第三十六話:旅の準備と仲間たちの想い
王宮からの召喚状。
それは、私の穏やかだったはずの日常に投げ込まれた、一粒の、しかし無視できない大きさの石ころだった。波紋は静かに、でも確実に、私の足元から広がっていく。
フローリアの町の温かい人々。私の作るお菓子を心から愛してくれる、たくさんの笑顔。その全てを、この不穏な波紋が飲み込んでしまう前に、私は行かなくてはならない。あの、忌まわしい過去が待つ場所へ。
王都へ行く。
三人で、一緒に行く。
そう心に決めたものの、一夜明けた厨房で、私の頭の中は、まるで材料をめちゃくちゃにかき混ぜて分離させてしまったバタークリームのように、どうしようもなく混乱していた。まず、何から手をつければいいのだろう。
旅の準備。お店のこと。そして何より、ビスキュのこと。
考えなくてはならないことが山のように積み重なっていて、どこから手をつけていいのか皆目見当もつかなかった。
「……ふう」
私は厨房の椅子に深く腰掛け、まだ火の入っていない石窯の黒い口をぼんやりと見つめていた。朝日が大きなガラス窓から差し込み、ぴかぴかに磨き上げた床に柔らかな光の四角形を描いている。その、いつもと変わらない穏やかな光景が、逆に私の心の乱れを際立たせるようだった。
『……ご主人様』
ふと、背後からそんな気配がして、私はゆっくりと振り返った。
そこにはいつの間にか、私の忠実な助手であるビスキュが音もなく静かに立っていた。彼は何も言わずに、私の前に一枚の粘土板をそっと差し出した。昨日、私が緊急連絡用にと渡した、あの小さな粘土板だ。
でも、その表面には何かが描かれていた。ビスキュの、不器用だけれど丁寧な線で。
それは、三つの丸いかたまりだった。
一番大きなものは私。その隣に寄り添う少し小さなものはビスキュ。そして、私の足元で丸くなっているもっと小さなものはシュシュ。
三つの姿が、しっかりと手を繋いでいるように見えた。
あまりにも素朴で温かい絵。
ビスキュの声にはならない、しかしあまりにもまっすぐな想いが、その絵を通してじんわりと私の心に伝わってきた。
『大丈夫です、ご主人様。私たちは一緒です』と。
「……ありがとう、ビスキュ」
私の唇から、か細い声が漏れた。
そうだ。私は一人じゃない。
こんなにも頼もしくて優しい家族が、そばにいてくれるのだから。
ごちゃごちゃになっていた思考が、まるで丁寧に濾されたコンソメスープのように、ゆっくりと澄み渡っていくのを感じた。やるべきことは、一つずつ、丁寧に片付けていけばいい。いつものお菓子作りと同じように。
「わふん!」
私の決意が伝わったのか、足元でうとうとしていたシュシュがぱちりと目を開け、力強く一声鳴いた。
私はカップに残っていたハーブティーを一気に飲み干すと、椅子から勢いよく立ち上がった。
もう、迷っている時間はない。やるべきことは決まっているのだから。
「よし、始めましょうか! 旅立ちの準備よ!」
私のその声に、ビスキュはこくりと力強く頷き、シュシュは私の周りを嬉しそうに駆け回り始めた。
◇
まず取り掛かったのは、一番の懸案事項であるビスキュの『変装』だった。
この世界では、冒険者が獣やゴーレムを従者として連れていることは、決して珍しいことではない。私の供の者として、彼を王都へ連れて行くこと自体は可能だろう。しかし、問題は場所だ。これから私たちが向かうのは、魑魅魍魎がうごめく王宮。そこは、力ではなく、家柄と体裁が全てを支配する世界。
私の出自はすでに知られている。辺境に追放された公爵令嬢。
その私が、土くれで作られた異形のゴーレムを連れて現れたら、どうなるだろう。貴族たちの陰湿な好奇の目に晒されるのは目に見えている。
『辺境の出は、供の者も土くれ人形とは、なんと野蛮な』
そんな嘲笑が聞こえてくるようだ。私を貶めようとする者たちにとって、ビスキュの存在は格好の的になるに違いない。
ただでさえ招かれざる客なのだ。余計な火種は、一つでも減らしておくに越したことはない。私の大切な家族を、あの者たちの醜い争いの道具にさせてたまるものか。
「……よし。試してみる価値は、ありそうね」
私は店の裏庭から、質の良いきめ細かい粘土を少量運んできた。そして、その粘土に私のマナをそっと流し込んでいく。
イメージするのは、人間の滑らかで温かい肌の感触。刺繍や作法の授業で、傷一つない白魚のような手であることが求められた、あの公爵令嬢だった頃の自分の指先。
粘土の色がほんのりと、健康的な肌色へと変わっていく。
それを薄く、薄く、まるで最高級のファンデーションを塗るみたいに、ビスキュの腕にそっと塗り広げてみた。
すると、どうだろう。
ざらりとしていたはずの土の表面が、まるで魔法のようにすうっと滑らかな質感へと変わっていったのだ。光の当たり具合によっては、ほんのりと艶さえ感じられる。触れてみると、ひんやりとした土の感触ではなく、確かに人肌に近い温かみがじんわりと感じられた。
「……すごいわ」
思わず感嘆の声が漏れた。
これなら、いけるかもしれない。
私は同じように、ビスキュの全身にその特別な粘土を丁寧に塗り広げていった。
もちろん、これで完全に人間だと騙せるわけではない。動きは、どうしてもぎこちないだろうし、何より顔がない。
でも、上からゆったりとしたローブを着せて顔を隠すための深いフードを被せれば、遠目には大柄な無口な供の者くらいには見えるかもしれない。
「ビスキュ、どうかしら? 気分は悪くない?」
私が尋ねると、ビスキュは自分の新しい『肌』になった腕を不思議そうに何度も見つめていた。そして、ぶんぶんとその土の頭を横に振ってみせた。どうやら違和感はないらしい。
「よかったわ。これで、第一関門は突破ね」
次に、彼に着せる服だ。
町で一番大きな服屋に行って、一番大きくて丈夫そうな、旅人用のフード付きのローブを一枚購入した。色は汚れが目立たない、濃い茶色。
それをビスキュに着せてみると、まるであつらえたみたいにぴったりだった。深いフードを被せると、彼ののっぺらぼうの顔は完全に暗がりの中に隠れてしまう。
これなら一見しただけでは、彼がゴーレムだとは誰も気づかないだろう。
「うん、非の打ちどころがないわ、ビスキュ! これならあなたを、私の『荷物持ちの供の者』として連れていけるわ!」
私がぱんと手を叩いて言うと、ビスキュはその場で深々ととても丁寧にお辞儀をした。その姿は、もう完全にどこかの貴族に仕える忠実な供の者そのものだった。
シュシュが物珍しそうに、ビスキュのローブの裾をくんくんと嗅ぎ回っている。
◇
ビスキュの問題が片付いたら、次はお店のことだ。
ひと月もの間、この『銀のしっぽ亭』を閉めておくわけにはいかない、という考えはすぐに捨てた。
私の代わりなどいないし、ビスキュもいないこの店を、誰かに任せることなど到底できなかったからだ。
答えは一つ。
潔く、休む。
私は店の扉に貼り出すための、大きめの木の板を用意した。そして、その表面に、魔法でインク代わりの炭の粉を定着させ、一文字一文字、心を込めて言葉を綴っていった。
『大切なお客様へ。
誠に勝手ながら、店主都合により、本日よりひと月ほど、お店を休業させていただきます。
皆様には、大変ご迷惑をおかけいたしますことを、心よりお詫び申し上げます。
必ず、もっと美味しくて、皆様を笑顔にできるような新しいお菓子を携えて、この場所に戻ってまいります。
その日を、どうか、楽しみにお待ちいただけますと幸いです。
『銀のしっぽ亭』店主 エステル』
書き終えた文章を、私はしばらくの間、じっと見つめていた。
嘘は一つもない。必ず帰ってくる。そして、もっと美味しいお菓子を作る。
それは、お客様への、そして何より、私自身への誓いだった。
◇
休業の知らせを貼り出す前に、私は冒険者ギルドへと足を運んだ。国王陛下からの召喚状が届いたこと、そして王都へ旅立つことを、ギルドマスターに報告するためだ。彼は私の話を聞くと、予想通り、苦虫を噛み潰したような顔になった。
「……ちっ。やっぱり、そう来たか。あの王都の連中め、面倒なことを押し付けやがって」
彼は吐き捨てるようにそう言ったが、その目は私の身を案じているのが分かった。
「まあ、勅命とあらば、俺たちに止める権利はねえ。だがな、嬢ちゃん。王都ってのは、フローリアみてえに、単純な場所じゃねえ。魑魅魍魎がうごめく、伏魔殿だ。くれぐれも、油断するんじゃねえぞ」
「はい。肝に銘じておきます」
「それから、こいつを持ってけ」
彼は、カウンターの奥から、一つの小さな革袋を取り出すと、私に手渡した。中には、ずしりと重い金貨が数枚入っていた。
「餞別だ。王都じゃ、何かと物入りだろうからな。……返さなくていい。お前さんのお菓子に免じての先行投資さ。お前さんが、無事に、このフローリアに帰ってくることへのな」
彼の、不器用な優しさ。私の胸が温かいもので満たされていく。
「……ありがとうございます、ギルドマスター。必ず、戻ってまいります」
私が深く頭を下げると、彼は「ふん」と鼻を鳴らして、そっぽを向いてしまった。
ギルドからの帰り道。
店の前に『休業のお知らせ』の札を貼り出していると、どこからともなく噂を聞きつけたのか、人だかりができていた。赤毛の冒険者さんたちを始め、いつも店に来てくれる常連客の顔がそこにはあった。誰もが心配そうな、でも、どこか誇らしげな顔で私を見つめている。
「店主! 聞いたぜ、王都に行くんだってな!」
「ひと月もあんたの菓子が食えねえのは辛いが、仕方ねえ! 国王陛下に、俺たちの聖女様のお菓子を、自慢してきてくれよ!」
「大丈夫だ! 店主なら、王都の奴らなんて、目じゃねえ!」
口々に、温かい声援が飛んでくる。
それだけではなかった。
「嬢ちゃん、これ持ってきな! 旅の間の腹の足しになるだろう!」
「うちで採れた干し肉だ! 硬いが、日持ちはするぜ!」
「これは、俺が編んだお守りだ! 気休めかもしれねえが、きっとあんたを守ってくれる!」
人々は、次から次へと、私に餞別の品を手渡してくれた。干し肉、硬いパン、乾燥させた果物、そして手作りのお守り。
その、あまりにも温かくて、力強い想い。
私は、もう、涙をこらえることができなかった。ぽろぽろと、熱い雫が次から次へと頬を伝っていく。
私は、集まってくれた人々に向かって、深く、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます! 皆様、本当に、ありがとうございます! 私、必ず、この場所に、帰ってきます! もっと、もっと、美味しいお菓子を、皆様にお届けするために!」
私のその声は、涙で震えていたけれど、そこには確かな決意が込められていた。
フローリアの町の、温かい声援を背中に受けて、私は私の城へと足を速めた。
旅立ちの前に、まだやるべきことが残っているのだから。
◇
王都へ旅立つ前日の夜。
『銀のしっぽ亭』は、いつもとは違う、静かで、しかしどこか神聖な熱気に満ちていた。
私とビスキュは、黙々と、この愛しい城の大掃除を進めていた。それは、ただの掃除ではない。ひと月もの間、留守にするこの場所への、感謝と敬意を込めた、一つの儀式だった。
「ビスキュ、石窯の中はお願いできるかしら。隅々まで、煤を綺麗に落としてちょうだい」
ビスキュは「お任せください」とでも言うように、こくりと一つ頷くと、小さなブラシを手に、巨大な石窯の中へとその身を滑り込ませた。その姿は、まるで巣穴を掃除する働き者のアリのようだ。
私は、ぴかぴかに磨き上げた調理台を、もう一度、乾いた清潔な布で、きゅっきゅと音を立てて拭き上げていく。この台の上で、どれだけたくさんの幸せが生まれただろう。
「わふん!」
シュシュも、ただ遊んでいるわけではない。彼は、小さな布巾を口にくわえて、床の隅の方を一生懸命に拭いていた。もちろん、綺麗になるどころか、彼のよだれで少し濡れてしまうだけなのだけど、その健気な気持ちが嬉しくて、たまらなかった。
泡立て器、ゴムベラ、麺棒、そしてたくさんの焼き型たち。
その一つ一つを丁寧に手洗いし、水気を完全に拭き取ってから、酸化を防ぐための薄い油を塗り、柔らかな布でそっと包んでいく。
まるで、大切な宝物を、一つ一つ、宝箱にしまっていくような作業。
次にこの子たちに会う時には、私はもっと成長していなくては。もっと、素晴らしいお菓子を、この子たちと一緒に生み出せるようになっていなくては。
その想いが、私の指先に力を与えてくれた。
厨房の掃除が終わると、今度は店のホールだ。
お客様たちがいつも座ってくれる、温かみのある木のテーブルと椅子。その一つ一つを、感謝の気持ちを込めて、ぴかぴかに磨き上げる。大きなガラス窓のショーケースも、内側から外側から、一点の曇りもなくなるまで拭き清めた。
最後に空っぽになったショーケースと、壁の棚、そしてテーブルセットの上に、ほこりが被らないように、真っ白な大きな布を、ふわりと掛けていく。
まるで長い眠りにつくお姫様に、そっと絹の布団を掛けてあげるかのように。
全ての準備が終わったのは、夜がもうすっかり更けた頃だった。
がらんとして、白い布に覆われた店内は、まるで誰もいない美術館のように、しんと静まり返っていた。でも、その空気は少しも寂しくはなかった。隅々まで磨き上げられた空間は、清らかで、どこか神聖な気配に満ちていた。
いつでも、「ただいま」と帰ってこられるように。
いつでも仕事を、ここからまた始められるように。
私たちの城はいつまでも使用できる状態で、私たちの帰りを待っていてくれるだろう。
◇
最後の夜。
私たちは、がらんとした、でも清潔な厨房の床に車座になって座り、ささやかな夕食をとった。
常連客の皆さんが差し入れてくれた、干し肉と硬いパン、そして温かいスープだけ。お世辞にも豪華とは言えないけれど、その一つ一つに、人々の温かい想いが詰まっている。世界で一番、美味しい食事がした。
食事が終わると、私たちは暖炉の前に移動した。ぱち、ぱち、と薪のはぜる音だけが、静かな部屋に響いている。
私は、揺れる炎を見つめながら、隣に寄り添う、かけがえのない二人の家族の顔を、そっと見つめた。
言葉はいらなかった。
ただ、こうして、同じ時間と、同じ温かさを分かち合えること。それが、何よりも尊い宝物だと、心の底から思った。
「……ありがとう、二人とも」
ぽつりと、私の口から、感謝の言葉がこぼれ落ちた。
「あなたたちがいてくれなかったら、私は、きっと、ここまで来られなかったわ」
ビスキュが、私の言葉に、そっと、その大きな土の手を、私の手に重ねてきた。その、不器用な温かさ。
シュシュが、私の膝の上に、その銀色の頭を、こてんと乗せてきた。その、確かな重み。
二人の想いが、言葉以上に、私の心に、じんわりと染み渡っていく。
「行ってまいります」
私は、炎に向かって、静かに、しかし、力強く、そう誓った。
「行ってきます」ではない。
必ず、この場所に帰ってくるという、固い決意を込めて。
夜明け前。
まだ深い眠りについているフローリアの町の静かな夜道を、私たちは、そっと足を踏み出した。
旅支度を整えた小さな鞄を肩にかける。隣には同じように小さな荷物を背負ったシュシュ。そして、その後ろにはフードを目深に被り、大きな荷物を背負った無口な供の者、ビスキュ。
私は一度だけ、背後を振り返った。
暗闇の中に静かに佇む、私の城、『銀のしっぽ亭』。その屋根が、昇り始めた太陽の、一番最初の光を受けて、ほんのりと、薔薇色に輝いていた。
「……必ず、帰ってくるからね」
私は、心の中で、もう一度、そう呟いた。
そして、二度と振り返ることなく、東へと続く道を踏み出した。
目指す場所は、私の過去が、そしておそらくは私の未来が待ち受けている、巨大な都。
王都クレルモンへ。




