第三十三話:逆風の中に咲く誠実の花
偽りの噂という、冷たくて意地の悪い風が王都から吹いてきてから、数週間が過ぎた。
『銀のしっぽ亭』の日常は何も変わらない。
夜明けと共に厨房に立ち、ビスキュとシュシュと共に、心を込めてお菓子を焼く。
開店と同時に、お客様の笑顔と陽気な声で、店は満たされる。
穏やかで、満ち足りた日々。
でも、私の心の中には、まるでオーブンのガラス窓の向こうで焼き上がりを待つケーキみたいに、ほんの少しだけ、落ち着かない期待が、静かに膨らんでいた。
あの行商人の男性は、無事に王都へたどり着いただろうか。
私が託した、あの『天使のくちどけ』は、王都の人々の凍てついた心を、少しでも溶かすことができただろうか。
考えても仕方のないことだと頭では分かっていても、どうしても、心の片隅で、その答えを待ちわびている自分がいた。
「わふん?」
私の足元で、シュシュが不思議そうに首を傾げた。その琥珀色の瞳が『どうしたの、ため息なんてついて』と問いかけている。
「……ううん、なんでもないのよ、シュシュ」
私はしゃがみこんで、その小さな頭を優しくこすってやった。
そうだ。私には、この温かい日常がある。
それだけで十分すぎるくらい幸せなのだから。
そんな、ある日の午後のことだった。
店の扉についたベルが、ちりん、と、今まで聞いたことがないくらい、けたたましい音を立てて鳴り響いた。
「はあ、はあ……! て、店主! いたか!」
息を切らし、旅の埃にまみれていたのは、あの行商人の男だった。
彼の顔は、前回会った時の、あの青ざめて思い詰めたような表情とは比べ物にならないほど、興奮で真っ赤に上気している。
その目は、まるで巨大な金脈でも掘り当てたみたいに、らんらんと、熱っぽく輝いていた。
「まあ!どうなさったのですか、そんなに慌てて。まるで、ゴブリンの群れにでも追いかけられてきたみたいですよ?」
私の冗談めかした言葉にも、彼は笑う余裕すらないらしい。
カウンターに、どん、と両手をつくと、体を寄せて、まくしたてるように話し始めた。
「どうしたもこうしたもねえよ! おい、店主! 大変なことになっちまったんだぞ!」
彼は、ごくりと一つ、乾いた喉を鳴らした。
「あんたが俺に託した、あの『天使のくちどけ』! 王都で、とんでもねえ奇跡を起こしやがった!」
彼の話によれば、こうだった。
王都に戻った彼は、私の言葉通りに、コトを実行したらしい。
しかも、それはちょうど王宮で、貴族たちを招いた盛大な祝祭が開かれる日を狙ってのことだった。
「祝祭のメインイベントは、もちろん、あの聖女クロエ様による、癒やしの儀式だ。広場に集まった民衆の中から、運のいい病人が数人選ばれて、その奇跡の光を浴びるってわけさ。まあ、派手な見世物だよ」
彼は、少しだけ、馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「俺は、広場で一番目立つ場所に露店を構えた。そして、あんたから預かった、あの特別なケーキを、どんと、見せつけるように置いたんだ。もちろん、最初は誰も見向きもしねえ。周りは、聖女様の奇跡に夢中だからな」
目に浮かぶようだ。
着飾った貴族たち。熱狂する民衆。
その中心で、さも慈悲深い女神のように微笑んでいる、クロエの姿が。
「だがな、儀式が終わって、祝宴が始まった時が、勝負だった。俺は、用意しておいた一番上等な銀の皿に、あのケーキを一切れ乗せて、こう叫んだんだ。『辺境の聖女が起こした、もう一つの奇跡! お代は要らねえ! 舌に自信のある奴は、食ってみやがれ!』ってな」
彼のあまりにも大胆な行動。私は、思わず息を止めた。
「最初は、遠巻きに見てるだけだった連中も、そのただならぬ香りに、じわじわと、引き寄せられてきやがった。そして、一番最初に、それに食いついたのが、誰だと思う?」
彼は、悪戯っぽく、片方の目をつむってみせた。
「……まさか」
「そう、王妃陛下ご本人だ。お付きの侍女を連れて、お忍びで、広場の様子を見に来てたらしい。聖女様の儀式には、たいして興味もなさそうだったが、俺のケーキの前で、ぴたり、と足を止めやがった」
王妃陛下。
この国の母。私の知らない、雲の上の存在。
「侍女は、必死で止めてたぜ。『このような、得体の知れないものを、お口にするなど!』ってな。だが、王妃陛下は、ただ、うっとりと、そのケーキを見つめて、こうおっしゃった。『構いません。この香り……。ただの菓子ではないことくらい、私には分かります』と」
行商人の男性は、その時の光景を、まるで昨日のことのように、活き活きと身振り手振りを交えて、再現してみせる。
「そして、陛下は、俺が差し出した、その一切れを、ほんの少しだけ、その小さな口に運んだ。周りの奴らが、息を止めて、見守る中、な」
私の体も、いつの間にか、彼の話に引き込まれて、硬直していた。
「次の瞬間だ。陛下の、いつもは涼しげなその目が、信じられないってくらい、まんまるに見開かれた。そして、しばらくの間、夢でも見てるみたいに、呆然として……やがて、その頬を、一筋、涙が、すっと伝っていったんだ」
涙……?
「そして、陛下は、震える声で、こうおっしゃったんだ。祝祭の広場にいる、全ての者に、聞こえるくらい、はっきりとした声で」
彼は、ごくりと喉を鳴らして、声をひそめた。
「『……これこそが、聖女の奇跡の味ですわ』と……!」
その一言が、全ての始まりだった。
王妃陛下の、その魂の叫びのような一言が、祝祭の空気を、一変させたのだ。
「それから、どうなったと思う? もう、大変な騒ぎよ! 周りで見てた貴族たちが、我先にと、俺の露店に殺到しやがった! 『私にも、その奇跡を!』『陛下を泣かせた菓子とは、一体どんなものだ!』ってな!」
彼は、その時の狂乱ぶりを、心底愉快そうに、腹を抱えて笑った。
「用意してたケーキは、あっという間になくなっちまった。祝祭の主役だったはずの、あの聖女クロエ様は、完全にそっちのけよ。誰もが、辺境から届いた、奇跡のケーキの話題で、持ちきりさ。ざまあみろってんだ!」
私は言葉を失った。
自分の作ったお菓子が、自分の知らない場所で、そんな熱狂を巻き起こしているなんて。
それは嬉しいというよりも、もはや現実感がなくて、まるでどこか遠い国の、おとぎ話を聞いているみたいだった。
でも、彼の話は、それだけでは終わらなかった。
「祝祭での一件は、王都でのあんたの評判を、決定的なもんにしちまった」
彼の声のトーンが、ふっと低くなった。その目が、真剣な光をたたえている。
「『聖女クロエ様の奇跡より、辺境の菓子職人が作るケーキの方が、人々を幸せにする』。そんな声が、今や、貴族のサロンで、公然と囁かれてる。そして、例の、腹を壊したなんていう、黒い噂の出所も、すぐに割れちまった」
彼は、吐き捨てるように言った。
「やっぱり、あの聖女様一派の仕業だったのさ。あんたの評判に、嫉妬した連中が、金で雇ったごろつきに、嘘の噂を流させてたんだ。だがな、王妃陛下の一言で、風向きは完全に変わった。今じゃ、逆に、あの聖女様の方が、立場がかなり危うくなってるって話だぜ」
自業自得、という言葉が、私の頭の中に浮かんだ。
でも、不思議と、すっきりした気持ちにはならなかった。
ただ、深いため息が、心の底から漏れ出ただけだった。
「そうですか……」
私の、あまりにも冷静な反応に、行商人の男性は、少しだけ意外そうな顔をした。
「……おいおい、店主。もっと、喜んでもいいんじゃねえのか? あんたは、自分の腕一本で、あのいけ好かねえ聖女様に、ぎゃふんと言わせてやったんだぜ?」
「いいえ。私は、誰かと争うために、お菓子を作っているのではありませんから」
私は、きっぱりと言った。
「私のお菓子は、ただ、食べた人が、少しでも、幸せな気持ちになってくれれば、それでいいのです」
私の揺るぎない言葉。
行商人の男性は、しばらくの間、ぽかんとした顔で私を見つめていた。
やがて、彼は、はあ、と天を仰ぐような深いため息をつくと、心底降参した、という顔で、がしがしと自分の頭を乱暴に掻きむしった。
「……参ったな。本当に、あんたは、俺の想像を、いつも超えてきやがる。そうか。そうだよな。だからこそ、あんたの菓子は、こんなにも美味いんだ」
彼は、自分の浅はかさを恥じるように、少しだけ照れくさそうに笑った。
そして、ふと何かを思い出したように、懐から、分厚い羊皮紙の束を取り出した。
「ああ、そうだ。それから、こいつが、今回の、一番の土産だ」
それは、王都の様々な貴族の家紋が押された、注文書の束だった。
あまりの量に、私は目を丸くした。
「これは……?」
「見ての通り、注文書だ。王都の、舌の肥えた貴族どもから、あんたの菓子への、な。特に、あの『天使のくちどけ』は、どこの家でも、喉から手が出るほど、欲しがってる。いくら金を出してもいい、ってな」
金に糸目はつけない、という、貴族たちからの、熱烈なラブコール。
普通の菓子職人なら、飛び上がって喜ぶような話だろう。
でも、私は、その羊皮紙の束を彼にそっと押し返した。
「申し訳ありませんが、お断りいたします」
私のあまりにも、きっぱりとした返事に、今度は、行商人の男性が目を丸くする番だった。
「……はあ!? お、おい、店主! 何を言ってやがる! これは、とんでもねえ儲け話なんだぞ!」
「存じております。ですが、私の答えは、変わりません」
私は、にっこりと、花が咲くような笑顔を浮かべてみせる。
「このお店は、このフローリアの町の人々のために開いたお店です。ですから、いかなる時も、この町のお客様への供給を最優先とさせていただきます。王都の貴族様たちのために、この町の人々を、お待たせするわけにはまいりません」
私の、どこまでも頑固で、商売人としては、あまりにも不器用な答え。
行商人の男性は、しばらくの間、信じられないものでも見たかのように固まっていた。
やがて、彼は、腹を抱えて、がはははは、と、今日一番、大きな声で豪快に笑い出した。
「はははっ! 面白い! 嬢ちゃん、あんた、本当に面白いやつだな! 目の前にぶら下がった、金の山を蹴っ飛ばすたあ! 気に入った! ますます、あんたのことが気に入ったぜ!」
彼は、涙を拭いながら、大きく頷いた。
「ああ、いいとも! それでこそ、あんただ! 分かった! その心意気を俺が、王都の連中にきっちり伝えてきてやる!」
彼は、注文書の束を、無造作に自分の懐へとしまい込んだ。
「王都の連中はな、味だけじゃなく、店主様の心意気に惚れ込んでるんだ。それこそが、『本物の聖女』の証だってな」
彼は、自分のことのように、誇らしげにそう言った。
そのあまりにも、まっすぐで温かい言葉。なんだか少しだけ気恥ずかしくて、でも、心の底から嬉しくて。
私の頬が、ぽっと、焼きたてのスポンジケーキのように熱くなるのが分かった。
「よし! そんなことより、今日も美味い菓子をありったけ仕入れさせてもらうぜ!」
彼は、わざと明るい声を張り上げた。
こうして、王都から吹いてきた、冷たくて意地の悪い風は、いつの間にか、私の周りの温かい人々の心によって、春のそよ風のように穏やかで優しいものへと、変わっていた。
偽りの噂と、本物の味。
そして、それを支える温かい人々の心。
勝負は完全についた。




