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第六話:はじまりの街と広場のパイ

 食事が終わり、使い終えたお皿を丁寧に洗い終えた、その夜のこと。

 私とシュシュは、二人そろって、とても、とても、深刻な問題に直面していた。


 きっかけは、暖炉の前に座り、揺れる炎を眺めながら、私がぽつりと漏らした一言だった。


「……塩味のクッキーも、美味しいのよねえ」


 甘いパイを堪能し、お腹も心もすっかり満たされた後の、穏やかな食後のひととき。暖炉の温かい光に照らされて、膝の上でまどろむシュシュの銀色の毛並みをゆっくりと梳かしながら、私はそんなことを考えていたのだ。

 甘いものとしょっぱいものは、交互に食べると無限に食べられてしまう、恐ろしい組み合わせ。チーズをたっぷり使ったサクサクのサブレや、岩塩をぱらりとかけただけの、素朴なバタークッキー。そういうものが、次は食べたくなる。


 けれど、その何気ない独り言に、シュシュがぴくりと反応した。彼は私の膝の上から顔を上げると、「しお?」とでも言うように、不思議そうに首をこてんと傾げたのだ。


 その瞬間、私は、はっとした。


 そういえば、この家には、塩が一粒もない。

 お菓子作りにおいて、塩は甘さを引き立てるための、とても重要な隠し味だ。でも、それだけじゃない。そもそも塩は、人間が生きていく上で、絶対に欠かせないものなのだ。


 その事実に思い至った途端、私の背筋を、ひやりとしたものが駆け上がった。


 塩だけじゃない。


 服を洗濯するための石鹸は?

 ランプに使うための油は?

 怪我をした時のための清潔な布は?


 森は、確かに豊かだ。甘い樹液や、香ばしい木の実を、私たちに惜しみなく与えてくれる。

 けれど、森の恵みだけでは、文化的な生活どころか、最低限の生活必需品すら、何もかもが足りていなかったのだ。


 理想の家と厨房を手に入れ、お菓子作りの第一歩を踏み出せたことに浮かれて、私はそんな当たり前のことに、今まで全く気がついていなかった。まるで、オーブンを手に入れたのに、肝心の電気の繋ぎ方を忘れていた、みたいな話だ。


「……どうしましょう、シュシュ」


 私の声は、自分でも驚くほど、弱々しく響いた。

 腕の中のシュシュが、私の不安を感じ取ったのか、「くぅん」と心配そうな声を出して、ぺろりと私の頬を舐めてくれる。その温かい舌の感触に、私は少しだけ、冷静さを取り戻した。


 大丈夫。落ち着きなさい、私。


 問題があるのなら、解決策を考えればいい。パティシエは、いつだってそうだ。材料が足りなければ代用品を探し、思った通りの味にならなければ配合を変える。常に、頭を働かせ続けなくてはならないのだから。


 必要なものは、塩、油、布、石鹸……。


 それらは、森で手に入れるのは難しいだろう。

 だとしたら、答えは一つしかない。


「……町へ、行くしかないわね」


 私がそう結論付けると、シュシュは私の顔をじっと見つめ、こくりと一つ、頷いたように見えた。

 王都を追放される途中、御者の男性がぽろりとこぼしていたのを、私は聞き逃さなかった。この辺りで一番近い町は、フローリアという名前の拠点都市だと。そこまで行けば、きっと、生活に必要な最低限のものは手に入るはずだ。


 問題は、どうやってそれを手に入れるか、だ。


 当然ながら、今の私には、この世界の通貨が一枚もない。無一文なのだ。物々交換という手もあるけれど、交換に出せるような価値のあるものも、残念ながら持ち合わせていない。


 そうなると、方法は一つ。

 この町で、何かを売って、お金を稼ぐしかない。


 売るもの。


 今の私に、売れるものなんて、あるだろうか?


 先ほど食べたばかりの、『森の恵みのパイ』。

 素朴で、飾り気はないけれど、私の新しい人生の記念すべき第一号作品。


 これを町の人たちは、買ってくれるだろうか。


 正直、自信はなかった。

 こんな見た目も地味なパイに、お金を払ってくれる人なんているのだろうか。


 でも、他に方法がないのも事実だった。


 やるしかないのだ。


「よし、決めましたわ」


 私は、膝の上で固唾を飲んで私を見守っていたシュシュの頭を、ぽん、と軽く叩いた。


「シュシュ、明日からまた森へ行きましょう! 今度は、パイの材料をもっとたくさん集めるのよ!それで、パイを焼いて、フローラリアの町へ売りに行くわ!」


「わふん!」


 私の声に、シュシュも力強い一声で応えてくれた。



 それから三日間、私とシュシュは、日が昇ると同時に森へ入り、日が暮れるまで、夢中でパイの材料を集め続けた。

 シュシュの優れた嗅覚のおかげで、私たちは次々と、甘い樹液が採れる木や、香ばしい木の実がなっている場所を見つけ出すことができた。


 そして、四日目の朝。


 私の厨房は、まるでパイの工場のような、甘くて香ばしい匂いで満たされていた。

 作業台の上には、きつね色に焼き上がった『森の恵みのパイ』が、ずらりと三十個も並んでいる。


 愛情を込めて作った、私の分身のようなパイたち。


 私は、そのうちの一つを丁寧に布で包み、残りを魔法で作った、持ち運び用の大きな木の箱に、そっと詰めていった。


「さあ、行きましょうか、シュシュ。私たちの、運命の場所へ!」


 私は、大きな木の箱を背負い、シュシュを伴って、ついにフローリアの町へと向かうべく、我が家を後にした。


 町までは、歩いて半日ほどの距離だという。


 初めて歩く、見知らぬ道。

 けれど、隣にシュシュがいてくれるだけで、不思議と、何の不安も感じなかった。

 やがて、森を抜けると、遠くに、何本もの煙が空へと立ち上っているのが見えた。


 町の灯りだ。


 その光景を目にした途端、私の足取りは、自然と速まっていた。


 フローリアの町は、私が想像していたよりも、ずっと、活気に満ち溢れた場所だった。

 高い木の柵でぐるりと囲まれた町の入り口をくぐると、そこには、まるでごった煮のスープみたいな、猥雑で、力強い空気が渦巻いていた。


 土埃の舞う道を、屈強な鎧に身を包んだ冒険者らしき人たちや、大きな荷物を背負った商人たちが、忙しそうに行き交っている。

 道の両脇には、木造の簡素な建物が所狭しと立ち並び、鍛冶屋から響く金属を打つ甲高い音や、酒場から漏れ聞こえてくる陽気な歌声。

 そして、どこからともなく漂ってくる、肉料理の匂い。


 それらが、渾然一体となって、私の五感を刺激した。


 王都の洗練された、どこか冷たい美しさとは、全く違う。


 けれど、ここには、人々が必死に力強く生きている、確かな熱気があった。

 それらは全てが、生命力そのものように感じられた。


「すごいところね、シュシュ……」


「くんくん……」


 シュシュも、初めて見る町の光景と、様々な匂いに、落ち着かない様子で鼻を鳴らしている。

 私の貴族令嬢然とした簡素なドレスと、シュシュの美しい銀色の毛並みは、この町ではひどく目立つらしく、道行く人たちが、ちらちらと好奇の視線を向けてくるのが分かった。


 少しだけ、気まずい。


 けれど、ここで臆している場合ではなかった。


 私は、町の中心にあるという、広場を目指して歩き始めた。


 物を売るなら、きっと、一番人が集まる場所がいいはずだ。


 広場は、私の予想通り、町一番の賑わいを見せていた。地面に布を広げて、よく分からない骨董品のようなものを並べている老人。獲れたての野菜を山積みにしている農家のおばさん。吟遊詩人が、リュートをかき鳴らしながら、陽気な歌を歌っている。


 その喧騒の片隅に、ちょうどよく空いている場所を見つけて、私は、背負っていた木の箱を、そっと地面に下ろした。


「……さて、と」


 ごくり、と唾を飲み込む。


 ここは、今、私の店だ。

 私は、箱の蓋を開けて、丁寧に布で包んだパイを、一番上に一つ、見本として置いた。


 こんがりと焼けた、素朴なパイ。


 それだけ。

 看板も呼び込みの声もない。


 ただ、じっと、誰かが足を止めてくれるのを待つ。


 けれど、現実は、そう甘くはなかった。


 人々は、私の前を、興味なさげに通り過ぎていくだけ。

 誰も、私の足元に置かれた、小さな木の箱に注意を払おうとはしなかった。


 シュシュが、心配そうに私の顔を見上げてくる。


 大丈夫よ、まだ始まったばかりなんだから。


 私は、シュシュの頭を優しくこすりながら、心の中で自分に言い聞かせた。

 けれど、時間が経つにつれて、私の心の中には、じわじわと、焦りが広がっていく。


 このまま、一つも売れなかったら、どうしよう。


 そんな弱気な考えが、まるで黒い染みのように心を蝕み始めた、その時だった。


「……ん?なんだ、この匂いは」


 不意に、低い男の人の声が、頭の上から降ってきた。


 はっと顔を上げると、そこには、三人組の屈強な男たちが、私を見下ろして立っていた。

 傷だらけの革鎧に、腰に差した大きな剣。

 日に焼けた、いかつい顔。


 一目で冒険者だと分かった。


 そのうちの一人、赤毛で熊のように大きな体の男性が、くんくん、と鼻を鳴らしている。


「なんか、すげえ甘くて、いい匂いがしねえか?」

「ああ、確かに。腹が減る匂いだぜ」


 隣にいた、痩せぎみで目の鋭い男性が、同意するように頷く。

 彼らの視線が、私の足元にある、木の箱へと注がれた。


「嬢ちゃん、あんた、ここで何売ってんだ?」


 赤毛の男性が、少しぶっきらぼうな口調で、私に問いかけた。

 私は、どきりとする胸を抑えながら、精一杯、落ち着いた声で答える。


「……パイでございます」

「パイ、だあ?」


 男たちは、顔を見合わせた。


「こんなとこで、パイを売るなんざ、珍しいな。しかも、嬢ちゃんみたいなのが」

「見たところ、どっかのお貴族様みてえだが……家出でもしてきたのか?」


 揶揄するような、からかうような視線。

 私は、ぐっと唇を噛んだ。

 けれど、ここで引き下がるわけにはいかない。


「もし、よろしければ……一つ、いかがでしょうか」


 私がそう言うと、男たちは、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべた。


「ほう。で、いくらなんだ、そのパイとやらは」

「……銅貨、五枚でございます」


 それは、私が自分なりに考えた、精一杯の値段だった。

 この世界で貴族だった私にとっては、これが高いのか、安いのか、見当もつかない。

 赤毛の男は、顎に手をやって、ふむ、と考えるような素振りを見せた。


「銅貨五枚か。まあ、干し肉一切れと同じくらいだな。……よし、試しに一つ、もらおうか」


 彼は、懐から、ちゃりん、と数枚の銅貨を取り出すと、それを私の足元に置いた。

 初めてのお客様。

 私は、布に包んだパイを彼に差し出した。


「まいどありがとうございます」


 彼は、ひょいとそれを受け取ると、無造作に、がぶり、と大きな口で食らいついた。

 さくっ、と。

 小気味よい、軽い音が、広場の喧騒の中で、やけにはっきりと私の耳に届いた。


 そして。


 男の動きが、ぴたり、と止まった。

 大きく見開かれた、その目。

 もぐもぐと動いていた口が、止まっている。


 えっ。なにか、まずかったかしら。


 私の背中を、冷たい汗が、つうっと伝った。

 彼の仲間たちも、不思議そうな顔で、固まったままの彼を見つめている。


「……おい、どうしたんだよ、急に黙り込んじまって」

「まずかったのか?だから、やめとけって言ったんだ」


 仲間たちの声にも、彼は反応しない。

 ただ、呆然とした表情で、手の中のパイと、私の顔を交互に見比べている。

 やがて、彼は、ごくり、と喉を大きく鳴らして、パイを飲み込んだ。

 そして、絞り出すような声で、一言、呟いた。


「…………うめえ」


 え?


「なんだよ、それ」

「うめえって……なんだそりゃ」


 仲間たちが、呆れたように言う。

 すると、赤毛の男は、がばっと顔を上げて、目をらんらんと輝かせながら、叫んだ。


「うめえんだよ!なんだこりゃ!外はサクサクなのに、中はしっとりしてやがる!それに、この紫色のやつ!甘酸っぱくて、とろとろで……こんなもん、食ったことねえぞ!」


 彼は、興奮したように、残りのパイを、あっという間に口の中にかき込んでしまった。

 そのあまりの剣幕に、仲間たちも、そして、周りで遠巻きに見ていた人たちも、ぽかんとしている。


「お、おい、大げさなやつだな……」


 狐目の男が、半信半疑といった顔で言う。


「嘘だと思うなら、お前らも食ってみろ! 腰抜かすぞ!」


 赤毛の男にそう言われて、残りの二人も、顔を見合わせた。


「……じゃあ、俺も一つ」

「俺もだ」


 彼らは、それぞれ銅貨を差し出すと、私からパイを受け取った。

 そして、おそるおそる、それを一口、食べる。


 次の瞬間。


「「…………うまっ」」


 三人の冒険者は、それからしばらく、無言で、夢中になってパイを頬張り続けた。

 さく、さく、という心地よい音だけが、辺りに響く。

 やがて、全員がパイを食べ終えると、赤毛の男が、はあ、と満足のため息をついて、言った。


「……生き返るぜ。ダンジョンの帰りに、カチカチの干し肉と、酸っぱい酒で腹を満たすのが、俺たちの日常だったんだ。こんな、心まで温かくなるようなモンが食えるなんてな」

「ああ。それに、見た目より、ずっと腹にたまる。なんだか、体の中から力が湧いてくるみてえだ」


 狐目の男が、自分の腕をさすりながら、しみじみと呟く。

 その会話を、周りで聞いていた他の冒険者たちが、ざわざわと色めき立った。


「おい、聞いたか?あのパイ、そんなにうまいらしいぜ」

「しかも、腹持ちが良くて、力が湧いてくるだと?」

「本当かよ。俺も、ちょっと試してみるか……」


 一人、また一人と、私の前に、人が集まり始めた。

 その誰もが、屈強な、冒険者らしき人たちだった。


「嬢ちゃん、俺にも一つくれ!」

「こっちにもだ!」

「銅貨五枚だな、ほらよ!」


 あっという間に、私の前には、小さな人だかりができていた。


 私は、嬉しい悲鳴を上げながら、次から次へとパイを手渡していく。


 木の箱の中のパイは、まるで魔法のように、どんどん消えていった。

 私の足元には、ちゃりん、ちゃりんと、銅貨が積み重なっていく。

 この世界で生まれて初めて、自分の力で稼いだ、お金。

 そのずっしりとした重みが、私のこれまでの苦労を、全て洗い流してくれるようだった。


 そして、あれよあれよという間に。

 三十個あったパイは、最後の一つを残して、全て売り切れてしまったのだ。

 木の箱の中が空っぽになったのを見て、私は、しばらく、呆然としていた。


 売れた。


 私の作ったお菓子が、この町の人たちに、受け入れてもらえた。

 胸の奥から、ふつふつと、温かくて、くすぐったいような感情が、こみ上げてくる。

 涙で視界が滲みそうになるのを、ぐっと堪えた。

 ここで泣いては、せっかく買ってくれた人たちに、失礼だ。


「……ありがとうございました」


 私は、集まってくれた人たちに向かって、深く、深く、頭を下げた。

 顔を上げると、パイを買ってくれた冒険者たちが、みんな、満足そうな、優しい顔で笑っていた。


「うまかったぜ、嬢ちゃん!また明日も売ってくれよな!」

「ああ! ダンジョンに行く前の新しいお約束になりそうだ!」

「こんないいモンが食えるなら、どんな依頼だって頑張れるぜ!」


 そんな温かい言葉を背中に浴びながら、私は、足元に積み上がった銅貨を、布の袋に、一枚一枚、大切に集めていった。

 ずしりとした、心地よい重さ。

 これで、塩が買える。油も、布も、きっと買えるだろう。


 ふと、木の箱の中に、一つだけ、パイが残っているのに気がついた。

 そうだ。これは、最初から、売るつもりはなかったのだ。

 私は、その最後の一つのパイを、そっと手に取った。

 そして、ずっと隣で、私を励ますように、静かに寄り添ってくれていた、小さな相棒に差し出した。


「お待たせ、シュシュ。これは、あなたの分よ。今日、一番頑張ってくれた、あなたへの特別なお礼」


「くぅん!」


 シュシュは、嬉しそうに一声鳴くと、大きな口で、パイをぱくりと受け取った。


 さくさく、もぐもぐ。


 小さな体で、一生懸命にパイを食べる、その愛らしい姿。

 その姿を眺めながら、私は、この町で生きていく、確かな手応えを掴んだような気がした。

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