第三十四話:王都を揺るがす二人の聖女
朝の空気がひんやりと澄み渡る頃になっても、『銀のしっぽ亭』の開店前の熱気は少しも衰えることがなかった。
私の店の扉のベルが鳴り響くのが、新しい一日の始まりの合図だ。
「いらっしゃいませ! パティスリー『銀のしっぽ亭』へ、ようこそ!」
「店主、聞いたぜ! あんたの菓子が、王都でとんでもねえことになってるらしいじゃねえか!」
開店と同時に飛び込んできた赤毛の冒険者さんは、挨拶もそこそこに興奮した様子でそう切り出してきた。どうやら、例の行商人から何かを聞いたらしい。
「まあ、噂好きなお客様ですこと。それよりも、今日は何になさいますか?」
「ちぇっ、つれねえな! だが、それもそうか! 王都の貴族様より、俺たち常連が先だよな! いつものやつを頼む!」
季節が一つ巡ろうとする中、私の新しい城であり夢の結晶であるこのお店は、すっかりフローリアの町に馴染み、なくてはならない存在として人々の日常の一部となっていた。
黄金の小麦から生まれる『天使のくちどけ』は店の看板商品となり、冒険者たちはそれを「聖女様の奇跡より幸せになれる」と笑い合う。その光景は、私の心をどんな高級な砂糖よりも甘く満たしていくのだ。
看板息子としてすっかり人気者のシュシュがお客様の足元を駆け回り、最高の助手であるビスキュが厨房と店を完璧に切り盛りしてくれる。
かけがえのない家族と共に築き上げたこの城での日々は順調そのもので、遠い王都での話なんて、どこか現実味のない出来事として私の心の中を通り過ぎていくだけ。
そんな日々に浸っていた。
◇
その穏やかな日常が、ぴしり、と音を立ててひび割れたのは、それから数週間後の、よく晴れた昼下がりのことだった。
店の扉についたベルが、ちりん、と、今まで聞いたことがないくらい、けたたましい音を立てて鳴り響いた。まるで何かに追われるように、一人の男性が、店の中へと転がり込んできたのだ。
「はあ、はあ……! て、店主! いたか!」
息を切らし、旅の埃にまみれていたのは、あの行商人の男性だった。
彼の顔は、前回会った時の、あの自信と興奮に満ち溢れたつややかな色とは比べ物にならないほど、血の気が引いて、思い詰めたような表情をしていた。
その目は、まるで大事な商品を全て盗まれてしまったみたいに、らんらんと、しかしどこか虚ろに揺れていた。
「まあ!今回はどうなさったのですか、そんなに慌てて」
彼の持ってくる話を受け流す準備運動をするかのように私は、ゆっくりと話掛けた。けれど、今回の彼もどうやら余裕がないらしい。
「どうしたもこうしたもねえよ! おい、店主!これまた、大変なことになっちまったんだぞ!」
彼は、ごくりと一つ、乾いた喉を鳴らした。
「なんでも王都で、とんでもねえことになってやがる!」
「まあ、またですか? この前、悪質な噂は解決したと伺いましたけれど」
私が冷静にそう返すと、彼は大げさに首を横に振った。
「ああ、あの黒い噂は、王妃陛下の一声ですっかり消えちまったよ! だがな、今度は、なんというか、別の騒ぎになっちまってるんだ!」
「性質が悪い、ですって?」
ビスキュが、私の淹れたハーブティーを、彼の前にことりと置く。彼はそれに気づく余裕すらないのか、前のめりになって、まくしたて続けた。
「あんたが俺に託した、あの『天使のくちどけ』! あれが、王都で、とんでもねえ奇跡を起こしちまったのは、前に話した通りだ。だがな、話はそれだけじゃ終わらなかった。あの噂が、ついに、王妃陛下だけじゃなく、国王陛下の耳にまで、はっきりと届いちまったんだよ!」
「国王陛下……!?」
さすがに、その言葉には、私も動揺を隠せなかった。
この国の頂点に立つ、絶対的な権力者。
そんな雲の上の存在が、私の作ったお菓子を?
ありえない。何か出来の悪い読み物の読みすぎだろう。
「ああ、そうだ! 王妃陛下が、あの祝祭の後、陛下に熱心に、あんたのケーキの話をされたらしい。『あれこそが、民に幸福をもたらす、真の奇跡ですわ』ってな。最初は、半信半疑だった陛下も、実際に一口お召し上がりになって、完全に虜になっちまった。今じゃ、王宮の食卓には、毎日、あんたの菓子が並ぶのが当たり前になってるって話だぜ!」
私は言葉を失った。
自分の知らないところで、自分の作ったお菓子が、そんなとんでもない場所へ行ってしまっているなんて。
それは嬉しいというよりも、もはや現実感がなくて、まるでどこか遠い国の、おとぎ話を聞いているみたいだった。
でも、彼の話は、それだけでは終わらなかった。
「そして、その話が、貴族たちの間で、とんでもねえ火種になっちまってるんだ!」
彼の声のトーンが、ふっと低くなった。その目が、真剣な光をたたえている。
「『辺境にこそ、本物の聖女がいる』。そんな声が、今や、貴族のサロンで、公然と囁かれてる。王妃陛下が、あんたの菓子を『奇跡』と呼んだことで、風向きは完全に変わっちまったんだ」
彼は、吐き捨てるように言った。
「今や、王宮は、真っ二つだ。これまで通り、聖女クロエ様を支持する、王太子殿下を中心とした一派。そして、あんたこそが『本物の聖女』だと主張する、王妃陛下を中心とした、新しい一派。その二つの派閥が、水面下で、そりゃあもう、バチバチにやり合ってるらしいぜ」
「派閥……ですって?」
私の頭の中が、冷たい水でも浴びせられたみたいに、急速に冷静になっていくのを感じた。
「ええ。そんな、馬鹿な話が……。私は、ただ、お菓子を作っているだけですのに」
「あんたがどう思おうが、関係ねえんだよ! 王都の連中は、あんたの菓子を、ただの美味い食い物だなんて、もう思っちゃいねえ! 新しい時代の幕開けを告げる、象徴みてえなもんに祭り上げちまってるんだ!」
お菓子が政治の道具にされている。
あまりにも、おぞましい現実。
私が作りたいのは、人を幸せにするお菓子。
誰かを蹴落としたり、権力争いのために利用されたりするためのものじゃない。それなのに。
私の想いとは全くかけ離れた場所で、私の作ったお菓子が、そんな風に利用されている。そう考えただけで、胃のあたりがずしりと重たくなるのを感じた。
「そして、そのせいで、一番割りを食ってるのが、誰だか分かるか?」
行商人の男性が、憐れむような目でそう言った。
「もちろん、あの、聖女クロエ様さ。あんたの評判が高まれば高まるほど、相対的に、彼女の権威は、日に日に、地に落ちていってる。最近じゃ、彼女の癒やしの儀式も、以前ほどの熱狂はねえらしい。『どうせ、派手な見世物だろう』ってな。貴族たちも、手のひらを返したように、彼女から距離を置き始めてる。今や、彼女の後ろ盾になってるのは、盲目的に彼女を信じ込んでる、あの哀れな王太子殿下くらいのもんだって話だぜ」
自業自得、という言葉が、私の頭の中に浮かんだ。
でも、不思議と、すっきりした気持ちにはならなかった。
ただ、ため息が心の底から漏れ出ただけだった。
「そうですか……」
私の、あまりにも冷静な反応に、行商人の男性は、少しだけ意外そうな顔をした。
「……おいおい、店主。もっと、喜んでもいいんじゃねえのか? 」
「いいえ。私は、誰かと争うために、お菓子を作っているのではありませんから」
私は、きっぱりと言った。
「私のお菓子は、ただ、食べた人が、少しでも幸せな気持ちになってくれれば、それでいいのです。誰かの立場を危うくするためにあるのでは、決してありません」
私のその揺るぎない言葉。
行商人の男性は、しばらくの間、ぽかんとした顔で私を見つめていた。
やがて、彼は、はあ、と天を仰ぐような深いため息をつくと、心底降参した、という顔で、がしがしと自分の頭を乱暴に掻きむしった。
「……参ったな。本当にあんたは俺の想像を、いつも超えてきやがる。そうか。そうだよな。だからこそ、あんたの菓子はこんなにも美味いんだ」
彼は、自分の浅はかさを恥じるように、少しだけ照れくさそうに笑った。
「悪かった、店主。野暮な話をしちまったな。だがな、もう、この流れは、誰にも止められねえ。あんたが望むと望まざるとにかかわらず、王都の連中は、あんたを、この物語の主役に引きずり出そうとしてるんだ。そのことだけは覚悟しといた方がいいぜ」
物語の主役。
なんて、おぞましい響きだろう。
私は、そんな誰かが作った筋書きの上で踊らされるのはこりごりなのだ。
◇
行商人の男性が、いつも以上に複雑な表情で店を後にした後。
私は、しばらくの間、カウンターの内側で、じっと立ち尽くしていた。
ぴかぴかに磨き上げたショーケースの中では、黄金色に輝く『天使のくちどけ』が、何事もなかったかのように、静かに鎮座している。
それを見ていると、たまらなく、悲しい気持ちになった。
どうして。
私はただ、美味しいお菓子を作りたかっただけなのに。どうして、私の想いは、こんな風に伝わってしまうのだろう。
『……ご主人様』
ふと、背後からそんな気配がして、私はゆっくりと振り返った。
そこには、私の忠実な助手であるビスキュが、音もなく静かに立っていた。その素焼きのビスケットみたいな手には、湯気の立つカップが一つ。中からは私の大好きなカモミールの優しい香りがふわりと立ち上っている。
「……ありがとう、ビスキュ」
カップを受け取って一口含むと、優しい甘さが、ささくれていた私の心に、じんわりと染み渡っていくようだった。
「わふん」
私の足元で、シュシュが、私の足にこつんと頭をすり寄せてきた。その温かさが、たまらなく愛おしい。
二人は、何も言わない。でも、その静かな優しさが、どんな慰めの言葉よりも私の心を温めてくれた。
そうだ。私の世界は、ここにある。
私の城は、このフローリアにある。
王都での騒動なんて、遠い国の嵐みたいなもの。私には関係ない。
そう思いたかった。
でも、行商人の男性の、あの最後の言葉が、まるで取り忘れた小骨みたいに、私の心にちくりと引っかかり続けていた。
『この流れは、誰にも止められねえ』
私のあずかり知らぬところで、物語は、勝手に、そして確実に進んでいる。
その、抗うことのできない、大きなうねりのようなものが、いつか、私の、このささやかで温かい城の、すぐ足元まで押し寄せてくるのかもしれない。
そんな、甘くて、少しだけほろ苦い予感を胸の奥にかすかに感じながらも、私は目の前の愛しい厨房に意識を戻した。
「さあ、ビスキュ、シュシュ!」
私は、ぱん、と景気付けに両手を叩く。
「明日の準備を始めましょうか! どんな嵐が来たって、私たちのお城が、揺らぐことはないのだから!」
私のわざと明るく張り上げた声。
それに、二人の家族は、いつもと変わらない、力強い返事を返してくれた。




