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第四話:土から生まれる調理器具

 小鳥たちの優しい合唱で、私は目を覚ました。

 窓から差し込む朝の光が、部屋の中を穏やかに照らしている。木の床に、壁に、天井に、まるで上質な蜂蜜を薄くのばしたような、柔らかな黄金色が広がっていた。

 昨日まではこの世界に存在すらしなかった、私だけの寝室。魔法で組み上げたばかりの家の真新しい木の香りが、胸いっぱいに満ちていく。


 隣で丸くなっていたシュシュが、もぞもぞと体を動かして、ふぁ~、と大きなあくびを一つした。


「おはよう、シュシュ。よく眠れた?」


「くぅん……」


 まだ夢の中にいるような声で返事をしながら、シュシュは私の腕の中に頭をぐりぐりと押し付けてくる。

 その確かな温かさと、ずっしりとした重みが、ここでの生活が幻ではないのだと、はっきりと教えてくれた。


 私はベッドからゆっくりと体を起こし、空に向かってぐーっと腕を伸ばす。


 昨日、マナをほとんど空っぽになるまで使ってしまったというのに、一晩ぐっすり眠ったおかげで、体はすっかり回復していた。

 それどころか、今まで感じたことのないくらい、指の先まで力がみなぎっているような、そんな不思議な感覚さえある。


 動きやすい簡素なドレスに着替えて、シュシュと一緒に一階の厨房へと降りていった。


 朝の光が大きな窓からさんさんと降り注ぐ、広々とした空間。

 ぴかぴかに磨き上げた石の床、壁際にどっしりと構えるレンガの石窯、どこまでも広がる木製の作業台。

 何度見ても、胸がときめく。

 ここは、私の城。私の夢そのものだ。


「さて、と」


 私は作業台の前に立ち、ぱん、と景気付けに両手を叩いた。

 家はできた。次は、いよいよお菓子作りを始める番だ。甘い香りを、この部屋いっぱいに満たす時が来たのだ。

 けれど、そのためには、まず解決しなければならない、とても大きな問題があった。


 私は、広々とした厨房をぐるりと見渡す。


 壁には、レードルやフライ返しをかけるためのフックまで、丁寧に作り付けてある。収納棚も、大小さまざまなサイズで用意した。

 けれど、そのフックにかかるものは何一つなく、棚の中もからっぽのまま。

 そう。この理想の厨房には、まだ、何一つ道具がなかったのだ。


 お菓子作りに絶対に欠かせない、泡立て器やゴムベラも、麺棒やボウルも、そして、焼き型も。


 その全てが、まだここには存在していない。


「これでは、宝の持ち腐れか……」


 ぽつりと呟くと、足元でじゃれていたシュシュが「わふ?」と不思議そうに首を傾げた。その琥珀色の瞳が、どうしたの、と問いかけている。


「お菓子を作るにはね、シュシュ、色々な道具が必要なのよ。材料を混ぜ合わせるための器とか、生地をこねて伸ばすための棒とか、クリームをふわっふわにするための、特別な道具とかがね」


 シュシュに説明しながら、私は自分の土魔法の可能性について、一生懸命に思考を巡らせていた。

 昨日、私はこの家を、土や石という素材から作り上げた。


 壁も、床も、窓ガラスさえも、私のイメージ通りに。


 だとしたら。


 もっと小さなもの、もっと繊細なものだって、同じように作れるに決まっているはず。


 それに、ここは王都から遠く離れた辺境の地。

 近くの町まで歩いて買いにいくわけにはいかない。そもそも、そこに欲しいものが売っているという保証すらないのだ。


 ないのなら、作るしかない。

 私の手で。


「よし。まずは、ボウルから作ってみましょうか」


 私はシュシュににっこり笑いかけると、厨房の扉を開けて家の外に出た。

 家のすぐそばの地面は、昨日、魔法で家を建てた影響なのか、驚くほどきめ細かく、しっとりとした質の良い粘土質の土に変わっていた。これなら、陶器を作るのにちょうどいいかもしれない。

 私は両手に適量の土をすくい上げ、慎重に厨房の作業台の上へと運んだ。


「わふ、わふ!」


 シュシュが、これから何が始まるのかと期待に満ちた目で、作業台の周りをぴょんぴょんと楽しそうに跳ね回っている。


「見ていてね、シュシュ。今から、ちょっとした魔法を見せてあげるわ」


 私は作業台の上の土の塊に、そっと両手をかざした。ゆっくりと目を閉じて、意識を集中させる。


 イメージするのは、私が長年使い慣れて、一番使いやすいと思っている、少し深めの両手で優しく抱えられるくらいの大きさのボウル。

 縁は指がすっと通るくらい滑らかで、内側は卵をかき混ぜるのに最適な、どこにも角がない、緩やかな曲線を描いている。


 マナをゆっくりと、でも確かな流れとして、土塊へと注ぎ込んでいく。

 すると、私の手のひらの下で、土が、まるで生きているかのように、むにむにと形を変え始めた。

 最初はただの不格好な塊だったものが、少しずつ、私の頭の中にある設計図通りの形へと近づいていく。


 縁がすうっと立ち上がり、底がふわりと丸みを帯び、全体の厚さがどこをとっても均一になっていく。


 すごい。


 昨日、巨大な家を建てた時のような、大規模でダイナミックな魔法とはまた違う、指先の感覚に全ての意識を傾ける、繊細なコントロール。


 これも、すごく楽しい。


「仕上げに、表面を滑らかにして……と」


 心の中でそう念じると、ボウルの表面にあった微かなざらつきが、すうっと消えて、まるで磨き上げた大理石みたいに、つるりとした質感に変わった。


 これで形は完成だ。


 次は、これを焼き固める工程。石窯はまだ一度も火を入れていないし、そもそも、陶器を焼くにはもっとずっと高い温度が必要になる。

 けれど、それも、この魔法で何とかなるはずだ。

 私は、出来上がったばかりの粘土のボウルに、再び手をかざす。

 今度は、熱をイメージする。

 石窯の中で燃え盛る、真っ赤な炎。その灼熱が、粘土に含まれる水分を完全に飛ばし、土の粒子を固く固く結びつけ、丈夫な陶器へと変えていく様子を、隅々まで鮮明に思い描く。


 じゅ、と。


 小さな音と共に、ボウルから白い湯気がもわりと立ち上った。

 私の手のひらの周りの空気が、夏の道のように、ゆらゆらと揺らめいている。マナが、純粋な熱エネルギーへと変換されている証拠だ。

 ボウルの色が、湿った濃い茶色から、乾いた明るい土色へと、みるみるうちに変わっていく。

 そして、全ての水分が抜けきったところで、さらに温度をぐっと上げていく。


 ぼうっ、と。


 ボウル全体が、まるで夕焼け空のような、淡いオレンジ色の光を発した。

 小さな太陽が、私の手のひらの下に生まれてしまったかのようだ。


「わふぅ……!」


 シュシュが、驚きと、少しの怯えが混じったような声を上げる。


「大丈夫よ、シュシュ。熱いのは、これだけだから。すぐに終わるわ」


 私は優しく声をかけながら、最後の仕上げに入る。

 温度をゆっくりと、本当にゆっくりと下げていき、光が完全に消えるのを待つ。


 ふう、と息をついて、手を離した。


 そこには、もう湯気を上げることもなく、静かにたたずむ、一つの陶器のボウルがあった。

 私は、おそるおそる、その縁に指で触れてみる。

 ひんやりとしていて、硬質で、驚くほど滑らかな感触。試しに軽く指で弾いてみると、こん、と高く澄んだ音がした。


「……できたわ」


 それは、王都のどんな高級店で売っているものにも負けないくらい、非の打ちどころのない出来栄えだった。重さも、大きさも、私の手にしっくりと馴染む。

 まさに、私のためのボウルだ。


「わふ!わふん!」


 シュシュが、まるで自分のことのように成功を喜んで、私の足元にじゃれついてくる。


「ありがとう、シュシュ。ふふ、これなら、いくつでも作れそうね」


 一度要領を得た私は、同じ手順で、大小さまざまなサイズのボウルを、次から次へと作り出していった。メレンゲを泡立てるための大きなものから、卵黄を一つだけ入れておくための小さなものまで。あっという間に、厨房の棚の一角が、温かみのある素焼きのボウルで綺麗に埋まっていく。

 その光景を眺めているだけで、心がじわじわと満たされていくようだった。



 ボウルが完成したら、次はいよいよ、お菓子作りの花形とも言える道具、泡立て器だ。

 こればかりは、土や石では作れない。卵白をきめ細かい泡にするには、しなやかで、強い弾力性のある、金属のワイヤーが必要不可欠なのだ。


 でも、どこにそんなものが?


 この辺りに、鉄鉱石が採れる鉱山があるなんて話は、聞いたことがない。

 私は、うーん、と作業台に肘をついて考え込んだ。

 けれど、すぐに、ある可能性に思い至った。

 私の土魔法は、『大地に属するもの』を操作する力。

 鉄もまた、大地が生み出した鉱物の一つに違いない。

 だとしたら、この地面の下にも、量は少ないかもしれないけれど、微量ながら、鉄分は含まれているはずだ。

 それを、魔法で集めることはできないだろうか。


「ちょっと、試してみる価値はありそうね」


 私は再び家の外に出て、今度は地面に深く、深く、意識を沈めていった。

 自分の感覚が、まるで植物が地中深くに根を張るように、大地の中へとどこまでも広がっていく。

 湿った土の匂い。ひんやりとした地下水の流れの感触。ごろりとした岩の硬さ。

 その無数の情報の中で、私は、ある特定の感覚だけを探し出す。


 微かな、本当に微かな、金属の気配。


 それは、そこら中に、まるで砂粒のように、ばらばらに散らばっていた。いわゆる、砂鉄というものだろうか。


 これだ。見つけた。


 私は、その無数に存在する金属の粒に、意識の先端を一本一本伸ばしていく。

 そして、心の中で、強く、はっきりと命じる。


 ―――集まれ。


 私の号令に大地が応える。

 私の目の前の地面が、まるで生き物のように、もこもこと一部分だけ静かに盛り上がり始めた。

 その表面に、じわじわと、黒くて鈍い光沢のある、細かい砂が染み出してくる。

 それは、まるで巨大な磁石に引き寄せられるかのように、一箇所へと集まって、あっという間に小さな黒い山を作った。


「すごい……本当に、集まってきたわ」


 私は興奮を抑えきれずに、その黒い砂の山を、そっと両方の手のひらにすくい上げた。ずしりとした、心地よい重み。これが全部、鉄なのだ。

 これを、今度は精錬して、一本のワイヤーにしなくてはならない。

 厨房に戻った私は、作業台の上に砂鉄の山を置くと、再び、熱を生み出す魔法を行使した。

 今度は、先ほどの陶器作りよりも、さらに、もっとずっと高い温度が必要になる。


 ごう、と。


 私の手のひらの下で、砂鉄が真っ赤に、そして白く発光し始めた。

 不純物が、ぱちぱちと小さな火花を散らしながら燃えていく。

 やがて、黒い砂の山は、どろりとした、燃えるようなオレンジ色の液体の塊へとその姿を変えた。


 ここからが、正念場だ。

 一番、集中力が必要なところ。


 私は、溶けて液体状になった鉄の塊に、さらにマナを注ぎ込み、その形を慎重に操作していく。

 イメージするのは、細く、しなやかで、それでいて決して折れない、丈夫な一本の金属線。

 液体の塊から、まるで熱した飴細工を伸ばすように、すうっと細い線が引き伸ばされていく。

 最初は震えていたその線が、マナへの制御が安定するにつれて、どこまでもまっすぐで、均一な太さのワイヤーへと変わっていった。


「……できた!」


 冷えて固まったワイヤーは、きらりと美しい銀色の光を放っていた。

 指で軽く弾いてみると、びいん、と心地よい金属音が響く。しなり具合も、硬さも、申し分ない。これなら泡立て器が作れる。

 私は、同じものを、あと十数本作り出した。

 そして、それらのワイヤーを、一本一本丁寧に、綺麗な雫型になるように束ねていく。持ち手となる部分は、魔法で滑らかな手触りの木のグリップを作り、そこにワイヤーの端を一本もぐらつかないように、しっかりと固定した。


 そうして、ついに。


 世界でたった一つの、私のための泡立て器が完成した。

 手に持ってみると、驚くほどしっくりと馴染んだ。重さのバランスも、グリップの握り心地も、私が前世で使ってきたどんな高価な専門店のものよりも、遥かに優れている。

 私は、完成したばかりの泡立て器を、空中でしゃかしゃかと素早く振ってみた。

 ぶん、と空気を切り裂く、小気味よい音。

 ああ、早く、これでメレンゲを泡立ててみたい。きっと、あっという間に、絹のようにつややかで、つんと角が立つような、メレンゲが出来上がるに違いない。

 想像しただけで、口の中に、焼きたてのダックワーズの香ばしい香りがふわりと広がるようだった。



 一度コツを掴んでしまえば、あとはもう、勢いに乗るだけだった。

 私は、まるで水を得た魚のように、次から次へと、厨房に必要な調理器具を生み出していく。


 麺棒は、森との境目で見つけた、緻密で硬い花崗岩を探し出して、魔法で表面がどこまでも滑らかになるように磨き上げた。

 これなら、バターをたっぷり使った繊細なパイ生地も、べたつかずに綺麗に伸ばせるはずだ。

 ゴムベラは、持ち手を木で、先端のヘラの部分を、薄く引き伸ばした金属で作った。

 さらに、魔法で表面を特殊加工して、まるで本物のゴムのような、しなやかな弾力性を持たせることにも成功した。

 これがあれば、ボウルに残った生地を、最後のひとすくいまで、無駄なく綺麗に集めることができる。

 他にも、粉をふるうためのきめ細かい網目のこし器、生地を正確に切り分けるためのスケッパー、タルト生地に均等に穴を開けるためのピケローラー。


 頭の中にあった、ありとあらゆる専門的な道具が、私の手によって、次々と形になっていく。


 その作業は、お菓子作りの工程そのものに、どこか似ている、と私は思った。

 素材を選び、その性質をよく理解し、愛情を込めて、理想の形へと作り上げていく。

 魔法という、万能の道具を使いながら。

 そして、最後に、私がお菓子作りと同じくらい、いえ、もしかしたらそれ以上に愛しているかもしれないものに、取り掛かった。


 焼き型だ。


 ただお菓子を焼くだけなら、簡単な丸い型が一つあれば、それで十分かもしれない。

 でも、お菓子は、味だけではなく、その見た目も、同じくらい大切だと私は固く信じている。

 美しいお菓子は、それだけで人を幸せな気持ちにさせる、不思議な力があるのだから。

 私は、薄く引き伸ばした金属の板を、魔法で丁寧に、寸分の狂いもなく折り曲げ、繋ぎ合わせていく。


 まずは基本的な、丸いデコレーションケーキ型。

 四角いパウンドケーキ型。浅くて波型の縁がついたタルト型。


 でも、それだけでは、終わらない。


 くっきりとした美しい溝が特徴的な、クグロフ型。

 小さな貝殻の形をした、可愛らしいマドレーヌ型。


 花や、葉っぱ、シュシュに似た動物の形をした、色々なクッキーの抜き型。


 前世では、高価でなかなか手が出せなかった、特別な、憧れの焼き型たち。その全てを、私は自分の手で、好きなだけ作り出すことができた。

 棚の一角が、きらきらと輝く、銀色の焼き型で埋め尽くされていく。

 それは、まるで、宝石箱をひっくり返したかのような、夢のように美しい光景だった。


 私は、うっとりと、その棚を眺める。


 どんなお菓子を焼こうか。


 クグロフ型で、ラム酒に漬けたドライフルーツと、香ばしいナッツをたっぷり入れた、香り高いケーキを。

 マドレーヌ型で、この辺りで採れるかもしれないレモンの皮をすりおろして入れた、爽やかな焼き菓子を。


 動物のクッキーは、子供たちがきっと喜んでくれるはずだ。


 想像が、どんどん膨らんでいく。

 作りたいお菓子のアイデアが、まるで山の湧き水のように、次から次へと、こんこんと湧き上がってくる。


 一日がかりで、私の厨房は、ついにその真の姿を取り戻した。

 空っぽだった棚とフックは、私が魂を込めて作り上げた、たくさんの調理器具で、すっかり埋め尽くされている。

 それは、ただの道具の集まりではなかった。


 私の夢のかけら。私の情熱の結晶。


 この厨房は、もう、がらんどうの箱なんかじゃない。


 今すぐにでも、甘くて美味しいお菓子を生み出せるのだ。


「……ふう」


 私は、心の底から満足のため息をついて、そばにあった椅子にゆっくりと腰を下ろした。

 さすがに、一日中魔法を使い続けたせいで、少し疲れたようだ。

 シュシュが、そんな私の足元にやってきて、そっと体を寄り添わせてくれる。その温かさが、心地よかった。


「ありがとう、シュシュ。これで、準備は万端よ」


 私は、シュシュの銀色の頭を優しくこすりながら、自分の城を見渡した。


 家が建ち、道具が揃った。

 あとは、肝心要の材料を手に入れるだけ。


 小麦粉、砂糖、卵、バター。


 それらがなければ、お菓子作りは始まらない。

 王都から持ってきた、ほんのわずかな荷物の中には、残念ながら、そんな素敵なものは一つも入っていなかった。


「明日からは、食材探しね」


 私は、窓の外に広がる、どこまでも続く広大な森へと視線を向けた。


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