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お菓子作りのための追放スローライフ~婚約破棄された公爵令嬢は、規格外の土魔法でもふもふ聖獣やゴーレムと理想のパティスリーを開店します~  作者: 速水静香
第七章:小麦を求めて

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第三十七話:様変わりした王都の景色


 ごとり、ごとん。


 無骨な車輪が石畳を叩く規則正しい音が、思考の海に沈んでいた私の意識をゆっくりと現実へと引き揚げていく。

 どれくらいの間、この揺れに身を任せていただろう。フローリアの温かい声援に見送られて旅立ってから、十日以上が過ぎていた。

 最初は見慣れた緑の草原がどこまでも続いていたけれど、景色は日に日にその表情を変え、やがて道は綺麗に整備された街道へと姿を変えた。行き交う人々の数も増え、立派な幌がついた馬車が私たちを追い越していくたびに、シュシュが物珍しそうに鼻を鳴らしていた。

 そしてついに、長い旅路の終わりを告げるものが、地平線の向こうにその巨大な姿を現したのだ。


 天を衝くかのようにそびえ立つ純白の城壁。その上にずらりと並ぶ、王家の紋章が刻まれた旗が風にはためいている。

 かつて私が生まれ育ち、そして全てを奪われた場所。


 王都クレルモン。


「……着いたのね」


 ぽつりと、私の口から自分でも驚くほど乾いた声がこぼれ落ちた。

 隣で揺られている荷馬車の御者台から、人の良さそうな御者が明るい声をかけてくる。


「おう、嬢ちゃん! あれが王都だぜ! でっけえだろう! フローリアとは比べ物になんねえくらい活気があって、面白いもんで溢れてる! 初めてかい?」

「……ええ。まあ、そんなところですわ」


 私は曖昧に微笑んで言葉を濁した。

 初めて、ではない。でも、今の私にとってはもう、初めて訪れる異国の都と何ら変わりはなかった。

 私の足元でシュシュが「くぅん」と心配そうな声を出して、私のローブに鼻先をすり寄せてくる。私の心の中に渦巻いている、ざわざわとした落ち着かない気配を敏感に感じ取っているのだろう。

 私の背後では大きな荷物に偽装したビスキュが、ぴくりとも動かずに静かに気配を殺していた。深いフードを目深にかぶった彼は、ただの無口な供の者にしか見えないはずだ。


「大丈夫よ、二人とも。ここが私たちの戦場よ」


 私は小さな相棒の頭を優しくこすると、自分に言い聞かせるようにそう呟いた。

 逃げるために来たんじゃない。過去に決着をつけ、私の未来をこの手で掴み取るために来たのだ。

 馬車は城壁に設けられた巨大な正門へと、ゆっくりと吸い込まれていく。衛兵との短いやり取りの後、私たちはついに王都の中へと足を踏み入れた。



 一歩中に足を踏み入れた瞬間、空気ががらりと変わった。

 フローリアの、あの土埃と汗と焼きたての肉の匂いが入り交じった、猥雑で力強い活気とは全く異なる空気。


 ぴしりと磨き上げられた石畳の道。道の両脇には、寸分の狂いもなく切りそろえられた美しい街路樹が涼しげな木陰を作っている。

 行き交う人々の服装は誰もが上等な布地で作られた、仕立ての良いものばかり。

 その表情には、フローリアの冒険者たちのような明日をも知れぬ切迫感はなく、どこか余裕と退屈な様子が浮かんでいた。

 鼻先をかすめるのは、土の匂いの代わりに高価な香水の甘くて少しだけ鼻につく香り。鍛冶屋の甲高い音の代わりに聞こえてくるのは、どこかのサロンから漏れ聞こえてくる優雅なリュートの音色。

 全てが洗練されていて、美しくて、そしてどこか、自分とは関係のない遠い世界の出来事のように現実味がない。


「す、すげえ……! これが王都……!」


 御者の男性が、あんぐりと口を開けて感嘆の声を上げている。

 私はその隣でただ黙って、流れゆく景色を目で追っていた。

 何もかもが懐かしいはずなのに、何もかもが遠い。それはまるで昔読んだことのある物語の本の挿絵を、もう一度眺めているような、そんな不思議な感覚だった。

 私はもう、この物語の登場人物ではない。ただの傍観者なのだから。


「嬢ちゃん、まずは宿を探さねえとな! ギルドマスターから聞いてるぜ、中央区の一番いい宿を手配してあるってな!」


 ギルドマスターの不器用な心遣い。私はその温かさに、少しだけ口元を緩めた。

 馬車は王都の中でもひときわ賑わう、中央区の目抜き通りへと入っていく。道の両脇には、貴族御用達の高級宝飾店や仕立て屋がずらりと軒を連ねていた。

 私がまだ公爵令嬢だった頃、母に連れられて何度も訪れたことのある場所。あの頃はただ、退屈で息が詰まるだけの場所だった。


 でも、今は……。


 私の目はショーウィンドウに飾られたきらびやかな宝石よりも、その隣で営業している小さなパン屋の店先に釘付けになっていた。

 こんがりと焼き上がったたくさんのパン。ああ、あのパンはきっと王都で一番と評判の、最高級の小麦粉を使っているに違いない。

 どんな味がするのだろう。どんな香りがするのだろう。

 私のパティシエとしての好奇心が、むくむくと頭をもたげてくる。


 そんなことを考えていた、その時だった。


「ねえ、聞いた? あの『銀のしっぽ亭』のお菓子、今日ももう売り切れてしまったんですって」

「まあ、本当!? わたくし、日の出前から侍女を並ばせたというのに……!」

「うふふ、奥様、それではもう遅うございますよ。今やあの『奇跡の菓子』を手に入れるには、前日の夜から並ばないと、とてもとても……」


 ふと、私たちの馬車の横を通り過ぎていった着飾った貴婦人たちの、そんな会話が私の耳に飛び込んできた。

 ぴしり、と。

 私の体が固まった。


 ぎんのしっぽてい……?

 きせきのかし……?


 聞き間違いだろうか。そんなはずはない。

 でも、今確かにそう聞こえた。

 私は慌てて、貴婦人たちが去っていった方向を振り返る。しかし、彼女たちの姿はもう雑踏の中へと消えてしまっていた。


「……嬢ちゃん? どうしたんだ、急に黙り込んじまって」


 御者の男性が、不思議そうな顔で私を覗き込んでくる。


「……い、いえ。なんでもありません」


 私はどきどきと変な音を立て始めた胸を押さえながら、何とかそう答えるのが精一杯だった。

 気のせいだ。きっとそうだ。

 私のささやかなお店の名前が、こんな王都のど真ん中で噂になっているはずがない。

 私は必死に自分に言い聞かせた。

 でも、一度芽生えてしまった疑念の種は、まるでイースト菌みたいに私の心の中でどんどん膨らんでいく。

 馬車が目的の宿屋の前に着くまでのわずかな時間。その間にも私の耳は、信じられない言葉を次々と拾い上げてしまったのだ。


「おい、今日の賭けはどうする? 俺は『お菓子の聖女』様が、本当に建国記念祭に現れる方に金貨一枚だ!」

「馬鹿言え! あんな辺境の菓子職人が王宮に呼ばれるわけねえだろうが! 俺は現れない方に銀貨十枚!」


 酒場から出てきたのであろう、酔っ払った商人たちの下品な笑い声。


「あなた、聞いてちょうだい! 隣の奥様ったら『銀のしっぽ亭』のタルトを手に入れたとかで、それはもう大変な自慢だったのよ! 悔しいわ!」

「まあまあ、お母様。そんなことでお怒りにならないで。今度、私が必ず手に入れて差し上げますから」


 仲睦まじげな母と娘の会話。

 そのどれもこれもが、私の気持ちをぎゅうと鷲掴みにする。

 もう、聞き間違いなんかじゃない。

 行商人の男性が語っていた、あのどこか現実味のない、おとぎ話のような熱狂。それが今、現実のものとしてこの王都の空気の中に確かに存在している。


 嘘でしょう……?


 私のあずかり知らぬところで、物語は私の想像を遥かに超える速度で進んでしまっていたのだ。

 宿屋に荷物を置き、御者の男性に丁重な礼を言って別れた後も、私の頭の中はまるで泡立て器でめちゃくちゃにかき混ぜられたみたいにぐちゃぐちゃだった。

 少し頭を冷やさなくては。

 私はシュシュと従者に変装したビスキュを伴って、人混みを避けるように少しだけ裏通りへと足を踏み入れた。



 王都の裏通りは、表通りの華やかさが嘘のように、少しだけ生活感のある猥雑な空気があった。石畳の道もところどころひび割れている。それでも、フローリアのようなむき出しの生命力とは違う、どこか計算された雑然さ。

 私は深いフードを目深にかぶり、誰にも気づかれないように息を殺してその中を歩いていった。

 やがて、私たちは小さな市場のような場所へと迷い込んだ。表通りの高級店とは違う、庶民的な活気に満ち溢れた場所。新鮮な野菜や干し肉、それから安物の布地などが所狭しと並べられている。

 フローリアの広場を少しだけ思い出させる光景。

 私の気持ちがほんの少しだけ和らいだ、その時だった。


「へい、いらっしゃい! 焼きたてのパイだよ! 今、王都で大評判! あの『銀のしっぽ亭』の味を再現した特別なパイだ!」


 威勢のいい甲高い声。

 はっとその声がした方を見ると、そこには小さな露店があった。店の前には『元祖!銀のしっぽ亭のパイ!』などとデカデカと書かれた手書きの看板が、これ見よがしに掲げられている。

 そして、その台の上に並べられていたのは……。


「…………」


 私は言葉を失った。

 そこにあったのは、見覚えのある格子模様のパイだった。でも、その姿は私の知っている『森の恵みのパイ』とは似ても似つかない、無残な代物だった。

 焼き色はまばらで、ところどころ黒く焦げ付いている。格子模様はいびつにゆがんでいて、その隙間から覗くフィリングは毒々しい不自然な紫色をしていた。

 そして何よりも、そこから立ち上る匂い。甘いというよりも、油が焼けて焦げ付いたような、吐き気を催す不快な匂い。


「さあさあ、買った買った! これを食べなきゃ流行に乗り遅れちまうぜ!」


 店主の男はそんなこともお構いなしに、大声を張り上げている。何人かの客が物珍しそうに、そのパイを買い求めていた。


『……ご主人様』


 私の隣でビスキュの気配がわずかに変わった。そのいつもは穏やかな気配の中に、静かだが確かな怒りがこみ上げているのが、はっきりと伝わってきた。彼の土でできた体が、わずかにカタカタと動いている。

 無理もない。彼が毎日、どれほどの愛情を込めてあのパイを焼き上げているか。その彼の誇りを、目の前でこんなふうに無残に踏みにじられて。


「ぐるるるるるっ!」


 私の足元でシュシュも喉の奥で低く唸り声を上げ始めた。全身の銀色の毛が針のように逆立っている。今にも、あの店主の男に飛びかかっていきそうな勢いだ。


「……やめなさい、二人とも」


 私の唇から、自分でも驚くほど冷たくて静かな声がこぼれ落ちた。

 私は二人の頭をそっと手で制した。


「ここで騒ぎを起こすわけにはいかないわ」


 私の心の中は怒りよりも、もっと深い悲しみで満たされていた。

 私のあずかり知らぬところで、私の大切な子供たちがこんなふうに弄ばれている。

 でも、同時に理解もしていた。これこそが人気というものの、もう一つの醜い側面なのだと。

 私の作ったお菓子は、もう私だけのものではなくなってしまったのだ。


「……行きましょう」


 私はきびすを返すと、その場を足早に立ち去った。背後からまだ、あの店主の甲高い声が聞こえてくる。その声がまるで私の背中に泥を塗りつけてくるようで、たまらなく不快だった。



 宿屋に戻った後も、私の気持ちはどんよりとした灰色の雲に覆われたままだった。

 窓の外からは、王都の華やかで、どこか空っぽな喧騒が絶え間なく聞こえてくる。

 私はフードを目深にかぶり、自分の顔が誰にも見られないようにしながら街を歩いていた。


 そして、気がついた。


 私を見る人々の視線が、かつてとは全く違うものになっていることに。

 私がまだヴァロワ公爵令嬢だった頃。人々が私に向けていたのは、無関心か、あるいは家柄に対する儀礼的な中身のない敬意だけだった。


 私の内面になど、誰も興味はなかった。


 でも、今は違う。


 すれ違う人々が私に、ねっとりとした熱を帯びた視線を向けてくるのが分かった。

 私のことを見ているわけではない。私の隣を歩く銀色の美しい獣と、その後ろに従うフードを被った大柄な供の者。その、あまりにも変わっていて、物語的な組み合わせ。

 その視線には、かつてのような侮りや無関心な様子はない。値踏みするような、それでいて何かを期待するような熱っぽい好奇心。そして、その奥にほんの少しだけ、得体の知れないものに対する畏敬の念のようなものが含まれている。


「……まさか、あの方が……」

「銀狼を連れた、辺境の聖女様……?」

「本物、かしら……?」


 ひそひそと交わされる囁き声が、私の耳にちくりと痛い。

 私は追放された公爵令嬢として、この都に戻ってきたはずだった。罪人として肩身の狭い思いをしながら、過去と対峙する覚悟をしていた。

 それなのに。

 どういうわけか私は、全く別の物語の、全く別の役を無理やり押し付けられてしまっている。


『辺境の聖女』


 なんて、滑稽で馬鹿げた響きだろう。

 私は聖女なんかじゃない。ただのお菓子を愛する、しがないパティシエだ。

 それなのに。

 この都の人々は私の中に、自分たちの都合のいい幻想を見ている。

 その、大きな、大きな勘違い。その、あまりにも重たい期待。

 それがまるで分厚い甘ったるいクリームを全身に塗りたくられたようで、息が詰まりそうだった。


 私は一体、誰なのだろう。

 追放された罪人なのか。それとも、奇跡を起こす聖女なのか。

 どちらも本当の私ではない。それなのに、この都では私はそのどちらかでいなくてはならない。

 足元がふわりと覚束なくなるような、不快な感覚。

 私は自分の存在が、この王都の熱っぽい空気の中にじわじわと形を失っていくような、そんな嫌な感じがしていた。


「……帰りましょうか」


 私はこれ以上、この空気に当てられていたくなかった。シュシュとビスキュを促して、早足で宿屋へと戻る。

 部屋の扉を閉めた瞬間、外の喧騒がぴたりと遠ざかった。

 私はその場にへなへなと座り込んでしまった。


「はあ……」


 心の底から、深いため息が漏れた。

 たった半日、この都を歩いただけなのに、まるで何日もダンジョンに潜っていたかのようにどっと疲労が押し寄せてくる。


『……ご主人様』


 ビスキュが何も言わずに、私の好きなカモミールのハーブティーを淹れてくれる。シュシュが私の膝の上にそっと、その銀色の頭を乗せてくる。

 二人のいつもと変わらない静かな優しさ。その確かな温かさだけが、この現実味のない浮ついた世界の中で、私をかろうじて繋ぎ止めてくれている唯一の支えのようだった。


「……ありがとう、二人とも」


 私はカップを両手でぎゅっと包み込んだ。その温かさが、私の冷え切った指先にじんわりと染み渡っていく。

 そうだ。

 どんなに周りが私を、聖女だの罪人だの勝手に祭り上げようと。

 私は私だ。お菓子を愛し、このかけがえのない家族を愛する、ただの一人のパティシエ。

 それだけは、何があっても変わらない。変えさせてたまるものか。

 私は窓の外に広がる、夕暮れに染まった王都の景色をじっと見つめた。

 あの美しい、しかしどこか冷たい王宮。そこで私を待ち受けている、過去との対峙。

 怖くないと言えば、嘘になる。

 でも、もう逃げないと決めたのだから。


「……見ていなさい」


 ぽつりと私の口から、自分でも驚くほど静かで、でも揺るぎない声がこぼれ落ちた。


「私が本当は、何者なのか。この王都の全ての人々に、教えてあげる。私のやり方で、ね」


 私のやり方。

 それはもちろん、たった一つしかない。

 この世界で、一番甘くて幸せな魔法で。


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