第三十五話:王宮からの召喚状
穏やかな日々がゆっくりと過ぎていった。
けれど、その穏やかな日常が、ぴしり、と音を立ててひび割れたのは、それから数週間後の、よく晴れた昼下がりのことだった。
店の扉についたベルが、ちりん、と鳴るいつもの音とは違う、何か重々しい響きを伴って開かれた。
店内に満ちていた甘い香りと、お客様たちの和やかな談笑が、まるで冷水を浴びせられたみたいに、一瞬で凍りつく。
そこに立っていたのは、見慣れない制服に身を包んだ、二人の男性だった。
ぴしりと糊のきいた上等な生地の制服。腰には、儀礼用であろう、装飾の施された剣。その表情は硬く、一切の感情を読み取らせない。
一目で分かった。彼らはただの町の衛兵じゃない。王宮に仕える、近衛の騎士だ。
「……いらっしゃいませ」
私の声が、自分でも驚くほど、わずかに震えた。笑顔を作ろうとしても、頬の筋肉がうまく動かない。
ビスキュが、私の前に、すっと音もなく立ちはだかる。まるで私を守る盾になるかのように。シュシュも、私の足元で、喉の奥で低く、ぐるる……と唸り声を上げ始めた。
店の中にいたお客様たちも、ただならぬ雰囲気を察して、息を殺して成り行きを見守っている。
近衛騎士の一人が、冷たい、温度のない声で言った。
「パティスリー『銀のしっぽ亭』店主、エステル殿でお間違いないかな」
「……はい。左様でございますが」
私は、ごくりと唾を飲み込んだ。
体の芯が、まるで石窯の中で冷やされたパン生地みたいに、きゅっと冷たく固まっていく。
なぜ、王宮の騎士が、こんな辺境の、ささやかなお菓子屋に?
私の頭の中を、行商人の男性が語っていた、あの不穏な噂話が、まるで黒い染みのようにじわりと広がっていく。
『王都じゃ今、もう一人の『聖女』様が、そりゃあもう、大変な持て囃されようだ』
『民衆の間でな、今、二人の『聖女』を比べる声が、熱っぽく囁かれてるんだよ』
『あんたが望むと望まざるとにかかわらず、王都の連中は、あんたを、この物語の主役に、引きずり出そうとしてるんだ』
まさか。そんなはずは。
私のあずかり知らぬところで進んでいた物語が、ついに、私の、このささやかで温かい城の、すぐ足元まで押し寄せてきてしまったというのだろうか。
近衛騎士は、私の動揺など全く意に介さない様子で、懐から、一枚の、分厚い羊皮紙を取り出した。その羊皮紙には、見たこともないくらい、立派で複雑な紋様の赤い封蝋が厳重に施されている。
王家の紋章。
「国王陛下よりの、勅命である」
騎士は、その羊皮紙を、恭しく両手で捧げ持つと、厳かな声で、そこに書かれた内容を読み上げ始めた。
「『国王陛下の御名において、パティスリー『銀のしっぽ亭』店主エステルに命ずる。きたる建国記念祭の晩餐会に参上し、その技を披露、王家並びに貴族一同に『奇跡の菓子』を献上すべし』。……以上である」
しんと静まり返った店内に、騎士の、冷たくて抑揚のない声だけが、まるで冷たい石を投げ込むように響き渡った。
奇跡の菓子。
おそらく、『天使のくちどけ』のことを指しているのだろう。
建国記念祭の、晩餐会。王侯貴族が、一堂に会する、この国で最も華やかで格式の高い、祝宴の席。
そこで、私の腕を披露しろ、と?
事実上の命令。国王陛下からの勅命。断ることなど許されない。
私の頭の中が、真っ白になった。まるでメレンゲを泡立てすぎて、分離してしまったバタークリームみたいに、思考がばらばらになっていく。
王都へ行く?
私が全てを捨ててきた場所に?
私を、奈落の底へと突き落とした、人々の前に、再び、姿を現す?
レオン。
クロエ。
もう思い出したくもない、忌まわしい記憶が、まるで腐臭のように私の心の奥底からむわりと立ち上ってきた。
嫌だ。行きたくない。
私は、もう、あの世界とは、何の関係もない。私の居場所は、ここなのだから。
「……お受け取り、願いたい」
騎士が感情のこもらない声で、その羊皮紙を私に差し出した。
重々しい赤い封蝋。それが、まるで私の過去と未来をがんじがらめに縛り付ける、冷たい鎖のように見えた。
私の指先が、かすかに震えているのが、自分でも分かった。
でも、ここで受け取りを拒否すれば、どうなる?
国王陛下の命令に逆らうということ。それは反逆罪にも等しい大罪だ。
私一人の身なら、まだいい。
でも、このお店が?
ビスキュやシュシュが?
そして、私を温かく受け入れてくれた、このフローリアの町の人々が?
私の個人的な感情のために、彼らを危険に晒すわけにはいかない。
「…………了解いたしました」
私の唇からこぼれ落ちたのは、自分でも驚くほど、か細くて力のない声だった。
私は、まるで鉛の塊を持ち上げるように重くなった腕をゆっくりと持ち上げ、その運命の羊皮紙を受け取った。
ずしりとした、紙とは思えないほどの重み。
それが、私の穏やかだったはずの未来に、どす黒い影を落としていくのを感じていた。
騎士たちは、私が羊皮紙を受け取ったのを確認すると、何の感情も見せずに、一度深く頭を下げた。
「では、我らは、これにて。……建国記念祭は、ひと月後。それまでに、王宮へ、お越しいただきたい。詳しい日程は、追って、ギルドを通じて通達があるだろう」
それだけを一方的に告げると、彼らはまるで来た時と同じように、何の感情も見せずに、くるりと背を向け、店を後にしていった。
後に残されたのは、しんと静まり返った店内に漂う甘い香りと、その中にぽつんと取り残された、私と二人の家族、そして呆然と立ち尽くす、数人のお客様たちだけだった。
誰も口を開かない。
ただ、重たい沈黙だけが、店の中を息苦しく満たしていた。
◇
その日の営業は、早めに切り上げることにした。
店先に『本日は閉店いたしました』という札をかけると、私は厨房の椅子に、どさりと力なく座り込んだ。
ビスキュが、何も言わずに、私の好きなカモミールのハーブティーを淹れてくれる。シュシュが、私の膝の上に、そっとその銀色の頭を乗せてくる。
二人の静かな優しさが、今は逆に少しだけつらかった。
「……どうしよう」
ぽつりと、私の口から、ため息と共に、言葉がこぼれ落ちた。
行かなくてはならない。それは、もう決まってしまったこと。
でも、どうやって?
王都までの長い旅路。このお店は? ビスキュは? シュシュは?
それに、あの王都で何が待ち受けているか分からない。私を陥れようとした、あの女が黙っているはずがない。
もしかしたら、これは巧妙に仕組まれた罠なのかもしれない。私を王都へとおびき寄せて、今度こそ完全に社会的に抹殺するための。
そう考えると、背筋がひやりと冷たい汗に濡れるのを感じた。
「ぐるる……」
私の不安を感じ取ったのか、膝の上のシュシュが、心配そうな声を出して、ぺろりと私の頬を舐めてくれた。その温かくて、ざらりとした舌の感触。それに、はっと我に返る。
そうだ。私は、もう一人じゃない。
私には、このかけがえのない、二人の家族がいる。
彼らがいれば、どんな困難だって、きっと乗り越えられるはずだ。
逃げる? 隠れる?
そんなのは、私らしくない。
私は、パティシエだ。どんなに難しい課題だって、最高の材料と最高の技術で、正面からぶつかっていく。
それが、私のやり方だ。
「……決めました」
私は、椅子から、ばっと勢いよく立ち上がった。ビスキュとシュシュが、驚いたように、ぱちくりと私を見上げている。
「王都へ行きます。三人で一緒に行きましょう」
「わふん!」
シュシュが、待ってました、とばかりに、頼もしく一声鳴いた。
ビスキュも、こくりと、一つ、力強く頷いた。
その姿にはもう何の不安も感じられない。
彼なら、どんな場所でも私の最高の盾となり、最高の助手となってくれるはずだ。
でも。一つ、大きな問題があった。
シュシュはともかく、ビスキュをどうやって王都へ連れていくか。彼はゴーレムだ。
この世界では、冒険者が獣やゴーレムを連れていることは、そう珍しいことではない。私の従者として王宮に入ることも、理屈の上では可能だろう。けれど、ここは戦場ではなく、魑魅魍魎がうごめく王宮だ。
そのあまりにも特異な姿は、貴族たちの陰湿な好奇の目に晒されるだろう。『辺境の出は、供の者も土くれ人形とは、なんと野蛮な』などと、足の引っ張り合いの格好の的になるに違いない。
私を陥れようとする者たちが、ビスキュの存在をどう利用してくるか分からない。ただでさえ招かれざる客なのだ。余計な火種は、一つでも減らしておくに越したことはない。
「……うーん」
私は腕を組んで考え込んだ。何かいい方法はないかしら。
ビスキュの素焼きのビスケットみたいな温かみのある体。どこからどう見ても、人ではない。
でも、もし、彼がもっと人に近い姿をしていたら?
例えば、そう……。
私の頭の中に、ふと、一つのとんでもないアイデアがぱっと閃いた。
私の土魔法は、ただ形を作るだけじゃない。その性質そのものを、書き換えることだってできる。石を木材のような質感に変えたように。
だとしたら。
ビスキュの、その土の体を、一時的に人間の肌のような質感に見せかけることはできないだろうか。
服を着せて顔を隠せば、もしかしたら……。
「……よし。試してみる価値は、ありそうね」
私は、ビスキュに向かって、にやり、と悪戯っぽく笑ってみせた。
「ビスキュ。少しだけ、我慢してちょうだいね。今から、あなたに、ちょっとした『変装』を施してあげるから」
ビスキュは、何が始まるのか全く分からない、といった顔で、不思議そうに首を傾げていた。そのあまりにも無垢で愛らしい様子。
私は思わず、くすりと笑ってしまった。
◇
王都へ向かう決意を固めた翌日。
私はまず、冒険者ギルドへと足を運んだ。国王陛下からの召喚状が届いたことを、ギルドマスターに報告するためだ。彼は私の話を聞くと、予想通り、苦虫を噛み潰したような顔になった。
「……ちっ。やっぱり、そう来たか。あの王都の連中め、面倒なことを押し付けやがって」
彼は吐き捨てるようにそう言ったが、その目は私の身を案じているのが分かった。
「まあ、勅命とあらば、俺たちに止める権利はねえ。だがな、嬢ちゃん。王都ってのは、フローリアみてえに、単純な場所じゃねえ。魑魅魍魎がうごめく、伏魔殿だ。くれぐれも、油断するんじゃねえぞ」
「はい。肝に銘じておきます」
「それから、こいつを持ってけ」
彼は、カウンターの奥から、一つの小さな革袋を取り出すと、私に手渡した。中には、ずしりと重い金貨が数枚入っていた。
「餞別だ。王都じゃ、何かと物入りだろうからな。……返さなくていい。お前さんのお菓子に免じての先行投資さ。お前さんが、無事に、このフローリアに帰ってくることへのな」
彼の、不器用な優しさ。私の胸が温かいもので満たされていく。
「……ありがとうございます、ギルドマスター。必ず、戻ってまいります」
私が深く頭を下げると、彼は「ふん」と鼻を鳴らして、そっぽを向いてしまった。
ギルドからの帰り道。
店の前には、いつの間にか、人だかりができていた。赤毛の冒険者さんたちを始め、いつも店に来てくれる常連客の顔がそこにはあった。誰もが心配そうな、でも、どこか誇らしげな顔で私を見つめている。
「店主! 聞いたぜ、王都に行くんだってな!」
「国王陛下に、俺たちの聖女様のお菓子を、自慢してきてくれよ!」
「大丈夫だ! 店主なら、王都の奴らなんて、目じゃねえ!」
口々に、温かい声援が飛んでくる。
私は、もう、涙をこらえることができなかった。ぽろぽろと、熱い雫が次から次へと頬を伝っていく。
私は、集まってくれた人々に向かって、深く、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます! 私、必ず、この場所に、帰ってきます! もっと、もっと、美味しいお菓子を、皆様にお届けするために!」
私のその声は、涙で震えていたけれど、そこには確かな決意が込められていた。
フローリアの町の、温かい声援を背中に受けて、私は私の城へと足を速めた。
旅立ちの準備は、もう始まっているのだから。




