第四十一話:最後の言葉
王都の朝は、私が慣れ親しんだフローリアのそれとは、全く違う匂いで始まっていた。
土や草の代わりに石畳と香水の微かな残り香。パン屋から漂う小麦粉の焼ける匂いも、どこかよそよそしくて、私の心には届かない。
窓の外に広がるのは、寸分の狂いもなく設計された美しい街並みと、その向こうにそびえ立つ白亜の王城。全てが完璧に整えられていて、息苦しいほどに完成されている。
でも、私の心は驚くほど穏やかだった。まるで嵐が過ぎ去った後の、雲一つない青空のよう。
昨夜の晩餐会。
あのきらびやかで、どこか虚ろな祝宴の席で、私は私のやり方で、過去との決着をつけたのだ。
国王陛下からの、思いがけない王宮への誘い。初代『製菓長』という、この国の歴史上初めてとなる破格の地位。
最高の厨房、世界中から集められた最高の材料。それはかつての私なら、喉から手が出るほど欲しがったであろう、夢のような申し出だった。
でも、私は迷うことなく、それを断った。
私の城は、ここにはない。私の宝物は、全て、あの温かくて少しだけ土埃っぽい匂いのする、フローリアにあるのだから。
そう告げた時の、自分の心の、なんと晴れやかだったことか。私はもう、誰かが作った物語の上で踊らされる存在じゃない。
自分の足で立ち、自分の意志で歩む、一人の菓子職人なのだ。
「……帰りましょう」
窓辺に立ち、朝靄の中に浮かぶ王城を眺めながら、私はぽつりと呟いた。
早く帰りたい。愛しい我が家へ。私の帰りを待ってくれている、かけがえのない家族の元へ。
「わふん!」
私の足元で、シュシュが私の気持ちが伝わったかのように、嬉しそうに一声鳴いた。
彼は昨夜、宿屋で良い子に留守番をしていてくれた。私が部屋に戻ると、尻尾をちぎれんばかりに振って飛びついてきたその姿の、なんと愛おしかったことか。
部屋の隅では、従者の姿に変装したビスキュが、音もなく静かに控えている。
深いフードを目深にかぶり、その表情を窺い知ることはできないけれど、その全身から放たれる揺るぎない忠誠心と、私への深い信頼が、温かい毛布のように私の背中をそっと支えてくれていた。
「準備はいいかしら、二人とも」
私が振り返って微笑みかけると、シュシュは元気よくもう一声鳴き、ビスキュは深々と、とても丁寧にお辞儀をした。
旅支度はもう、昨夜のうちに全て整えてある。フローリアのギルドマスターが手配してくれた帰り用の馬車が、宿屋の前に着くのを待つだけだ。
私は最後にもう一度、窓の外の景色を目に焼き付けた。
美しい都。私が生まれ育った場所。そして、全てを失った場所。
でも、もうそこには何の感傷もなかった。ただ、遠い昔に読んだ物語の挿絵を眺めているような、そんな静かな気持ちだけ。
「さあ、行きましょうか」
私は二人の家族を促して、部屋の扉へと向かった。
早く帰ろう。私たちの、本当の城へ。
宿屋の一階に降りると、ロビーは朝食をとる宿泊客で賑わっていた。上等な服に身を包んだ人々が、銀の食器をカチャカチャと鳴らしながら、昨夜の晩餐会の噂話に花を咲かせている。
「聞いたかい? あの辺境の聖女様とやら、陛下からの製菓長へのお誘いを、きっぱりとお断りになったそうだ」
「まあ! なんと欲のない……。やはり、本物の聖女様は違うわねえ」
「それに比べて、あのクロエ嬢の浅ましさときたら……。自業自得とはいえ、哀れなものだ」
そんな勝手な囁き声が、私の耳にも届いてくる。
でも、もうそんな言葉に私の心が揺らぐことはなかった。彼らが私を何と呼ぼうと、どう評価しようと、もうどうでもいいこと。
私は彼らの視線を気にも留めず、まっすぐに宿屋の出口へと向かった。
宿の主人が、恐縮しきった様子で、深々と頭を下げて見送ってくれる。
「外に、王家からの馬車が、お待ちでございます」
宿屋の回転扉を押し開けると、ひんやりとした朝の空気が頬をかすめた。
そして、私の目の前に、一台の見覚えのある馬車が停まっていた。
王家の紋章が金色に輝く、豪奢な造りの四頭立ての馬車。昨日、私を王宮へと運んだ、あの馬車だ。
国王陛下の心遣いなのだろう。これでフローリアまで、快適な旅ができる。私はその温かい配慮に、心の中でそっと感謝した。
馬車の扉の前には、昨日と同じ、王宮の侍従が直立不動で控えていた。彼は私の姿を認めると、何の感情も見せずに、一度深く頭を下げた。
「エステル様。お待ちしておりました。どうぞ、お乗りください」
私が馬車に乗り込もうと、ステップに足をかけた、まさにその瞬間だった。
「……待ってくれ」
か細く、しかし必死な声が、すぐ背後から聞こえた。
その声の響きは、私の心の一番奥深くにある、もう塞がったはずの古傷を、ちくりと容赦なく刺した。
はっと振り返る。
いつの間にか、そこに一人の男性が立っていた。
陽光を受けて輝くはずの金髪は艶を失い、空色のはずの瞳は深く落ち窪んで、どんよりとした沼の底のような色をしていた。上等なはずの王族の装束はしわくちゃで、まるで何日も眠っていないかのように、目の下には濃い隈が、痛々しいほど青黒く浮かんでいる。
その姿は、私の記憶の中にある、自信に満ち溢れた傲慢な王子様とは、似ても似つかない、あまりにもみすぼらしいものだった。
レオン・ド・クレルモン。
私の元婚約者。
彼がなぜ、こんな場所に。こんな時間に。
周りの人々が彼の姿に気がつき、慌ててその場に膝をつく。侍従も驚いたように目を見開き、慌てて最敬礼の姿勢をとった。
「で、殿下!? な、なぜこのような場所に……!?」
侍従のうろたえた声が聞こえる。
でも、レオンはその声に反応すらしない。ただ呆然と私を見つめて立ち尽くしている。その虚ろな瞳が、信じられないというように大きく見開かれていた。いや、その瞳に映っているのは私ではないのかもしれない。彼自身の、取り返しのつかない過去の幻影を、私の姿に重ねて見ているだけなのかもしれない。
「……行かないでくれ」
彼の唇から絞り出すような、か細い声が漏れた。その声は風にかき消されてしまいそうなほど弱々しかった。
私は彼の、そのあまりにも変わり果てた姿に、一瞬だけ言葉を失った。
怒りでも、悲しみでもない。ましてや、憎しみなど、もうどこにもなかった。
ただ、深い、深い憐れみ。
目の前のこのやつれた男が、かつて私を公衆の面前で断罪し、私の人生を別のモノへと変えてしまった張本人だという事実が、にわかには信じられなかった。
彼はもはや、私の敵ですらなかった。
自分の愚かさの代償を払い続けている、哀れな男。
ただ、それだけ。
私はゆっくりと、馬車のステップから足を下ろした。そして、彼の前に静かに向き直る。
周りの人々が固唾を飲んで、私たち二人を見守っているのが分かった。
「……何か、御用でしょうか、殿下」
私の声は、自分でも驚くほど、穏やかで、静かだった。そこには何の感情も含まれていない。ただ、事実を確認するための、事務的な響きだけ。
あまりにも他人行儀な私の声。それが、彼の心をさらに深く抉ったのだろうか。
彼のやつれた顔が、さらに蒼白になったのが分かった。膝がかすかに動いている。今にも、その場に崩れ落ちてしまいそうだった。
「……すまなかった」
ぽつりと、彼の唇から言葉がこぼれ落ちた。
それは、謝罪の言葉のはずなのに、あまりにも力なく、虚ろに聞こえた。
「私は……私は、君に対して、取り返しのつかないことをしてしまった……。私は、愚かだった。あまりにも、盲目だった……!」
彼の声が次第に、嗚咽のような響きを帯びていく。
その空色の瞳から、ぽろり、ぽろりと、熱い雫がこぼれ落ちて、やつれた頬を伝っていく。
大の男が、しかも一国の王子が、人目もはばからずに、泣いている。
その、あまりにも痛々しい姿。周りの人々も、どう反応していいのか分からず、ただ戸惑ったように顔を見合わせているだけだった。
「私は、君の、本当の価値を、全く、分かっていなかった……。君が、どれほどの苦しみを、一人で抱えていたのかも、知ろうともしなかった……! 私は、あの女の甘い言葉だけを信じ込み、君を、あんな……あんな酷い目に……!」
途切れ途切れの懺悔の言葉。
それは、私の心を動かすには、あまりにも遅すぎた。
私の心はもう、完全に凪いでいた。彼の涙も、彼の後悔も、もう私の心には何の波紋も起こさなかった。
まるで、分厚い曇りガラス越しに、遠い昔に見た悲しい芝居を、もう一度眺めているような、そんな不思議な感覚。
「私の、愚かさのせいで、君は、全てを失った……。なのに、君は……君は、自らの力で、再び立ち上がり、こんなにも……こんなにも、輝かしい場所に……!」
彼は、まるで眩しいものでも見るかのように、私の顔をじっと見つめた。
その瞳には、後悔と共に、ほんの少しだけ、かつての私への、淡い憧憬のようなものが、揺らめいているように見えた。
でも、それも、もう私には関係のないこと。
「私は……私は、君に、どう、償えばいいのか……。もう、何も、私には……」
彼は、言葉を続けられなくなった。ただ、子供のように、声を上げて泣きじゃくるだけ。
その、あまりにも無様な姿。
私は、しばらくの間、ただ黙って、それを見つめていた。
やがて、私は、静かに口を開いた。
「……もう、よろしいのです、殿下」
私の声は、どこまでも穏やかだった。まるで、幼子をあやす母親のような、優しい響き。
「過去は、もう、変えることはできません。殿下が、どれほど後悔なさろうとも。私が、どれほど殿下を許そうとも。失われた時間は、決して、戻ってはこないのですから」
その、あまりにも静かで、しかし、あまりにも決定的な真実。
レオンの嗚咽が、ぴたりと止まった。彼は、はっとしたように顔を上げ、涙に濡れた瞳で、私を見つめ返した。
「……エステル……」
彼の唇から、私の名前が、かすかに漏れた。
それは、私が公爵令嬢だった頃、彼が私を呼んでいた、懐かしい響き。
でも、もう、私の心は少しも動かなかった。
「殿下には、殿下の道がございます。私には、私の道がございます。もう、私たちの道が、交わることは、決してございません」
私は、きっぱりと言った。
それは、拒絶ではなかった。ましてや、恨み言でもない。
ただ、変えることのできない、事実を告げただけ。
私たちは、もう、違う世界の住人なのだ、と。
レオンは、私のその言葉の意味を、ようやく理解したようだった。
彼の顔から、みるみるうちに、表情が抜け落ちていく。
希望や絶望、後悔も全てが洗い流されて、ただ、空っぽの能面のような顔だけが、そこには残っていた。
やがて、彼は、ふらり、と、その場に崩れ落ちそうになった。慌てて、近くにいた侍従たちが、彼の体を支える。
「……そうか」
ぽつりと、彼の唇から、乾いた声が漏れた。
「……そう、だよな。もう、何も……」
彼は、もう一度、私の顔をじっと見つめた。
その瞳には、もう、何の光もなかった。ただ、深い諦めだけが、そこには広がっている。
そして、彼は、絞り出すような声で言った。
「……君の幸せを遠くから祈っている」
その言葉に、私は、初めて彼に対して、穏やかな気持ちになっている自分に気がついた。
憎しみも怒りも、もうどこにもない。
ただ、彼の、これからの人生が、少しでも、安らかなものであるように、と。
そう、心の片隅で願っている自分がいた。
「殿下も、ご自身の道を」
私は、そう返した。
それが、私たちが交わした、最後の言葉だった。
私は、彼に、もう一度、深く頭を下げた。
それは元婚約者としてではなく、この国の民の一人として、王子に対する、儀礼的な、最後のお辞儀。
そして、私は、二度と振り返ることなく、馬車のステップを上がり、その中へと姿を消した。
侍従が静かに扉を閉める。
ごとり、と。
車輪が、ゆっくりと動き出した。
馬車の窓から、王都の景色が、ゆっくりと後ろへと流れていく。
私は、その光景をただ黙って見つめていた。
涙は、もう出なかった。
私の心は驚くほど晴れやかだった。
まるで、長い間、ずっと、もやがかっていた空がようやく晴れ渡ったかのように。
過去は過去。
もう私を縛るものは何もない。
私は、本当の意味で自由になったのだ。
「わふん」
私の足元で、シュシュが、私の膝に頭を乗せてきた。その温かさが、たまらなく愛おしい。
私の隣では、ビスキュが、何も言わずに、ただ静かに私のそばにいてくれる。
私のかけがえのない、家族。
この子たちがいる。
そして、フローリアで私の帰りを待ってくれている、温かい人々がいる。
それだけで、十分だ。
いや、十分すぎるくらいだ。
馬車は、白亜の城壁を抜け、フローリアへと続く、街道へと入っていく。
窓の外の景色が、次第に、緑の色を濃くしていく。
土の匂い。草の匂い。
懐かしい、私の故郷の匂い。
私は、すう、と深く、その空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
そして、心の底から、微笑んだ。
「……帰りましょう。私たちの、お城へ」
私の声は、どこまでも、明るく、弾んでいた。




