第四十二話:ただいま、私の城へ
王都を出発してから、数日が過ぎた。
国王陛下が手配してくれた王家の馬車は、それはもう快適そのものだった。硬い荷馬車とは比べ物にならないくらい揺れは少なく、座席はふかふか。窓の外には見飽きることのない美しい景色が、まるで絵巻物のように次から次へと流れていく。
最初は王都近郊の手入れの行き届いた田園風景。地平線まで続く黄金色の麦畑が風に揺れ、その向こうには穏やかな丘陵地帯が広がっている。
でも、一日、また一日と進むにつれて、景色は次第にその表情を変えていった。
綺麗に整備された街道は、徐々に土埃の舞う田舎道へと変わり、整然と区画された畑の代わりに、手つかずの自然が残る草原や、鬱蒼とした森が姿を現し始める。
行き交う人々の姿もまばらになり、時折すれ違うのは、屈強な冒険者らしき一団や、大きな荷物を背負った行商人くらいになった。
フローリアが近づいてきている。
その気配が、窓から吹き込んでくる風の匂いからも感じられた。
土の匂い。草の匂い。そして、どこか懐かしい、少しだけワイルドな獣の匂い。
それは、私の鼻腔を優しくくすぐり、心の奥底にある故郷への想いを、じわりと温かく呼び覚ましてくれる。
「くぅん……」
私の膝の上でうとうとしていたシュシュが、もぞもぞと体を動かして鼻を鳴らした。彼もまた、この懐かしい匂いを敏感に感じ取っているのだろう。その琥珀色の瞳には、早くあの森を駆け回りたいという、うずうずとした光が浮かんでいた。
「ふふっ、もう少しの辛抱よ、シュシュ。もうすぐ、私たちの森が見えてくるわ」
私はその銀色の頭を優しくこする。
ビスキュも、窓の外の景色をじっと見つめていた。深いフードの下で、彼が何を思っているのかは分からない。でも、きっと彼もまた、早くあの愛しい厨房に戻って、ぴかぴかに磨き上げた調理器具たちに再会したいと願っているに違いない。
私たちは言葉を交わさずとも、同じ想いを共有していた。
早く帰りたい。あの場所に。
◇
王都を出発してから、十日が過ぎた頃。
馬車の窓から見える景色は、すっかり見慣れたものへと変わっていた。
地平線まで続く、どこまでも広がる緑の草原。その向こうには、深い緑色の絨毯のように、鬱蒼とした森が横たわっている。
あれは、私が最初に家を建てた場所の近くの森だ。
あの森で、私はシュシュと出会い、森の恵みを見つけ、私の第二の人生、本当の第一歩を踏み出したのだ。
「……見えてきたわ」
ぽつりと、私の口から、期待に満ちた声が漏れた。
森の切れ間の向こう。
地平線に、何本もの、細い煙が、空へとまっすぐに立ち上っているのが見えた。
町の灯りだ。
フローリアの、あの温かくて、少しだけ土埃っぽい匂いのする、私の愛しい故郷。
その光景を目にした途端、心の奥から、じわりと、温かいものが込み上げてくるのを感じた。
「わふん!」
シュシュも、もう我慢できないとでも言うように、窓枠に前足をかけて体を乗り出した。そのふさふさの尻尾が、ちぎれんばかりに、ぶんぶんと振られている。
ビスキュも、その直立不動だった姿勢を、ほんの少しだけ、前のめりにしているのが分かった。
馬車の速度が、ゆっくりと落ちていく。
やがて、見慣れた、高い木の柵でぐるりと囲まれた、フローリアの町の入り口が、目の前に現れた。
門番の兵士が、王家の紋章が入った馬車を見て、驚いたように目を見開き、慌てて敬礼をしている。
馬車は、その門を、ゆっくりと、しかし、堂々と、くぐり抜けていった。
その瞬間。
むわりとした、懐かしい熱気が、私の肌をかすめた。
土埃と、汗と、焼きたての肉の匂い。鍛冶屋から聞こえる金属を打つ甲高い音。酒場から漏れ聞こえてくる陽気な歌声。
それらが混然一体となって、私の五感を、優しく、しかし力強く、包み込んだ。
王都の洗練された、どこか冷たい美しさとは、全く違う。
でも、ここには、人々が必死に、力強く生きている、確かな熱気があった。
生命力そのもののような、温かくて、少しだけ、荒削りなエネルギー。
「……ただいま」
私の唇から、自然と、その言葉がこぼれ落ちた。
馬車が、町の中心にある広場の入り口で、ゆっくりと停止する。
侍従が、恭しく、馬車の扉を開けてくれた。
「エステル様。ご無事のご到着、何よりでございます」
私は、彼に丁重な礼を言うと、一歩、馬車の外へと足を踏み出した。
その瞬間。
今まで、広場を覆っていた、がやがやとした喧騒が、ぴたり、と嘘のように静まり返った。
まるで、スープの鍋に冷たい水を一滴垂らしたように。
広場にいた、全ての人々の視線が、まるで強力な磁石に引き寄せられる砂鉄のように、馬車の前に立つ私に、突き刺さるように集まってくるのが分かった。
商人たち、冒険者たち、子供たちの手を引いたお母さんたち。
誰もが、あんぐりと口を開けて、信じられないものを見るような顔で、私を見つめている。
ひと月ぶりの、私の帰還。
その、あまりにも劇的な登場。
王家の馬車から降り立った、『パイの聖女』
その姿に、誰もが、言葉を失ってしまっているようだった。
重たい沈黙。
その沈黙を破ったのは、全く予想もしていなかった、一声だった。
「―――店主っ!!」
野太い、しかし、どこまでも温かい、喜びにあふれた叫び声。
はっとその声がした方を見ると、人垣をかき分けて、一人の大柄な男性が、こちらへ向かって、満面の笑みで手を振っていた。
熊のように大きな体。日に焼けた、いかつい顔。
赤毛の冒険者さんだった。
彼のその一声が、まるで合図になったかのように、広場の張り詰めていた雰囲気が、ぷつんと弾けた。
「おおっ! 店主じゃねえか!」
「帰ってきたのか! 王都はどうだったんだ!?」
「無事だったんだな! 心配したんだぞ!」
堰を切ったように、人々の声が、爆発した。
歓声と安堵、そして、喜びの声。
それらが、温かい波となって、私に向かって、どっと押し寄せてくる。
あっという間に、私の周りには、黒山の人だかりができていた。
誰もが、私の帰りを、自分のことのように喜んでくれている。
「おいおい、なんだ、その立派な馬車は! 王様でも、手懐けてきやがったか!」
赤毛の冒険者さんが、私の肩を、ばしん、と力強く叩いて、豪快に笑った。
「まあ! 店主様! おかえりなさいませ! お元気そうで、本当によかったですわ……!」
人垣の中から、ギルドの受付のお姉さんが、目に涙を浮かべながら、駆け寄ってきた。
「心配したんですよ! 王都で、何かあったんじゃないかって……!」
「ご心配をおかけしました。でも、もう大丈夫です。私は、この町に、帰ってきましたから」
私が、にっこりと微笑みかけると、彼女は、ほっとしたように、胸をなでおろした。
その時、ふと、人垣の後ろの方で、腕を組んで、こちらをじっと見ている、厳つい顔に気がついた。
ギルドマスターだった。
目が合うと、彼は、ふい、とわざとらしく顔をそむけた。
でも、その口元には、ほんのわずかだけ、安堵の笑みが浮かんでいた。
彼らしい、どこか不器用な優しさ。それがまた、私の心を温かくした。
「わふん!」
私の足元で、シュシュが、人々の歓迎ぶりに、少しだけ興奮したように嬉しそうに吠えている。
人々は、その愛らしい姿を見て、さらに歓声を上げた。
「おおっ! シュシュも元気そうじゃねえか!」
「相変わらず、可愛いなあ、おい!」
人々の手が、わしゃわしゃと、シュシュの銀色の毛並みを撫で回す。
シュシュも満更ではない様子で、気持ちよさそうに目を細めていた。
その、あまりにも温かくて、少しだけ、騒がしい歓迎。
王宮のきらびやかで、でもどこか冷たい歓迎とは、全く違う。
心の底から私の帰りを喜んでくれる、本物の温かさ。
じんわりと目の奥が熱くなるのを感じた。
「皆様、本当に、ありがとうございます……!」
私は、集まってくれた人々に向かって、深く頭を下げた。
顔を上げると、そこには、たくさんの温かい笑顔が、私を取り囲むように、咲き乱れていた。
ああ、帰ってきたんだ。
私の本当の居場所に。
私は、もう一度、心の底から、そう実感した。
人々の温かい歓迎の波にもまれながら、私たちは、ようやく、広場を抜け出した。
目指す場所は、もちろん、一つだけ。
フローリアの目抜き通り。中央区画の一番地。
私の城。『銀のしっぽ亭』
見慣れた道を歩いていく。
道の両脇には、木造の簡素な建物が所狭しと立ち並び、鍛冶屋から聞こえる金属を打つ音や、酒場から漏れ聞こえてくる陽気な歌声が、耳に心地よい。
そして、通りの角を曲がった、その瞬間。
それは、私の目に飛び込んできた。
温かみのあるレンガの壁。
優しい木の色をした屋根。
道行く人々の顔がはっきりと見える、大きな大きなガラスの窓。
そして、入り口の扉の上に掲げられた、木彫りの看板。
―――パティスリー『銀のしっぽ亭』
ひと月ぶりに見る、私の愛しい城。
それは、私が旅立つ前と、何一つ変わらない姿で、まるで「おかえりなさい」とでも言うように、静かに、そこに建っていた。
扉には、私が書き残していった、『休業のお知らせ』の札が、まだ、そのまま掛けられている。
その札が、私が留守の間も、この場所が静かに、私の帰りを待ち続けてくれていたことの、何よりの証のように思えた。
「……ただいま」
私は、そっと、その木の扉に手を触れた。
ひんやりとして、滑らかな、懐かしい感触。
鍵を開け、ゆっくりと扉を開ける。
ぎい、と、小さな蝶番がきしむ音。
そして。
ふわり、と。
店の中に満ちていた、甘い香りの残り香が、私の鼻先を優しくくすぐった。
バターと木の実、そして、果実の香り。
私の大好きな、幸せな香り。
店の中は、がらんとして、白い布が掛けられたままだったけれど、そこは、驚くほど綺麗に保たれていた。
ぴかぴかに磨き上げられた床。
埃一つない、ショーケース。
まるで、昨日まで、ここで営業していたかのように。
『……おかえりなさいませ、ご主人様』
私の隣で、ビスキュが深々と、とても丁寧にお辞儀をした。
あまりにも健気で、忠実な心遣い。
私は、もう言葉にならなかった。
ただ、彼の頑丈な土の肩に、そっと顔をうずめた。
「……ありがとう、ビスキュ。本当に、ありがとう」
ビスキュは、何も言わずに、その大きな土の手で私の背中を、ぽんぽんと、優しく叩いてくれた。
不器用な温かさが、私の旅の疲れを、全て溶かしていくようだった。
「わふん!」
シュシュが、待ちきれないとでも言うように、店の中を、嬉しそうに駆け回り始めた。
彼の、楽しげな足音が、静まり返っていた店内に、明るい命の響きを、再び、もたらしてくれる。
私は顔を上げた。
そして、私の愛しい城を、改めて見渡した。
がらんとした、白い布に覆われた店内。
でも、その空気は、少しも寂しくはなかった。
ここには温かい思い出と、そして、これから始まる、輝かしい予感が満ち満ちている。
「さあ、始めましょうか」
私は、きりりとエプロンの紐を結び直した。
その声は、もう少しも揺らがなかった。
どこまでも、明るく弾んでいた。
「まずは、この城の、眠りを覚まさなくては。明日から、また、たくさんのお客様が、私たちのお菓子を、待ってくれているのだから!」
私のその声に、ビスキュはこくりと力強く頷き、シュシュは「わふん!」と一声、高らかに鳴いた。
そう、私の物語はまだ始まったばかりなのだ。




