表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
お菓子作りのための追放スローライフ~婚約破棄された公爵令嬢は、規格外の土魔法でもふもふ聖獣やゴーレムと理想のパティスリーを開店します~  作者: 速水静香
第七章:小麦を求めて

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

41/42

第四十一話:最後の言葉

 王都の朝は、私が慣れ親しんだフローリアのそれとは、全く違う匂いで始まっていた。

 土や草の代わりに石畳と香水の微かな残り香。パン屋から漂う小麦粉の焼ける匂いも、どこかよそよそしくて、私の心には届かない。


 窓の外に広がるのは、寸分の狂いもなく設計された美しい街並みと、その向こうにそびえ立つ白亜の王城。全てが完璧に整えられていて、息苦しいほどに完成されている。


 でも、私の心は驚くほど穏やかだった。まるで嵐が過ぎ去った後の、雲一つない青空のよう。


 昨夜の晩餐会。


 あのきらびやかで、どこか虚ろな祝宴の席で、私は私のやり方で、過去との決着をつけたのだ。


 国王陛下からの、思いがけない王宮への誘い。初代『製菓長』という、この国の歴史上初めてとなる破格の地位。

 最高の厨房、世界中から集められた最高の材料。それはかつての私なら、喉から手が出るほど欲しがったであろう、夢のような申し出だった。


 でも、私は迷うことなく、それを断った。


 私の城は、ここにはない。私の宝物は、全て、あの温かくて少しだけ土埃っぽい匂いのする、フローリアにあるのだから。

 そう告げた時の、自分の心の、なんと晴れやかだったことか。私はもう、誰かが作った物語の上で踊らされる存在じゃない。


 自分の足で立ち、自分の意志で歩む、一人の菓子職人なのだ。


「……帰りましょう」


 窓辺に立ち、朝靄の中に浮かぶ王城を眺めながら、私はぽつりと呟いた。

 早く帰りたい。愛しい我が家へ。私の帰りを待ってくれている、かけがえのない家族の元へ。


「わふん!」


 私の足元で、シュシュが私の気持ちが伝わったかのように、嬉しそうに一声鳴いた。

 彼は昨夜、宿屋で良い子に留守番をしていてくれた。私が部屋に戻ると、尻尾をちぎれんばかりに振って飛びついてきたその姿の、なんと愛おしかったことか。

 部屋の隅では、従者の姿に変装したビスキュが、音もなく静かに控えている。

 深いフードを目深にかぶり、その表情を窺い知ることはできないけれど、その全身から放たれる揺るぎない忠誠心と、私への深い信頼が、温かい毛布のように私の背中をそっと支えてくれていた。


「準備はいいかしら、二人とも」


 私が振り返って微笑みかけると、シュシュは元気よくもう一声鳴き、ビスキュは深々と、とても丁寧にお辞儀をした。

 旅支度はもう、昨夜のうちに全て整えてある。フローリアのギルドマスターが手配してくれた帰り用の馬車が、宿屋の前に着くのを待つだけだ。

 私は最後にもう一度、窓の外の景色を目に焼き付けた。

 美しい都。私が生まれ育った場所。そして、全てを失った場所。

 でも、もうそこには何の感傷もなかった。ただ、遠い昔に読んだ物語の挿絵を眺めているような、そんな静かな気持ちだけ。


「さあ、行きましょうか」


 私は二人の家族を促して、部屋の扉へと向かった。

 早く帰ろう。私たちの、本当の城へ。


 宿屋の一階に降りると、ロビーは朝食をとる宿泊客で賑わっていた。上等な服に身を包んだ人々が、銀の食器をカチャカチャと鳴らしながら、昨夜の晩餐会の噂話に花を咲かせている。


「聞いたかい? あの辺境の聖女様とやら、陛下からの製菓長へのお誘いを、きっぱりとお断りになったそうだ」

「まあ! なんと欲のない……。やはり、本物の聖女様は違うわねえ」

「それに比べて、あのクロエ嬢の浅ましさときたら……。自業自得とはいえ、哀れなものだ」


 そんな勝手な囁き声が、私の耳にも届いてくる。

 でも、もうそんな言葉に私の心が揺らぐことはなかった。彼らが私を何と呼ぼうと、どう評価しようと、もうどうでもいいこと。

 私は彼らの視線を気にも留めず、まっすぐに宿屋の出口へと向かった。

 宿の主人が、恐縮しきった様子で、深々と頭を下げて見送ってくれる。


「外に、王家からの馬車が、お待ちでございます」


 宿屋の回転扉を押し開けると、ひんやりとした朝の空気が頬をかすめた。


 そして、私の目の前に、一台の見覚えのある馬車が停まっていた。


 王家の紋章が金色に輝く、豪奢な造りの四頭立ての馬車。昨日、私を王宮へと運んだ、あの馬車だ。

 国王陛下の心遣いなのだろう。これでフローリアまで、快適な旅ができる。私はその温かい配慮に、心の中でそっと感謝した。

 馬車の扉の前には、昨日と同じ、王宮の侍従が直立不動で控えていた。彼は私の姿を認めると、何の感情も見せずに、一度深く頭を下げた。


「エステル様。お待ちしておりました。どうぞ、お乗りください」


 私が馬車に乗り込もうと、ステップに足をかけた、まさにその瞬間だった。


「……待ってくれ」


 か細く、しかし必死な声が、すぐ背後から聞こえた。

 その声の響きは、私の心の一番奥深くにある、もう塞がったはずの古傷を、ちくりと容赦なく刺した。


 はっと振り返る。


 いつの間にか、そこに一人の男性が立っていた。


 陽光を受けて輝くはずの金髪は艶を失い、空色のはずの瞳は深く落ち窪んで、どんよりとした沼の底のような色をしていた。上等なはずの王族の装束はしわくちゃで、まるで何日も眠っていないかのように、目の下には濃い隈が、痛々しいほど青黒く浮かんでいる。


 その姿は、私の記憶の中にある、自信に満ち溢れた傲慢な王子様とは、似ても似つかない、あまりにもみすぼらしいものだった。


 レオン・ド・クレルモン。


 私の元婚約者。

 彼がなぜ、こんな場所に。こんな時間に。

 周りの人々が彼の姿に気がつき、慌ててその場に膝をつく。侍従も驚いたように目を見開き、慌てて最敬礼の姿勢をとった。


「で、殿下!? な、なぜこのような場所に……!?」


 侍従のうろたえた声が聞こえる。

 でも、レオンはその声に反応すらしない。ただ呆然と私を見つめて立ち尽くしている。その虚ろな瞳が、信じられないというように大きく見開かれていた。いや、その瞳に映っているのは私ではないのかもしれない。彼自身の、取り返しのつかない過去の幻影を、私の姿に重ねて見ているだけなのかもしれない。


「……行かないでくれ」


 彼の唇から絞り出すような、か細い声が漏れた。その声は風にかき消されてしまいそうなほど弱々しかった。

 私は彼の、そのあまりにも変わり果てた姿に、一瞬だけ言葉を失った。

 怒りでも、悲しみでもない。ましてや、憎しみなど、もうどこにもなかった。


 ただ、深い、深い憐れみ。


 目の前のこのやつれた男が、かつて私を公衆の面前で断罪し、私の人生を別のモノへと変えてしまった張本人だという事実が、にわかには信じられなかった。

 彼はもはや、私の敵ですらなかった。


 自分の愚かさの代償を払い続けている、哀れな男。


 ただ、それだけ。


 私はゆっくりと、馬車のステップから足を下ろした。そして、彼の前に静かに向き直る。

 周りの人々が固唾を飲んで、私たち二人を見守っているのが分かった。


「……何か、御用でしょうか、殿下」


 私の声は、自分でも驚くほど、穏やかで、静かだった。そこには何の感情も含まれていない。ただ、事実を確認するための、事務的な響きだけ。

 あまりにも他人行儀な私の声。それが、彼の心をさらに深く抉ったのだろうか。

 彼のやつれた顔が、さらに蒼白になったのが分かった。膝がかすかに動いている。今にも、その場に崩れ落ちてしまいそうだった。


「……すまなかった」


 ぽつりと、彼の唇から言葉がこぼれ落ちた。

 それは、謝罪の言葉のはずなのに、あまりにも力なく、虚ろに聞こえた。


「私は……私は、君に対して、取り返しのつかないことをしてしまった……。私は、愚かだった。あまりにも、盲目だった……!」


 彼の声が次第に、嗚咽のような響きを帯びていく。

 その空色の瞳から、ぽろり、ぽろりと、熱い雫がこぼれ落ちて、やつれた頬を伝っていく。

 大の男が、しかも一国の王子が、人目もはばからずに、泣いている。

 その、あまりにも痛々しい姿。周りの人々も、どう反応していいのか分からず、ただ戸惑ったように顔を見合わせているだけだった。


「私は、君の、本当の価値を、全く、分かっていなかった……。君が、どれほどの苦しみを、一人で抱えていたのかも、知ろうともしなかった……! 私は、あの女の甘い言葉だけを信じ込み、君を、あんな……あんな酷い目に……!」


 途切れ途切れの懺悔の言葉。

 それは、私の心を動かすには、あまりにも遅すぎた。

 私の心はもう、完全に凪いでいた。彼の涙も、彼の後悔も、もう私の心には何の波紋も起こさなかった。

 まるで、分厚い曇りガラス越しに、遠い昔に見た悲しい芝居を、もう一度眺めているような、そんな不思議な感覚。


「私の、愚かさのせいで、君は、全てを失った……。なのに、君は……君は、自らの力で、再び立ち上がり、こんなにも……こんなにも、輝かしい場所に……!」


 彼は、まるで眩しいものでも見るかのように、私の顔をじっと見つめた。

 その瞳には、後悔と共に、ほんの少しだけ、かつての私への、淡い憧憬のようなものが、揺らめいているように見えた。

 でも、それも、もう私には関係のないこと。


「私は……私は、君に、どう、償えばいいのか……。もう、何も、私には……」


 彼は、言葉を続けられなくなった。ただ、子供のように、声を上げて泣きじゃくるだけ。


 その、あまりにも無様な姿。

 私は、しばらくの間、ただ黙って、それを見つめていた。

 やがて、私は、静かに口を開いた。


「……もう、よろしいのです、殿下」


 私の声は、どこまでも穏やかだった。まるで、幼子をあやす母親のような、優しい響き。


「過去は、もう、変えることはできません。殿下が、どれほど後悔なさろうとも。私が、どれほど殿下を許そうとも。失われた時間は、決して、戻ってはこないのですから」


 その、あまりにも静かで、しかし、あまりにも決定的な真実。

 レオンの嗚咽が、ぴたりと止まった。彼は、はっとしたように顔を上げ、涙に濡れた瞳で、私を見つめ返した。


「……エステル……」


 彼の唇から、私の名前が、かすかに漏れた。

 それは、私が公爵令嬢だった頃、彼が私を呼んでいた、懐かしい響き。

 でも、もう、私の心は少しも動かなかった。


「殿下には、殿下の道がございます。私には、私の道がございます。もう、私たちの道が、交わることは、決してございません」


 私は、きっぱりと言った。


 それは、拒絶ではなかった。ましてや、恨み言でもない。


 ただ、変えることのできない、事実を告げただけ。


 私たちは、もう、違う世界の住人なのだ、と。

 レオンは、私のその言葉の意味を、ようやく理解したようだった。


 彼の顔から、みるみるうちに、表情が抜け落ちていく。


 希望や絶望、後悔も全てが洗い流されて、ただ、空っぽの能面のような顔だけが、そこには残っていた。

 やがて、彼は、ふらり、と、その場に崩れ落ちそうになった。慌てて、近くにいた侍従たちが、彼の体を支える。


「……そうか」


 ぽつりと、彼の唇から、乾いた声が漏れた。


「……そう、だよな。もう、何も……」


 彼は、もう一度、私の顔をじっと見つめた。

 その瞳には、もう、何の光もなかった。ただ、深い諦めだけが、そこには広がっている。

 そして、彼は、絞り出すような声で言った。


「……君の幸せを遠くから祈っている」


 その言葉に、私は、初めて彼に対して、穏やかな気持ちになっている自分に気がついた。

 憎しみも怒りも、もうどこにもない。


 ただ、彼の、これからの人生が、少しでも、安らかなものであるように、と。


 そう、心の片隅で願っている自分がいた。


「殿下も、ご自身の道を」


 私は、そう返した。

 それが、私たちが交わした、最後の言葉だった。


 私は、彼に、もう一度、深く頭を下げた。


 それは元婚約者としてではなく、この国の民の一人として、王子に対する、儀礼的な、最後のお辞儀。

 そして、私は、二度と振り返ることなく、馬車のステップを上がり、その中へと姿を消した。


 侍従が静かに扉を閉める。


 ごとり、と。

 車輪が、ゆっくりと動き出した。


 馬車の窓から、王都の景色が、ゆっくりと後ろへと流れていく。

 私は、その光景をただ黙って見つめていた。


 涙は、もう出なかった。


 私の心は驚くほど晴れやかだった。


 まるで、長い間、ずっと、もやがかっていた空がようやく晴れ渡ったかのように。


 過去は過去。


 もう私を縛るものは何もない。

 私は、本当の意味で自由になったのだ。


「わふん」


 私の足元で、シュシュが、私の膝に頭を乗せてきた。その温かさが、たまらなく愛おしい。

 私の隣では、ビスキュが、何も言わずに、ただ静かに私のそばにいてくれる。


 私のかけがえのない、家族。


 この子たちがいる。


 そして、フローリアで私の帰りを待ってくれている、温かい人々がいる。


 それだけで、十分だ。

 いや、十分すぎるくらいだ。


 馬車は、白亜の城壁を抜け、フローリアへと続く、街道へと入っていく。

 窓の外の景色が、次第に、緑の色を濃くしていく。


 土の匂い。草の匂い。

 懐かしい、私の故郷の匂い。


 私は、すう、と深く、その空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


 そして、心の底から、微笑んだ。


「……帰りましょう。私たちの、お城へ」


 私の声は、どこまでも、明るく、弾んでいた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ