだったんだろう。
今になって、激しい後悔が、苦い薬みたいに胸の中に広がっていく。
もっと、学んでおくべきだった。
淑女教育なんかよりも、ずっと大事な、この世界で生きていくための知識を。
金と、ほとんど変わらない価値。
これが、この世界における、お菓子の材料、その本当の姿だったのだ。
これでは、気軽に、誰もが食べられるお菓子なんて、夢のまた夢じゃないか。
私の理想は、こんなにも、現実からかけ離れていたなんて。
自由になったと思っていた。
これで、好きなだけお菓子が作れるんだって、本気で、そう信じていた。
でも、違った。
結局、お金がなければ、私は、私が本当に作りたいお菓子を、一つだって作ることはできないのだ。
悔しくて、情けなくて、目の奥がつんとする。
ぽろりと、涙がこぼれ落ちそうになるのを、ぐっと奥歯を噛みしめて、こらえた。
「くぅん……」
シュシュが、私の足に、こつん、と頭をすり寄せてきた。
その温かさに、はっと我に返る。
そうだ。
私には、シュシュがいる。
泣いている場合じゃない。
ここで、立ち止まっているわけにはいかない。
壁は高い。
とっても高くて、今の私の力では、指一本かけることすらできそうにない、絶望的な壁。
でも。
私は、とても諦めが悪い生き物なのだ。
理想の味のためなら、どんな困難だって、乗り越えてみせる。
材料の配合を、一グラム単位で変えたり。
オーブンの温度を、一度ずつ調整したり。
夜を徹して、何百回だって、試作を繰り返す。
それに比べれば、なんだというのだろう。
お金がないなら、稼げばいい。
ただ、それだけのことじゃないか。
私の心の中に、真っ赤な炎が、ごう、と音を立てて燃え上がった。
それはオーブンの種火みたいに、小さくて、でも、決して消えない熱い炎。
「……お店を開くわ」
ぽつりと、私の口から言葉がこぼれ落ちた。
「くぅん?」
「そうよ、シュシュ。広場の隅で、パイを売るだけじゃだめ。ちゃんとした、私のお店を持つの。毎日、たくさんの人が来てくれるような、町一番のパティスリーを。そのためには、もっとたくさんのお金が必要になるわ。今のままじゃ、何年かかるか分からない」
広場でのパイ売りは、日々の生活費を稼ぐのには十分だ。でも、お店を開くための莫大な資金と、将来の店舗となる物件を手に入れるには、あまりにも時間がかかりすぎる。
もっと、効率よく、大きなお金を稼ぐ方法。
この、冒険者の町フローリアで、それができる場所は、もう一つしかない。
「シュシュ、行きましょう」
私はシュシュの頭をぽん、と軽く叩くと、くるりときびすを返した。
目指す場所は、たった一つ。
冒険者ギルドだ。